第2章3話 仕事の前に仕事がある
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 総騎士団副長府庁舎――
第一執務室だけで、すでに疲れていた。
レオンは、廊下を歩きながらそう思った。
予定を聞いた。
初回確認をした。
書類の箱が増えた。
イリスは笑顔で逃げ道を消した。
そして、次は第二執務室。
時刻は既に十二時十五分。
その前に、昼食の時間があった。
「副長」
隣を歩くイリスが、何事もないように小さな包みを差し出した。
「何だ?」
「昼食です」
「今か」
「今です」
包みは片手で持てる大きさだった。
どう見ても、座って食べる昼食ではない。
「これは昼食か?」
「昼食です」
「立ったまま食べる形に見える」
「本日は移動が多いため、歩きながらでも食べやすい、立食形式の昼食にしています」
「……それは昼食ではなく、補給ではないか?」
「必要ですので」
レオンは包みを受け取った。
副長府では、食事まで予定に組み込まれるらしい。
「第二執務室は、十二時十五分から十六時十五分までです」
イリスが言った。
「各大隊との連絡、通達、記録、調整を行う部署になります」
「聞くだけで重い」
「重要ですので」
「重要なものは、大体重いな」
「はい」
イリスは否定しなかった。
第二執務室の扉の前には、青い制服の騎士たちが並んでいた。
胸元には、剣と歯車を組み合わせた紋章。
ヴァイス家の紋章であり、現在は副長府の暫定紋章としても使われているものだった。
執務室前まで来ると、やはり第一執務室とは空気が違う。
ここは、文書と来客を捌く部屋ではない。
各大隊と副長府をつなぐ部屋だった。
扉の前に立っていたエリシアが、静かに頭を下げる。
「お待ちしておりました、団長」
「特に、待たなくてもいい」
「必要ですので」
「お前までそれを言うのか」
レオンは小さく息を吐く。
第一執務室ではイリス。
第二執務室ではエリシア。
どちらも自分を逃がす気がない。
ただし、種類が違う。
イリスは笑顔で逃げ道を消す。
エリシアは正面から扉を閉める。
「ここからは、エリシアさんへ引き継ぎます」
イリスが言った。
「私は第一執務室へ戻ります。第三執務室への移動時刻には、またお迎えに上がります」
「忘れていい。迎えに来るな」
「予定ですので」
イリスは微笑み、一礼して去っていった。
逃げ道だけを残さずに。
■総騎士団副長府庁舎・第二執務室
第二執務室に入った瞬間、レオンは立ち止まった。
広い。
壁には、大隊配置図。
連絡系統図。
訓練場使用予定。
警備割当。
通達記録表。
中央には大きな机があり、その上には管理表と通達箱が並んでいる。
部屋の中には、第一大隊から第九大隊までの大隊長が揃っていた。ただし、第十大隊長の席だけは空いている。
大隊長たちは、順にレオンへ礼をした。
副長府発足初日。
今日から、それぞれの大隊が副長府の指揮系統に入る。そのための挨拶だった。
レオンが短く応じると、大隊長たちはそれぞれの席へ戻っていった。
「今日は、全員いるのか」
「はい」
エリシアが頷く。
「副長府発足初日ですので、第一大隊から第九大隊までの大隊長には、挨拶と運用説明のため出席していただいています」
「毎日、こうではないよな」
「はい。明日以降、大隊長が常時こちらに詰めることは稀です」
「それだけは良い知らせだ」
「各大隊長には、それぞれ専用の大隊長室があります。通常の執務はそちらで行います」
「で、ここは何をする」
「副長府と各大隊をつなぎます」
エリシアは壁の連絡系統図を示した。
「副長府から各大隊へ通達、命令、書類を渡す場合、まず第二執務室へ回します。第二執務室に駐在する各大隊の連絡担当がそれを受け取り、自分の大隊長室へ持ち帰る形になります」
「逆は」
「同じです。各大隊から副長府へ報告や相談がある場合も、原則として第二執務室を通します」
「中継所か」
「はい。連絡、記録、確認、調整のための中継拠点です」
レオンは室内を見回した。
大隊そのものの仕事をここで行うわけではない。だが、大隊を動かすための連絡は、ここを通る。
「上から下へ命令を通すだけなら、難しくはないな」
「はい」
「俺がここで一言言えば、各大隊の連絡担当が持ち帰る」
「その通りです」
「なら、問題はそこではない」
「はい」
エリシアは机の上の書類を見た。
「問題は、下から上がってくるものです」
「報告、要望、訓練場の使用希望、調整依頼等か」
「はい。それらは口頭だけでは済ませられません。書類で上げ、記録し、重複や衝突を確認する必要があります」
「それら整理されたものを、俺が見るのか」
「はい。本来は整理されたものを団長が見ます」
エリシアは少しだけ声を落とした。
