第2章10話 副長の呼び方
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 総騎士団副長府庁舎――第一執務室
マリニーファ・ローレンは、第一執務室の扉が開いた瞬間、手を止めた。
レオンハルト・ヴァイスが入ってきた。
服装は乱れていない。
姿勢も崩れていない。
表情も、いつも通り整っている。
だが、目元には隈がある。
髪も、ほんの少しだけ整いきっていない。
おそらく、さっきまで仮眠室で寝ていたのだろう。マリニーファは、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
今日も、副長は働いている。
あんな姿になるまで、働いている。
それなのに、当たり前のような顔で第一執務室へ来て、当たり前のように書類へ目を向けようとしている。
自分は仕事をしている人が好きだ。仕事をして、疲れて、それでも次の仕事へ向かう人は、もっと目を離せない。
副長が働いているなら、自分も働かなければならない。
自分が働けば、書類が整う。
書類が整えば、副長へ渡せる。
副長は、それを見てくださる。
そうすれば、副長はさらに働く。
さらに働けば、さらに疲れる。
その姿を見れば、マリニーファはまた働ける。
とてもよい循環だった。
想像するだけで、手が止まらなくなる。
できることなら、一緒に残業もしたかった。副長が最後の書類を確認する隣で、自分も最後の台帳を整える。副長が疲れた声で短く指示を出し、自分がそれを受けて次の書類を差し出す。
とてもよい時間になるはずだった。
だが、それはいつも首席書記官に止められている。
『マリニーファさん。副長を理由に残業しないでください』
『ですが、私はまだ働けます』
『副長も働けてしまうので駄目です』
そう言われると、反論が難しい。
副長は働けてしまう。
それは事実だった。
レオンは机の前に立ち、置かれていた書類を一枚手に取った。
「イリス、昨日の残りはどこまで片づいた」
「第一執務室で整理できる分は、ほぼ終わっています。第二執務室と第三執務室に回す分も、分けてあります」
「分かった。こっちで見る分だけ寄越してくれ」
「全部はお渡ししません」
「なぜだ」
「副長が全部見るからです」
「必要なら見る」
「その必要を増やさないためです」
レオンは少し眉間を押さえた。
マリニーファは、その仕草を見て、また胸の奥が熱くなった。
目元に疲れがある。
髪も少しだけ乱れている。
声も、普段よりわずかに低い。
それでも仕事を見ようとしている。
やはり、副長は仕事が好きなのだ。
「副長」
思わず、マリニーファは立ち上がっていた。レオンがこちらを見る。
「何だ?」
返事をしてから、レオンはその若い書記官を見た。
顔は見たことがある。
第一執務室の若い書記官だ。
仕事が早い者の一人だったはずだ。ただ、名前まではすぐには出てこなかった。
第一執務室にいる者の数は、少なくない。さらに副長府が動き始めてからは、出入りする人間も増えている。覚えるべきことは、他にいくらでもあった。
「マリニーファさん」
横から、イリスが静かに言った。
「副長に何か?」
そうだ。
マリニーファ・ローレン。
第一執務室の若手書記官。
仕事はできる。
たしか、かなりできる。
レオンの認識は、その程度だった。
そのマリニーファが、妙に真剣な顔でレオンを見ている。やがて、顔を近づけて突然話しかける。気づけば、少し距離が近かった。
「私は、副長のことを、もう少し近しい呼び方でお呼びしたいです」
「近い、少し下がれ」
マリニーファは素直に半歩下がる。
「その件は、駄目だ」
「まだ呼び方を申し上げておりません」
「言う前から嫌な予感がする」
「では、理由を先に申し上げます」
「聞きたくない」
「副長は、私と同じ種類の方だと思うからです」
レオンは、書類を持ったまま止まった。
「同じ種類?」
「はい」
「何の話だ」
「仕事を愛する者同士、という意味です」
「違う」
レオンは即座に否定した。
