第2章5話 副長府近衛中隊が来ました
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 総騎士団副長府庁舎――第一執務室
副長府が動き始めてから、およそ一週間が過ぎた。初日の混乱は、少しずつ形になり始めている。
第一執務室には、総庁から届いた文書、各騎士団からの報告、帝都へ返すべき返書の下書き、ヴァイス騎士団の編制に関する確認書類が積まれていた。
整然と積まれているだけで、量が少ないわけではない。
イリスは首席書記官として、文書の優先順位を確認していた。
リリアはその隣で、書類を分類している。
そして、第一執務室にはクリスもいた。第四大隊長であるクリスは、軍務関係の確認で第一執務室に呼ばれている。
第一執務室は文書を扱う場所だが、軍務に関わる書類が一切来ないわけではない。
第二執務室へ回すべきもの。
第一執務室で整理してから軍務側へ渡すもの。逆に、軍務側から第一執務室へ確認を求めるもの。そういう境目の書類は、意外と多い。
「レオンは本当に落ち着かないな」
クリスが書類を見ながら言った。
「副長ですので」
イリスが淡々と答える。
「副長って、そういう意味だったか?」
「現在は、そういう意味になっています」
「ひどい役職だな」
「必要な役職です」
「本人は泣くだろうな」
「泣く時間は予定にありません」
「予定に入れてやれよ」
リリアが少し困ったように笑った。
その時、第一執務室の扉が叩かれた。
「失礼いたします!」
やけに張りのある声が、扉の向こうから響く。
リリアが顔を上げた。
「どうぞお入りください」
扉が開き、若い騎士が入ってきた。
まだ二十歳前後に見える。背筋は伸びすぎているほど伸びており、表情も真剣そのもの。
彼が身につけている制服は白かった。大隊所属の騎士たちが着る青い制服ではない。
胸元には、剣と歯車を組み合わせた紋章。
ヴァイス家の紋章であり、現在は副長府の暫定紋章としても使われているものだった。
クリスは、入ってきた若い騎士を見て眉をひそめた。
白い制服そのものが、この騎士団領に存在しないわけではない。総長府や総庁まわりでは、特別な任務に就く者が白をまとうことがある。
だが、副長府で白い制服の騎士を見るのは、クリスにとって初めてだった。
それも、第一執務室である。
「……誰だ?」
クリスが言った。
若い騎士は即座に姿勢を正し、深く敬礼した。
「私は、副長府近衛中隊中隊長、ミズーリ・バスであります!」
「副長府近衛中隊?」
クリスはさらに眉をひそめた。
「そんな部隊、あったか?」
そう言ってから、イリスを見る。
「イリス殿下は知ってるのか?」
イリスも、すぐには答えなかった。
「……名前だけなら、編制予定の中で見た記憶があります」
「名前だけか」
「はい。副長府専属の近衛部隊として、編制案に入っていたはずです」
「はず、なのか」
「具体的な人数や職務内容までは把握していません。近衛中隊の配置や運用は、本来、軍務補佐官が確認する領域です」
イリスは一呼吸して続ける。
「ですが、現在、軍務補佐官であるエリシアさんは職務停止中です」
「つまり?」
「詳細を知っているのは、おそらくレオンだけです」
クリスは白い制服のミズーリを見た。
副長府近衛中隊。
白い制服。
剣と歯車の紋章。
名前だけは立派だ。
だが、第一執務室にいる誰も、その中身をまともに説明できない。
「またレオン案件か」
「はい」
イリスは否定しなかった。
ミズーリは背筋を伸ばしたまま、少しだけ困ったように口を開いた。
「恐れながら、その件で参上いたしました!」
「その件?」
クリスが聞き返す。
「はい!」
ミズーリは、さらに深く頭を下げた。
「レオンハルト・ヴァイス副長閣下へ、直接お願い申し上げたい件がございます!」
リリアが小さく首を傾げる。
「お兄様に、ですか?」
「はい!」
ミズーリの返事は力強い。力強すぎて、少しだけ廊下にも響いていそうだった。
「用件でしたら、こちらでお預かりすることもできますよ」
リリアが言うと、ミズーリは即座に首を横に振った。
「いえ! 可能であれば、副長閣下へ直接申し上げたく存じます!」
「直接でなければならない内容なのですか」
イリスが尋ねる。
ミズーリは、一度だけ唇を引き結んだ。
「はい。我々、副長府近衛中隊の職務に関わる件であります!」
クリスは腕を組み、ミズーリを見た。
「副長府近衛中隊ってことは、それなりの人数がいるんだよな?」
「はっ!」
「近衛なら、百人単位か? 副長府を守るなら、それくらいは必要だろ」
「本来は、そのように聞いております!」
ミズーリは力強く答えた。
「当初は、副長府庁舎と副長閣下の周辺警護を担うため、相応の人数が置かれる予定だったそうです!」
「だよな」
クリスは頷いた。
「で、中隊長はお前なのか?」
「はい! 改めまして、副長府近衛中隊中隊長、ミズーリ・バスであります!」
「若いのに中隊長か。大したもんだな」
「ありがとうございます!」
「で、今は何人いるんだ?」
「五名であります!」
クリスの動きが止まった。
リリアも、書類を持つ手を止めた。
イリスも、わずかに視線を上げる。
「……五名?」
「はい!」
「五名で、中隊か?」
「はい!」
「それはもう中隊じゃなくて、班じゃねぇか」
ミズーリの表情が、少しだけ曇った。
「本来は、もっと多く置かれる予定でした」
「だろうな」
「ですが、副長閣下が、大規模な近衛配置は不要であると判断されました」
「レオンが?」
「はい!」
「何て言ったんだ」
