第2章8話 皇太子は報告しました
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国 帝都 皇太子公邸――皇太子公邸・執務室
皇太子アシュレイは、机の上に置かれた報告書を見ていた。
送り主は、イリスティア。
今は、総騎士団副長府首席書記官となった妹である。報告書は、いつもより厚かった。
「……本当に働いているな」
アシュレイは小さく呟いた。
かつては騎士団領の客だった妹。それが今では、正式に任官し、総騎士団副長府の首席書記官として報告書を送ってきている。
内容も、ただの近況ではなかった。
総騎士団副長府の設立。
レオンハルト・ヴァイスの総騎士団副長就任。
ヴァルド・エイゼンの退任。
グラナート・グランフェルトの新総長就任。
旧第七、旧第十、旧第十二騎士団を統合したヴァイス騎士団の発足。
大隊編成。
統合管理室と管理官制度。
第一、第二、第三執務室の運用。
第十三、第十四騎士団増設に向けた人材不足。
そして、騎士団長候補の不足。
アシュレイは、しばらく報告書を読み続けた。表情は静かだったが、目は真剣だった。
「イリスは、ずいぶん深く入り込んだな」
そう言って、報告書を閉じる。
だが、すぐに苦笑した。
「……いや。入れられた、というべきか」
あの妹は、面白いものを見つけると近づく。だが今回は、それだけではなかった。責任を負う側へ回っている。
客人として見た騎士団領ではなく、首席書記官として動かす副長府。報告書の文面からは、その視点がはっきりと伝わってきた。
アシュレイは立ち上がる。
「父上にお伝えするか」
報告すべきことは多い。
そして、おそらく。
帝都側も、ただ見ているだけでは済まない。
■帝都 皇宮・皇帝執務室
皇帝は、静かに報告を聞いていた。
アシュレイは、要点を順に述べていく。
「騎士団領では、総騎士団副長府が正式に稼働を始めました」
「総騎士団副長は、レオンハルト・ヴァイス」
「前総長ヴァルド・エイゼンは退任」
「新総長には、グラナート・グランフェルトが就任しています」
皇帝は頷いた。
「グラナートか」
「はい」
「堅い男だ」
「その分、最初の処分も厳正でした」
アシュレイは、一枚の報告書を置く。
「イリスからの報告では、彼は父としてではなく、総長として判断しています」
「エリシア・グランフェルトの件か」
「はい」
皇帝は目を細めた。
だが、それ以上は踏み込まなかった。
処分はすでに下っている。
騎士団領内で処理された案件だ。
帝都が見るべきは、そこから先だった。
「続けよ」
「はい」
アシュレイは次の報告へ移る。
「旧第七、旧第十、旧第十二騎士団は統合され、ヴァイス騎士団として再編されました」
「大隊十、中隊三十」
「総員は、およそ一万五千」
「工兵、輜重補給も組み込み、旧来の一騎士団よりも独立運用能力を持たせる構想です」
皇帝の指が、机を一度叩いた。
「騎士団というより、軍団だな」
「イリスも、ほぼ同じ見方をしています」
「ヴァルドの置き土産か」
「おそらくは」
アシュレイは静かに頷いた。
「ただし、レオンハルト本人は、かなり嫌がっているようです」
「であろうな」
皇帝は、わずかに笑った。
「権力を欲しがらぬ者に、権限が集まる。面倒な話だ」
「ですが、野心がないことが逆に安全だと、ヴァルドは見たのでしょう」
「そして、その男は文句を言いながら働く」
「はい」
皇太子は少しだけ目を伏せた。
「イリスの報告にも、繰り返しそのような記述があります」
「我が娘は楽しんでいないか」
「……多少は」
「多少か」
「かなり、かもしれません」
皇帝は短く笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「第十三、第十四騎士団の増設はどうなっている」
「予定はあります。ただし、騎士団長候補が不足しています」
「当然だな」
皇帝は淡々と言った。
「あそこの騎士団長は、席が空けば座れるものではない」
「はい」
「上級騎士資格、騎将資格、戦功、指揮実績、推薦、審査、試験。すべてが要る」