マリニーファは、きょとんとした顔で首をかしげる。
「何がでしょうか?」
「俺は仕事を愛していない」
「そうなのですか」
「そうだ」
「ですが、副長は仮眠室で寝るほど仕事をなさっています」
「必要だからだ」
「必要なら、家にも帰らず仕事をするのか、という顔をするな。する時はある」
「好きでもないことのために、そこまでなさいますか」
「するしかないからしている」
「するしかないことを、最後までなさるのですよね」
「そうだ」
「仕事がお好きなのでは?」
「違う」
レオンは眉間を押さえた。
しかし、マリニーファは止まらなかった。
「副長は、書類を見捨てません」
「見捨てると後で増える」
「他の方が困っている仕事も、引き受けます」
「放っておくともっと面倒になる」
「必要なことは最後までなさいます」
「仕事だからだ」
「仕事だから、そこまでできるのですね」
「そうだ」
「では、仕事への関心がとても強い方なのですね」
「関心ではない。責任だ」
「責任で、仮眠室まで行きますか」
「行く時は行く」
「責任で、髪が少し乱れたまま第一執務室へ戻りますか」
「そこを見るな」
「責任で、帰りたいとおっしゃりながら書類を手放さないのですか」
「手放すと後で増えるからだ」
「手放せないほど、強く意識しているのですね」
「意識させられているだけだ」
「本当にどうでもよいものであれば、意識させられても手を抜けます」
「抜けない仕事もある」
「副長は、抜けない仕事が多すぎます」
「俺のせいではない」
「ですが、副長が見ています」
「見るしかないからな」
「見るしかないと言いながら、見ています」
「同じことを言うな」
「同じことをしているのは副長です」
レオンは、少しだけ言葉に詰まった。
マリニーファは、丁寧な声のまま続ける。
「副長は、仕事を批判なさいます」
「批判する」
「減らしたいともおっしゃいます」
「減らしたい」
「帰りたいともおっしゃいます」
「帰りたい」
「ですが、それだけ具体的に嫌がれるのは、それだけ仕事を見ているからではありませんか」
「見たくないから嫌なんだ」
「見たくないものを、毎日見ています」
「見せられている」
「見せられても、見ない人は見ません」
「……」
「副長は、見ます」
「……」
「嫌いだとおっしゃるのは、無関心ではいられないからだと思います」
「嫌いと関心をつなげるな」
「嫌うにも、関心が必要です」
「必要ない」
「本当に何とも思っていなければ、嫌いとも思わないのではありませんか」
「思うだろ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
「では、どうでもよい台帳の誤記を見つけた時、副長は放置できますか」
「それは直す」
「どうでもよいはずなのに?」
「後で困るからだ」
「では、困らないようにしたいのですね」
「当然だ」
「困らないようにしたい仕事を、最後まで見るのですね」
「そうだ」
「それを、私は大切にしているのだと思います」
「仕事をか」
「はい」
「俺が?」
「はい」
レオンは、思わず手元の書類を見た。
持っていた。
確かに、持っていた。
ついさっきまで仮眠室にいたはずなのに、第一執務室へ来て、当然のように書類を手に取っていた。
必要だからだ。
好きだからではない。
だが、好きではないなら、なぜこうも毎回拾ってしまうのか。
嫌いだ。
帰りたい。
減らしたい。
それは本心だ。
しかし、マリニーファの言葉を完全には否定しきれなかった。
「副長は、仕事を嫌っているようで、強く見ています」
「見たくない」
「見たくないのに、見ています」
「……」
「遠ざけたいのに、手を伸ばしています」
「……」
「減らしたいのに、整えています」
「……」
「そういうものを、ただ嫌いと言ってよいのでしょうか」
「……」
レオンは、少しだけ自分自身が信用できなくなった。
「イリス」
レオンは、ゆっくりとイリスを見た。
「俺は、周りからそう思われているのか」
「そう、とは」
「仕事が好きだと」