ミズーリは一度だけ唇を引き結んだ。
「必要ない、と」
第一執務室が、少しだけ静かになった。
クリスは額に手を当てた。
「あいつ、言いそうだな」
リリアも小さく頷いた。
「お兄様なら、言いそうです」
「言いそうじゃなくて、たぶん言ったんだろうな」
ミズーリは背筋を伸ばしたまま続けた。
「そのため、近衛中隊の配置は大幅に縮小されました。現在、副長府近衛中隊として残っているのは、我々五名のみであります」
「五名だけで近衛中隊を名乗るのも、大変だな」
クリスが思わず言った。
ミズーリは、すぐに顔を上げた。
「大変ではありません!」
「いや、どう考えても大変だろ」
「我々は光栄に思っております!」
「光栄?」
「はい!」
ミズーリの声に、迷いはなかった。
「我々は、副長閣下を大変尊敬しております!」
リリアが、少しだけ目を見開いた。
兄を褒められて、嬉しくないわけがなかった。
「副長閣下は、若くして騎士団領でも屈指の剣の腕を示されました!」
「さらに、旧第七騎士団長として実績を重ね、今では総騎士団副長にまでなられた方です!」
「そして、総騎士団長に次ぐ立場まで上がられた方を、我々は間近で見ております!」
ミズーリは拳を握った。
「それだけではありません!」
「まだあるのか」
クリスが小さく呟く。
ミズーリは真剣な顔で頷いた。
「副長閣下は、この一週間、休む間もなく副長府のために動かれていると聞いております!」
リリアの表情が、少しだけ変わった。
「朝から夜遅くまで各執務室を回り、各大隊と話し、書類を確認し、誰よりも先に働き、誰よりも遅くまで残っておられると!」
「……」
「自らの身を削るように働きながら、それでも副長府を動かそうとしておられる!」
ミズーリの声には、本気の熱があった。
「そのような方の近衛に選ばれたことを、我々は大変光栄に思っております!」
「我々にとって、副長閣下は目標であります!」
第一執務室が、少し静かになった。
言葉が真っ直ぐすぎた。
若い騎士の憧れが、そのまま声になっているようだった。
リリアは嬉しそうに、けれど少しだけ心配そうに笑った。
兄が褒められるのは嬉しい。だが、休む間もなく働いていると言われると、素直に喜んでばかりもいられない。
クリスは、ゆっくりとイリスの方へ身を寄せる。
「イリス殿下」
「はい」
「本当のレオンを知ったら、こいつら結構がっかりするんじゃないか」
「言い方には注意が必要です」
「だって、本人は辞めたいだけだぞ」
「それは、今ここで言うべきではありません」
「だよな」
クリスはミズーリを見る。
ミズーリは真剣そのものだった。
副長閣下。
目標。
尊敬。
身を削るように働く人。
どれも、レオン本人に聞かせたら確実に困った顔をする言葉だった。
「しかし、そんなに尊敬してるなら、なおさら本人に会いたいわけか」
「はい!」
「で、用件は何だ」
ミズーリは、姿勢を正した。
「我々の職務について、副長閣下に直接ご相談申し上げたく存じます!」
「職務?」
「はい!」
「ここでは言えないのか」
ミズーリは少しだけ迷った。
「第一執務室の皆様を信用していないわけではありません」
「しかし、この件は副長府近衛中隊の配置に関わるため、まずは副長閣下へ直接申し上げるべきと考えております」
「筋は通ってるな」
クリスは頷いた。
ミズーリは、今度はイリスへ向き直る。
「それで、イリス殿下にお尋ねしたく参上いたしました」
「何をですか?」
「副長閣下は、現在どちらにいらっしゃるのでしょうか!」
ようやく、用件の核心が出た。
イリスは予定表に目を落とす。
「現在は、第二執務室にいると思います」
「第二執務室でありますか!」
ミズーリは勢いよく顔を上げた。
「では、第二執務室へ参ります!」
「お待ちください」
イリスが短く止めた。
「今は確認中です。ですが、もうすぐ四時十五分です」
「四時十五分でありますか」
「はい。私はそろそろ、レオンを迎えに行くつもりでした。第三執務室へ向かう前に、いくつか確認することがありますので」
イリスは予定表を閉じた。
「廊下で声をかけるだけなら、今から向かえば間に合うでしょう」
ミズーリの表情が明るくなった。
「ありがとうございます!」
クリスが書類を持ち上げる。
「俺も行く。第二執務室に用があるしな」
「クリスさんもですか」
「ああ。ついでにちょっと見ていく」
「ついで、ですか」
「仕事だよ。半分くらいは」
「半分なのですね」
「もう半分は興味だな」
イリスは小さく息を吐いた。
リリアも、そっと立ち上がる。
「私もご一緒してもいいですか?」
イリスがリリアを見る。
「リリアさんもですか」
「はい。お兄様が皆さんにそんなふうに思われているのなら、少しだけ見てみたいです」
リリアはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「それに、少し心配です」
「レオンがですか」
「はい」
イリスは少し考え、それから頷いた。
「分かりました。ただし、廊下で声をかけるだけです。話が長くなるようなら、別の時間を取ります」
「はい」
リリアは素直に頷いた。
ミズーリは白い制服を正し、背筋を伸ばす。
副長府近衛中隊。
実員五名。
副長本人を尊敬し、目標とし、それでも本人にはまだまともに会えていない者たち。彼らはようやく、副長本人に会うための一歩を踏み出そうとしていた。
もっとも。
その副長本人が、自分を目標だと言われてどんな顔をするのか。
それを一番楽しみにしていたのは、たぶんクリスだった。




