第2章4話 新副長室
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
第二執務室の確認と、第十大隊長室での最低限の連絡確認を終えた時には、次の予定まで十五分しか残っていなかった。
「第三執務室は、十六時三十分からです」
イリスが予定表を見ながら言った。
「十五分あるな」
「はい。休憩時間です」
「休憩というより、移動準備だな」
「使い方は副長にお任せします」
「なら、軽食だ」
昼食は、移動中に渡された包みを口に入れただけだった。あれは食事というより、補給である。レオンは第十大隊の護衛騎士二人を連れ、食堂へ向かった。
食堂まで往復で十分。
残りは五分。
軽食を受け取り、座る時間も惜しんで口に運ぶ。味わう余裕はなかった。温かい料理だったはずだが、何を食べたのかはあまり覚えていない。
「副長、そろそろ」
「分かっている」
護衛騎士に促され、レオンは水を飲み干した。そして、そのまま第三執務室へ向かった。
十五分の休憩は、ほとんど食堂への遠征で終わった。
■総騎士団副長府庁舎・第三執務室
第三執務室は、第二執務室よりも静かだった。
壁には補給路の簡易図、資材管理表、工部への依頼記録、情報部からの報告分類表、人事異動予定の控えが並んでいる。
大隊長たちが集まっていた第二執務室とは違い、人の数は少ない。
ただし、初日だけは各部署の責任者が揃っていた。
補給部。
工部。
資源管理部。
情報部。
人事部。
それぞれの責任者が、挨拶のために来ていた。
奥の机には、担当書記官のシエラが座っていた。背筋を伸ばし、机上の書類を整え、すでに全員の発言を記録する準備を終えている。
「総騎士団副長、レオンハルト・ヴァイスだ」
レオンが短く名乗ると、各部署の責任者たちが順に礼をした。
挨拶は長くしない。
補給は必要な物を遅らせない。
工部は修繕と設備対応を滞らせない。
資源管理は不足と無駄を出さない。
情報部は必要な報告を遅らせない。
人事部は配置変更に即応する。
確認すべきことは、それだけだった。
「通常、各部署の責任者がこちらへ常駐する必要はない」
レオンは集まった責任者たちを見渡した。
「用件がある場合は、第三執務室の駐在員、または連絡員を通せ。報告はシエラへ上げる。シエラが記録し、整理した上で俺に回す」
「承知いたしました」
責任者たちが頷く。
ここまでは早かった。
第三執務室は、各部署の仕事そのものを動かす場所ではない。必要な報告を受け、整理し、副長へ渡す場所である。
正常に動けば、レオンは書類を読むだけで済む。
「人事部だけは別だ」
レオンは、人事部の責任者へ視線を向けた。
「現在の副長府の配置は、まだ試験的なものだ。今後すぐに人事異動が出る可能性がある。新しい役職を作ることもあるだろう」
「では、人事部から常駐員を出しますか?」
「最低一人は、必ず第三執務室に置け。俺から指示が出た時、すぐ動けるようにしておく」
「承知いたしました」
「他の部署は、用件がある時だけでいい。急ぎでなければ、シエラへ報告。急ぎなら、その場で判断を仰げ」
責任者たちは、もう一度頭を下げた。
初日の挨拶と確認は、それでほとんど終わった。第二執務室に比べれば、拍子抜けするほど早くて楽だ。
「団長」
シエラが立ち上がった。
「こちらが、第三執務室の初期記録です」
「もうあるのか」
「はい。今の挨拶と確認事項をまとめました」
「今の今だぞ」
「記録しましたので」
シエラは当然のように書類を差し出した。
レオンは受け取る。
内容は簡潔だった。
各部署の責任者名。
担当範囲。
通常連絡の流れ。
緊急連絡の扱い。
人事部常駐員の設置。
よくまとまっている。
「相変わらず仕事が早いな」
「ありがとうございます」
「ここは楽そうだ」
レオンがそう言った瞬間、シエラの目がわずかに動いた。
「では、確認をいくつか」
「いくつかならな」
「はい」
シエラは筆を取った。
「団長は、報告書を読む際、最初にどこを確認しますか」
「結論だ」
「理由は」
「結論がない報告書は、読む前に戻す」
「補給不足と訓練予定の衝突が同時に上がった場合、優先順位は」
「兵の安全に直結する方だ」
「両方関係する場合は」
「時期を見る。急ぐ方から処理する」
「第七騎士団時代、兵の配置変更を判断する基準は」
「任務と人員の相性だ」
「その判断を補佐していたのは」
「クリスだな」
「クリスですか」
シエラの筆が、少しだけ速くなった。
レオンは目を細める。
「お前、そこに興味があるのか?」
「業務上必要です」
「本当か」
「記録上は」
「記録外は」
「少しあります」
後ろに立っていた護衛騎士二人が、わずかに視線を交わした。
その反応は正しい。
レオンも同じ気分だった。
「クリスを連れてくればよかったな」
「クリスは答えてくださいますか?」
「逃げる」
「では団長で構いません」
「俺も逃げたい」
「まだ確認が残っています」
「仕事自体は楽そうなのにな」
「はい。仕事自体は比較的単純です」
「一番大変なのは、お前の相手か」
「必要な確認です」
シエラは表情を変えずに言った。
第三執務室は静かだった。
静かなのに、逃げ場がない。
第一執務室は忙しかった。
第二執務室は声が大きかった。
第三執務室は質問が多かった。
どこがましなのか、レオンにはまだ判断できなかった。
■総騎士団副長府庁舎・第三執務室
