第2章6話 誰もいない副長室を守っています
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 総騎士団副長府庁舎――第二執務室前廊下
四時十五分が近づいていた。
第二執務室前の廊下には、イリス、リリア、クリス、そして白い制服の若い騎士がいた。
副長府近衛中隊中隊長、ミズーリ・バスである。ミズーリは背筋を伸ばし、第二執務室の扉を真っ直ぐ見ていた。
表情は、真剣そのものだった。
「緊張してるな」
クリスが言った。
「はい!」
「そこは否定しないのか」
「副長閣下へ直接申し上げるのです。緊張しないはずがありません!」
「まあ、気持ちは分からなくもないが」
クリスは肩をすくめる。
リリアは、少し離れた位置でミズーリを見ていた。
第一執務室で、ミズーリはレオンのことを目標だと言った。そのように兄を褒められて、リリアは嬉しかった。
けれど同時に、少しだけ心配でもあった。レオン本人は、そういう言葉を向けられると、たぶん困る。
やがて、第二執務室の扉が開いた。先に出てきたのは、青い制服の騎士が二人。その後ろから、レオンとエリシアが続く。
レオンの手には書類があり、顔には疲れが残っていた。
エリシアはその隣を、いつものように無駄のない足取りで歩いている。
レオンは廊下に立つ顔ぶれを見て、足を止めた。
「クリス」
「おう」
「なぜここにいる」
「第二執務室に用があった」
「今さらか」
「ついでだ」
「何のついでだ」
「お前に会いたいやつがいる」
レオンの視線が、白い制服の若い騎士へ向いた。
「……誰だ?」
ミズーリの肩が、ほんの少し落ちた。だが、すぐに姿勢を正し、勢いよく敬礼する。
「失礼いたします! 副長府近衛中隊中隊長、ミズーリ・バスであります!」
「副長府近衛中隊?」
レオンは眉を寄せた。
「そんな部署があったか?」
ミズーリの肩が、今度ははっきり落ちた。
クリスが口元を押さえる。
「おい、本人の前で忘れるなよ」
「忘れたわけではない。確認しただけだ」
「完全に忘れてた顔だったぞ」
イリスが静かに補足する。
「レオンが大規模な配置を不要として縮小した近衛中隊です」
「……ああ」
レオンはようやく思い出したように頷いた。
「副長室を守らせた騎士たちか」
「はい!」
ミズーリの声に、少しだけ力が戻る。
だが、その横で第十大隊の護衛騎士二人がわずかに視線を動かした。
白い制服。
近衛中隊。
副長室。
その言葉が何を意味するのか、彼らにも分かったらしい。
「それで、何の用だ」
レオンが尋ねる。
ミズーリは、まっすぐレオンを見た。
「副長閣下。我々、副長府近衛中隊は、閣下の警護を希望いたします!」
「いらない」
即答だった。
ミズーリが固まった。
クリスが吹き出しかける。
リリアは目を丸くした。
エリシアは表情を変えなかったが、イリスはほんの少し目を伏せた。
「身辺警護は足りている。第十大隊の騎士たちが随行しているからな」
レオンがそう言うと、第十大隊の護衛騎士の一人が一歩前に出た。
「副長閣下の身辺警護は、現在、我々が担当しております」
もう一人も続ける。
「移動時の警戒、副長府庁舎内での随行、仮眠室周辺の警戒も、我々の職務です」
ミズーリの目が、わずかに鋭くなった。
「仮眠室周辺も、ですか?」
「そうだ」
第十大隊の騎士は、当然のように答えた。
「副長閣下がそこにおられる以上、警戒は必要だ」
ミズーリは、一度だけ拳を握った。
「本来、それは我々の職務であります!」
廊下の空気が、少しだけ変わった。
レオンは嫌そうな顔をする。
「何の話だ」
「我々は副長府近衛中隊です。副長閣下の近衛として選ばれました」
ミズーリは、真剣な声で言った。
「しかし、閣下は大規模な近衛は不要であると判断され、我々に副長室の警備を命じられました」
「そうだな」
「我々は、この一週間、副長室を守ってまいりました」
「……」
「しかし、副長閣下は、一度も副長室へお越しになっておりません」
レオンは黙った。
クリスが、ゆっくりとレオンを見る。
「お前、一度も行ってないのか?」
「用がない」
「副長室だぞ」