「そもそも団長の仕事は、それらを承認するか、差し戻すか、修正を命じるかです。各大隊の細かい希望を、一から並べ直すことではありません」
「本来ならな」
「はい」
「今は、お前が動けない」
「……はい」
「書記官も足りない」
「はい」
「だから、整理前のものが俺に来る」
「その通りです」
「そうか」
レオンは小さく息を吐いた。
副長としての判断が重いのではない。判断するための材料が、まだ整っていないことが重いのだ。
「訓練や教育については、基本的には各大隊に任せていいな」
「はい。よほどの理由がない限り、副長府から細かく命令する必要はありません」
「だが、第十大隊は俺が大隊長だ」
「はい」
「そちらの連絡体制を決めておかないと、俺自身の大隊側の情報も上げられない」
「はい」
「それをやらないと、明日以降の副長の仕事にも入れない」
「その通りです」
エリシアは静かに頷いた。
「ですので、初日は大変なのです。今日ここで流れを作らなければ、明日から団長の机に、整理されていない、処理できない書類が積み上がり続けます」
「地獄の予約か」
「はい」
「はい、ではない」
「ですが、事実です」
命令を出すのは簡単だ。
問題は、戻ってくるものだった。
下から上がってくる情報を整理できなければ、副長は判断できない。そして今、その整理をするはずの者が足りない。
「一応、第二執務室には四時間の枠を取っています」
エリシアが言った。
「四時間あれば、本来の副長業務は充分終わる時間のはずです」
「なら問題ないのではないか」
「本来であれば、です」
「嫌な言い方だな」
「はい」
エリシアは机の上の資料を見る。
「この四時間は、整理済みの報告や要望を団長が確認し、承認するか、差し戻すか、修正を命じるための時間です」
「俺が見るだけなら、終わる」
「はい。余裕を取ってあります」
「だが、今は整理されていない」
「はい」
「不備があれば、俺が直接確認しなければならない。そして、必要なら各大隊に問い合わせもする。第十大隊の連絡体制も、俺が整える」
「はい」
「その前処理の時間は」
「予定に入っていません」
レオンは黙った。
「つまり、本来の仕事に入る前の仕事が増えている」
「その通りです」
「これは、しばらく四時間で終わらないな」
「終わらない可能性が高いと思います」
エリシアは静かに言った。
正直だった。
酷く正直だった。
「この状態が続けば、団長は毎日、二十二時以降に仕事を持ち帰ることになるかもしれません」
「避けたい未来だな」
「ですので、初日に流れを早急に決める必要があります」
大隊長たちは、黙って聞いていた。その中で、クリスだけが少し顔をしかめる。
「それ、連絡担当を置いた方が楽なやつだな?」
「そういうことだ」
レオンは短く答え、大隊長たちを見渡した。
「各大隊の連絡担当については、各大隊に任せる。置くなら置け。置かないなら、面倒でも大隊長本人が毎回ここへ来い。俺は楽になるので、置くことになるが」
室内が一瞬静かになった。
「雑だな」
クリスが言った。
「丁寧に言っている時間がない」
「まあ、分かりやすくはある」
「分かりやすくしないと、俺が死ぬ」
「切実だな」
「切実だ」
大隊長たちが、順に頷いた。
紙で細かく命じる必要はない。
ここで口頭で言えば、それで足りる。
その点は便利だ。第二執務室は、そのための場所でもあった。
「承知しました!」
どこかから大きな声がした。
「声が大きい」
エリシアが即座に言う。
「申し訳ありません!」
「まだ大きいです」
「申し訳ありません」
レオンは額を押さえた。
カイルは、今日もカイルだった。
第二執務室は、第一執務室とは違った。
騒がしい。
声が大きい。
大隊長たちは癖がある。
だが、軍務は動く。
それだけは確かだった。
大隊長たちへの説明が一区切りつくと、彼らはそれぞれの席へ戻り、連絡担当との確認を始めた。
室内のざわめきが少し落ち着いたところで、エリシアが第十大隊の席へ視線を向ける。。
「第十大隊についてです」
エリシアが、第十大隊の席を見た。
レオンも見る。
空席だった。
「第十大隊長席は、現在空いています。いえ、厳密には団長が大隊長を兼任しています」
「ああ」
「本来であれば、私が資格を取り戻したのち、大隊長候補にしていただく予定でした」
エリシアの声は静かだった。
誇る声ではない。
まだそこに触れる資格がないことを、本人が一番分かっている声だった。
「今の私には、まだ無理です」
「分かっている」
レオンは短く答えた。
「それまでは、俺が預かる」
「……はい」
「第十大隊長であること自体は構わない。一個大隊くらいは自由に、迅速に動かせる大隊があったほうが便利だ。それについては不満はない」
「はい」