それでも、第三執務室の確認は予定より早く進んだ。
既に各部署の責任者たちは挨拶を終え、それぞれの部署へ戻った。残るのは駐在員と連絡員、そしてシエラだけである。人事部の常駐員についても、明日から一名置くことで先程決まった。
シエラの質問は続いたが、レオンが途中で打ち切った。
それ以上続ければ、第三執務室の確認ではなく、レオンハルト・ヴァイスの調査記録になりかねなかった。
「続きは次回だ」
「承知しました」
「次回があるのか?」
「必要であれば」
「言わなければよかった」
シエラは、記録済みの書類を揃える。
二十時を過ぎる頃には、護衛騎士二人にも交代の確認が入っていた。
彼らは最後まで姿勢を崩さなかったが、第三執務室を出る時、片方がほんの少しだけ肩を回した。
「すまないな」
「いえ、任務です」
「今日の任務は移動が多かった」
「……はい」
否定はなかった。
その素直さに、レオンも少しだけ同情した。
「団長」
シエラが書類を差し出した。
「第三執務室の初日確認は以上です」
「ようやくか」
「はい。残りは統合管理室で確認されるか、明日に回されても問題ありません」
「統合管理室か」
「はい。統合管理官としての確認書類があります」
統合管理官。
それも、レオンの役職である。
逃げ場は、どの部屋にもなかった。
■総騎士団副長府庁舎・統合管理室
第三執務室を出た後、レオンは統合管理室へ向かった。
統合管理官室は、別に用意されている。そこは統合管理官であるレオンの専用室だった。
ただし、寝る場所ではない。執務机と書棚、来客用の椅子があるだけの部屋である。
そもそもレオンは、そこへほとんど行かない。
統合管理官という役職は、複数の部署や騎士団にまたがる仕事を見て、必要な調整を行う立場である。
管理官たちの多くは、各騎士団や各部署へ派遣され、現地付きで動いている。そのため、統合管理室本体に残っている者は少ない。
この時間になれば、なおさらだった。
「人がいないな」
レオンは室内を見回した。
机はある。
棚もある。
報告箱もある。
だが、人の気配は薄い。
メリーの机もあった。
だが本人はいない。
メリーは統合管理官補佐として、レオンに直接ついている。しかし、定時を過ぎてまで残ることはできない。
必要なことがあれば、第一執務室か第二執務室にいる時間帯に伝えに来る。
夜の統合管理室で待っているわけではない。
「静かなのは助かる」
レオンは報告箱を開けた。
中には、各部署から回された横断報告が入っている。
補給部と資源管理部の連携状況。
工部への修繕依頼の滞留。
情報部から上がった注意案件。
人事部の仮配置案。
各騎士団へ派遣された管理官からの短報。
統合管理室の仕事は、これらを読んで確認することだった。
必要があれば差し戻す。
問題がなければ承認する。
明日以降に回せるものは、分類して残す。
第一執務室ほど急かされない。
第二執務室ほど混乱していない。
第三執務室ほど質問も飛んでこない。
早く終われば帰れる。
最初はそう思っていた。
■総騎士団副長府庁舎・統合管理室
時計を見ると、日付が変わっていた。
「……零時か」
レオンは手元の書類を置いた。
統合管理室の確認だけなら、もっと早く終わった。問題は、途中で第二執務室の残務が絡んだことである。
各大隊の連絡担当。
第十大隊の予定表。
第十大隊の訓練と教育の割り振り。
中隊長たちへの明日の確認事項。
人事部常駐員の手配。
補給部へ回す必要物資の控え。
一つ確認すると、次の仕事が見えた。
次を直すと、別の予定とぶつかった。
別の予定を動かすと、第十大隊の訓練案を組み直す必要が出た。
仕事は、終わるものではなく、つながるものらしい。
レオンは椅子の背にもたれた。今から家に戻れば、眠れるのは三、四時間ほどだろう。
移動し、着替え、また朝に戻ってくる。
その時間が惜しい。
「仮眠室が近くにあったな」
副長府庁舎には、夜間対応用の仮眠室がある。本来は、緊急時や長時間勤務者が一時的に使うための部屋だ。
まさか、初日から使うことになるとは思っていなかった。
レオンは机の上の書類をまとめ、明日の確認分だけを分けておく。
灯りを落とし、統合管理室を出た。
廊下は静かだった。
第一執務室には、もう人はいない。
第二執務室も静かだ。
第三執務室にも、シエラの気配はない。
ようやく、誰にも呼び止められない時間になった。
■総騎士団副長府庁舎・仮眠室
仮眠室は、統合管理室から近かった。
簡素な寝台。
薄い毛布。
水差し。
着替えを置く棚。
必要最低限のものしかない。
それでも、今のレオンには十分だった。
扉を閉め、剣を手の届く位置に置く。
上着を脱ぎ、寝台に腰を下ろした。
家に帰るつもりだった。初日だけは遅くなっても、帰って寝るつもりだった。
だが、現実は違った。
第一執務室
第二執務室。
第十大隊隊長室。
第三執務室。
統合管理室。
そして、仮眠室。
仕事場の中で一日が終わり、仕事場の中で眠る。レオンは天井を見上げた。
「……副長になったのは、間違いだったかもしれないな」
誰も答えない。
答える者がいたら、それはそれで困る。
レオンは目を閉じた。
この時のレオンは、まだ知らない。
帰宅を諦めた時に使うだけだったこの仮眠室が、やがて一部の者たちから「新副長室」と呼ばれるようになることを。
そして、しばらくの間、自分が家へ帰るよりも、この部屋で朝を迎える回数の方が多くなることを。