「俺が使わなくても部屋はある」
「いや、使えよ」
ミズーリはさらに続けた。
「そして最近、我々は聞きました。副長閣下は、副長室ではなく、仮眠室にいらっしゃることが多いと」
レオンの表情が固まった。
クリスの肩が震え始める。
イリスは無言で視線を逸らした。
エリシアは静かにレオンを見た。
「……誰から聞いた」
「噂であります!」
「その噂を流した奴は処分対象だ」
「団長」
エリシアが静かに言った。
「問題は、そこではありません」
クリスがとうとう小さく笑った。
「そうだな。そこじゃないな」
ミズーリは、第十大隊の護衛騎士二人を見た。敵意というほどではない。
だが、明らかな対抗意識があった。
「副長閣下が実際にいらっしゃる場所が仮眠室であり、その警護を第十大隊の方々が行っているのであれば」
「その任を、我々にお譲りいただきたいのです」
第十大隊の護衛騎士二人の表情が、わずかに硬くなった。
「副長閣下の警護は、我々の職務です」
「同じく、我々の職務であります」
ミズーリは即答した。
「我々は、副長府近衛中隊です」
「我々は、第十大隊第一中隊の選抜護衛騎士です」
「本来、副長府の近衛は我々です」
「現在、副長閣下の警護を任されているのは我々です」
レオンは額に手を当てた。
「やめろ。なぜ俺の警護で争う」
クリスは笑いをこらえながら、レオンの肩を軽く叩いた。
「レオン」
「何だ」
「お前のせいで、護衛の縄張り争いが起きてるぞ」
「俺のせいではない」
「いや、だいぶお前のせいだ」
その横で、リリアが目を輝かせた。
「お兄様、もてもてですね」
「リリア」
「皆さんがお兄様をお守りしたいとおっしゃっているんですよね」
「そういう話ではない」
「そういう話だと思います」
「違う」
リリアは嬉しそうに微笑んだ。
「皆さんに好かれて、お兄様は素晴らしいです」
「やめろ」
「お兄様は、もっと喜んでもいいと思います」
「喜ぶ状況ではない」
クリスがとうとう小さく吹き出した。
「いや、リリアの言い方だと平和だな」
「平和ではない」
「護衛の取り合いだぞ。ある意味、もてもてだろ」
「違う」
レオンが即座に否定すると、ミズーリが真剣に頷いた。
「我々は、副長閣下をお慕いしております!」
「言い方を変えるな」
第十大隊の護衛騎士も、なぜか少し対抗するように姿勢を正した。
「我々も、副長閣下の警護を任された者として、責務を果たします」
「張り合うな」
レオンの声が低くなる。
だが、リリアだけは嬉しそうだった。
「やっぱり、お兄様はすごいです」
「違う。これはすごい話ではない」
「すごいです」
「違う」
「すごいです」
レオンは、言い返すのを諦めた。
ミズーリは、改めてレオンへ向き直った。
「副長閣下。お願い申し上げます」
「仮眠室の警護は認めない」
「なぜでしょうか!」
「仮眠室だからだ」
「ですが、副長閣下がおられる場所です!」
「俺が寝る場所だ」
「ならば、なおさらお守りする必要があります!」
「やめろ」
クリスは笑いをこらえながらも、だんだん表情を変えていった。
最初は面白かった。だが、話を聞けば聞くほど、少しだけ哀れになってくる。
五名しかいない近衛中隊。
副長本人に近づくこともできず、副長室を守り続けた一週間。その間、実際の警護は第十大隊の騎士たちが行っている。
しかも、仮眠室の警護まで取られている。
「……レオン」
「何だ」
「もうちょっと考えてやれ。さすがにかわいそうだぞ」
「何がだ」
「全部だよ」
ミズーリは即座に言った。
「かわいそうではありません!」
「そこは否定するのか」
「我々は職務を求めているだけであります!」
「だからかわいそうなんだよ」
レオンは額に手を当てた。
イリスが静かに口を開く。
「妥協案を出すことはできます」
その一言で、廊下にいた全員の視線がイリスへ向いた。
イリスはレオンを見る。
「ですが、その前に確認します」
「何だ」
「レオンは、どうしたいのですか?」
廊下が静かになった。
副長府近衛中隊。
第十大隊の護衛騎士。
副長室。
仮眠室。
どれも、レオンが後回しにしてきたものだった。
けれど、レオンは、すぐには答えられなかった。