「騎士団領側も、そこを課題と見ています」
「そして、実際に人を動かした経験がなければならぬ」
アシュレイは頷いた。
強いだけでは足りない。
個人の武勇だけでも足りない。
騎士団を率いるには、人を動かし、責任を負い、失敗しても踏みとどまれるだけの経験が必要になる。
皇帝はしばらく黙った。
それから、机の上の地図へ視線を落とす。
帝都。
騎士団領。
南方。
サルヴァディア方面。
これから必要になるものは、明らかだった。
人材。
それも、ただ強い騎士ではない。
騎士団を率いる者。
複数の部隊を動かせる者。
現場と政治の間で折れない者。
「アシュレイ」
「はい」
「第十三、あるいは第十四騎士団」
皇帝は地図から視線を上げた。
「そのどちらかに、帝都側が推薦する騎士団長候補を据えることは可能だと思うか」
皇太子は、すぐには答えなかった。
部屋が静まる。
帝都側が推薦する騎士団長候補。
それは、単なる人材派遣ではない。新設される騎士団の一つに、帝都との接点を作るという意味を持つ。
帝都側の若い人材に、騎士団領の実務を学ばせる。騎士団領側にも、帝都の人材を見せる。
悪くない。
だが、難しいだろう。
「不可能ではありません」
アシュレイは慎重に答えた。
「ですが、かなり難しいと思われます」
「理由は」
「候補者として送り込むことと、実際に騎士団長になれることは別だからです」
皇太子は言葉を選びながら続ける。
「必要な資格、実績、審査、試験、推薦、そして現場からの信頼。そのすべてを満たさなければなりません」
「まして、帝都側から来た者となれば、騎士団領側は慎重に見るはずです」
「当然だな」
「はい」
アシュレイは明確に頷いた。
「騎士団領は、資格や実績をごまかす場所ではありません」
「グラナートが総長なら、なおさらです」
「そして、レオンハルト・ヴァイスも、おそらく能力と必要性でしか判断しません」
「帝都の推薦だから、という理由では通さぬか」
「通さないでしょう」
「面倒な男だ」
「その点では、非常に信頼できます」
皇帝は少しだけ笑った。
「ならば、送り込む意味はないと思うか」
「いいえ」
アシュレイは首を横に振った。
「意味はあります」
「騎士団長になれずともか」
「はい」
皇太子は地図へ視線を落とす。
「帝都側の候補者に、騎士団領の実務を学ばせることができます」
「新設騎士団の準備、ヴァイス騎士団の運用、副長府の仕組み。そのすべてを現地で見せられる」
「たとえ騎士団長になれなくとも、騎士団領に良い印象を持って戻るだけで意味があります」
皇帝の目が、わずかに動いた。
「続けよ」
「帝都側につかせる、という形では反発を招きます」
「ですが、帝都に悪感情を持たせないことはできます」
「帝都が自分たちを利用しようとしているのではなく、学ぶ機会を与え、道を開こうとしている」
「そう感じさせることができれば、それだけでも意味があります」
アシュレイは静かに言った。
「取り込みとは、必ずしも従わせることだけではありません」
「よい印象を残すことも、その一つです」
皇帝はしばらく黙った。
それから、満足そうに頷いた。
「その通りだ」
皇太子は軽く頭を下げる。
皇帝は続けた。
「今回、騎士団長候補を騎士団領へ派遣することは、その一環だ」
「はい」
「帝都側の若い騎士を、騎士団領へ送り込む」
「学ばせる」
「実務を見せる」
「騎士団領側にも、帝都に人材がいることを示す」
「そして、たとえその者が騎士団長になれずとも、将来の帝都にとって無駄にはならぬ」
「承知しました」
「人選は任せる」
アシュレイは少しだけ目を上げた。
「私に、ですか」
「そうだ」
皇帝は短く答える。
「帝都側が推薦する騎士団長候補。その人材選びは、すべてお前に任せる」
「……重い役目ですね」
「分かっている」
「騎士団領に受け入れられるだけの実力があり、帝都の顔を潰さず、かつ学ぶ姿勢がある者」
「そして、仮に騎士団長になれなくとも、将来の帝都にとって無駄にならない者」
「そうだ」
皇帝は頷いた。
「飾りはいらぬ」
「送り込むだけで満足する者もいらぬ」