イリスは、手元の書類をそろえた。
少しだけ間を置く。
その間が、すでに嫌だった。
「大抵の方は、そう思っていると思います」
「大抵の方が」
「はい」
「俺を、仕事好きだと」
「はい」
「ほとんどか」
「ほとんどです」
「……俺は違うぞ」
「副長ご本人の認識としては、そうなのだと思います」
「本人の認識としては、とは何だ」
「外から見ると、かなり違って見えます」
「かなりか」
「かなりです」
レオンは黙った。
かなり。
それなり、ではなかった。
かなりだった。
リリアが、真剣な顔で口を開く。
「私は、お兄様は素晴らしい方だと思います」
「リリア」
「お兄様は、どれだけ疲れていても、必要なお仕事から逃げません」
「逃げたいとは思っている」
「それでも逃げません」
「逃げられないだけだ」
「それでも、最後までなさいます」
「……」
「とても、立派です」
レオンは片手で顔を覆った。
褒められているはずなのに、追い詰められている。本当に仕事が嫌いなら、なぜ自分は毎日こうしているのか。
帰りたい。
それは本当だ。
仕事を減らしたい。
それも本当だ。
だが、必要な書類があれば見る。
問題があれば処理する。
誰かが困っていれば、結局拾う。
それを周囲が仕事好きだと思うのも、分からなくはない。
いや、分かってはいけない。
分かってはいけないはずだった。
「副長」
イリスが静かに声をかけた。
「大丈夫ですか」
「分からなくなってきた」
「何がでしょうか」
「俺が、本当に仕事を嫌いなのかどうかだ」
「そこまで行きますか」
「今、そこにいる」
メリーが首をかしげた。
「お兄様は、仕事が好きではないのですか?」
「違う」
「でも、いつも仕事をしています」
「している」
「仕事が嫌いなのに、いつも仕事をしているのですか」
「そうだ」
「難しいですね」
「俺も難しくなっている」
第一執務室の空気が、妙な方向に傾いていた。レオン本人だけが、自分の仕事観を信じられなくなっている。
マリニーファは、その様子をじっと見ていた。
そして、少しだけ前へ出た。
「副長」
「……何だ」
「では、レオン様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「……」
レオンは答えなかった。
答えられなかった。
頭の中では、仕事が好きなのか、嫌いなのか、という問いがまだ回っている。
嫌いだ。
俺は嫌いなはずだ。
だが、周囲からはそう見えていない。
ほとんどの者には、そう見えていない。
「副長」
マリニーファは、もう一度丁寧に問いかけた。
「お呼びしても、よろしいでしょうか?」
「……」
レオンは、まだ答えなかった。
マリニーファは、少しだけ目を輝かせた。
「駄目でしたら、駄目とおっしゃってください」
「……」
「お返事がないということは、よろしいのですね」
「……待て」
レオンはようやく声を出した。
だが、遅かった。
マリニーファは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、レオン様」
「待てと言っている」
「はい、レオン様」
「返事にも使うな」
「失礼しました、副長」
マリニーファは満足そうに微笑んだ。
「では、私は仕事に戻ります。レオン様のお仕事に少しでもつながるよう、今日も頑張ります」
「つなげるな」
「はい」
「はいじゃない」
マリニーファは嬉しそうに自席へ戻った。
レオンは許可した覚えがない。
だが、許可したことになった気配がある。
しかも、自分が仕事を好きなのかどうかも、まだ分からない。
朝から、何一つ解決していなかった。
その時だった。
扉の外から、軽い声が聞こえた。
「何だ、朝から盛り上がってるな」
レオンは、手に取ったばかりの書類をそっと机に戻した。
「……帰れ、クリス」
「まだ入ってないだろ」
「なら入るな」
「もう入る」
そう言って、クリス・ラングレーは勝手に第一執務室へ入ってきた。
第一執務室の朝は、まだ仕事に戻れそうになかった。