「騎士団領で折れる者もいらぬ」
「かといって、騎士団領を見下す者は論外だ」
「難しいですね」
「だから任せる」
アシュレイは、少しだけ苦笑した。
「父上は、私に難しいことばかり任せられますね」
「お前なら、考える」
「考えるだけで済めばよいのですが」
「済まぬだろうな」
皇帝は静かに言った。
「まずは、騎士団領側に受け入れ可能か確認せよ」
「新総長、グラナート・グランフェルトへ、ですね」
「そうだ。レオンハルトへ直接問えば、嫌がるだろう」
「間違いなく」
「イリスへ問えば」
「面白がって運用案まで作ると思われます」
「それは避けよ」
「承知しました」
皇太子は軽く頭を下げる。
「受け入れの可否、人数、期間、所属扱い、派遣先」
「副長府へ入れるのか、ヴァイス騎士団へ入れるのか、各騎士団へ分けるのか」
「その辺りを、まず確認します」
「よい」
皇帝は短く言った。
「ただし、文面には気をつけよ」
「帝都から押しつける形にはしません」
「そうだ」
「騎士団領側の新体制運用を学びたい者を、候補者として一定期間預ける」
「その受け入れが可能かどうかを伺う」
「その形にします」
「よい」
皇帝はもう一度頷いた。
「それと」
「はい」
「イリスからの情報であることは、伏せすぎるな」
皇太子は少しだけ目を細めた。
「伏せすぎない、ですか」
「イリスはすでに首席書記官だ」
皇帝は静かに言う。
「報告が上がること自体は不自然ではない」
「はい」
「ただし、あの娘が面白がって細部まで書いたことまでは、書かなくてよい」
「承知しました」
皇太子は軽く頭を下げる。
父は、娘の性格をかなりよく分かっていた。
■帝都 皇太子アシュレイ公邸・執務室
その日のうちに、皇太子は書状を整えた。
宛先は、東ロンバルディア帝国騎士団領。
新総長、グラナート・グランフェルト。
内容は、慎重に整えた。
総騎士団副長府の設立への祝意。
新総長就任への言葉。
ヴァイス騎士団再編への関心。
第十三、第十四騎士団増設に向けた人材課題への理解。
そして。
帝都側の騎士団長候補を、一定期間、騎士団領へ派遣し、新体制の運用を学ばせることは可能か。
その確認。
アシュレイは、最後の文面を見直した。
強すぎない。
弱すぎない。
帝都の命令ではなく、協議の形。
けれど、皇帝の意向があることは分かる。
そういう文面だった。
「……これでよいか?」
側近が静かに頭を下げる。
「問題ないかと」
「グラナート総長は、余計な飾りを好まない」
「では、簡潔に」
「そうだ」
アシュレイは封をする。
その横には、イリスからの報告書が置かれていた。
副長府の各室。
管理官制度。
ヴァイス騎士団十大隊。
レオンハルトが名前を覚えられなかったことまで、なぜか丁寧に書かれている。
皇太子は、その箇所を見て少しだけ目を伏せた。
「……イリス」
楽しんでいる。
かなり。
だが、その情報は有用だった。
副長府がどのように動き始めたのか。
誰がどこに配置されたのか。
どこに負担が集まっているのか。
帝都にいながら、それが分かる。
皇太子は、書状を使者へ渡した。
「騎士団領へ」
「新総長グラナート・グランフェルトへ届けよ」
「返答は急がせすぎるな」
「だが、早めに欲しい」
側近は一礼する。
「承知しました」
使者が下がる。
アシュレイは、窓の外を見る。
帝都の空は穏やかだった。
だが、騎士団領はすでに大きく動き出している。
副長府。
新総長。
新しい騎士団。
帝都から派遣されるかもしれない騎士団長候補。そのどれもが、次の時代の形を変えていく。
「イリス」
アシュレイは、小さく呟いた。
「お前は、ずいぶん面白い場所に座ったな」
そして、少しだけ苦笑する。
「……いや」
あの妹なら、こう言うかもしれない。
座ったのではない。
職務ですので、と。
皇太子は、もう一度報告書を閉じた。
帝都から騎士団領へ。
新しい書状が向かう。
それがまた、レオンハルト・ヴァイスの仕事を増やすかもしれないことを。アシュレイは、少しだけ考えて、深く考えないことにした。
――報告書には、だいたい余計な仕事の種が入っている。