「問題は、大隊長には大隊長室があるということだ」
レオンは副長として第二執務室に当然在室しなければならない。しかし、大隊長は大隊運用のため頻繁に各中隊との連携を確認が必要だ。そのためにも大隊長室における在室は必須となる。
そして第十大隊は大隊長がレオン本人である。
「さっきも大隊長たちに話したが、連絡担当を置かなければ、俺が毎日第十大隊長室へ行って、中隊長たちに直接伝達しなければならない。逆に第十大隊から上がる報告も、俺が受けるため大隊長室に毎日赴くことになる」
「その通りです」
「なら、やはり置いた方がましだな」
「はい、しかし連絡担当の負担は大きいかと」
「それは仕方ない。」
「それならやはりこの後、団長には第十大隊長室へ行っていただきます」
「俺が」
「はい」
「第十大隊長として」
「はい」
「副長としての仕事の前に?」
「はい」
レオンはしばらく黙った。
「悪い冗談か。いや、仕方ないか」
「第十大隊の中隊長たちへの挨拶、連絡事項の伝達、今後の連絡担当者の確認。それらを本日中に行う必要があります」
「本日中」
「はい」
分かっていた。
分かっていたが、分かりたくなかった。
「第十大隊の初期連絡体制が整わなければ、団長は大隊長としても副長としても、同じ情報を二度確認することになります。それに再度言いますが、副長の仕事が滞ります」
「無駄だな」
「はい」
「だが、今は俺がやるしかない」
「……はい」
レオンは第十大隊の席を見た。
空席。
その空席が、仕事の穴に見えた。
しかも、その穴を埋めるのは自分だった。
■総騎士団副長府庁舎・第十大隊長室
第二執務室の確認を終えると、レオンはすぐに第十大隊長室へ向かった。
案内役は、レオンについていた第十大隊第一中隊の騎士二人だった。
彼らは第十大隊付きの騎士である。第十大隊長室の場所も、中隊長たちが集まっている場所も、当然のように把握していた。
「助かる」
「はっ」
「ただし、急げ」
「承知しました」
廊下を早足で進み、第十大隊長室へ向かう。そこでレオンは、中隊長たちに短く挨拶をした。
第十大隊は当面、自分が見る。
連絡担当を一名置く。
第二執務室との連絡は、その者を通す。
細かい予定は後で詰めるが、今日中に最低限の連絡経路だけは作る。それだけを伝え、担当者と明日以降の簡単な予定を急いで決めた。
長く話している時間はなかった。
第三執務室の確認が、すぐ後に控えている。
レオンは第十大隊長室を出ると、再び第二執務室へ戻った。
第一執務室。
第二執務室。
第十大隊長室。
そして、次は第三執務室。
まだ予定は半分ほど。
それなのに、すでに一日分は働いた気がした。
■総騎士団副長府庁舎・第二執務室前廊下
「団長」
エリシアが廊下で頭を下げる。
「第二執務室の初回確認と、第十大隊の最低限の連絡確認は、以上です」
「ようやくか」
「はい」
「次は第三か」
「はい。まもなく移動時刻です」
「休憩は」
「十五分あります」
「あるのか」
「はい」
「それは休憩か」
「移動準備を含めた休憩です」
「ほとんど休憩ではないな」
「完全にないよりは、ましです」
「そういう考え方もあるか」
「はい、あります」
レオンは遠い目をした。
まだ今日の仕事はある。
第三執務室。
そこで、整理されていない報告と要望。
その後、統合管理室。
そこまでに終わらなければ、二十二時以降に残業。
ここでは、副長の仕事を終わらせるために、まず副長ではない仕事を終わらせなければならない。
ただ、第二執務室での仕事は、これで少しずつ減っていくはずだった。
「団長」
エリシアが、少しだけ声を落とした。
「このままでは、団長が倒れてしまいます」
レオンは振り返る。
エリシアは、まっすぐこちらを見ていた。
「今日だけでも、第二執務室の確認、第十大隊長室での挨拶、連絡担当者の確認、各大隊から上がる書類の整理があります」
「よく並べたな」
「並べれば並べるほど、無理があります」
「それは言うな」
「言います。もう個人の仕事量ではありません」
エリシアの声は硬かった。
「私は処分中です。定時になれば、申し訳ないですが、下がらなければなりません」
「ああ」
「団長が二十二時以降も仕事を続けると分かっていながら、私は残ることも、手伝うこともできません」
エリシアは、悔しそうに目を伏せた。
「すみません」
「本当に、申し訳ありません」
「そう謝るな。初日だからな」
「初日だからで済ませてよい量ではありません」
レオンは黙った。
その通りだった。
「私のことは、もう考えなくて構いません」
エリシアは深く頭を下げた。
「軍務補佐官を別の者にするか、第十大隊長に別の者を任命してください。その方が、団長の負担は確実に減ります」
「……お前が言うのか」
「はい」
「自分の戻る場所だぞ」
「団長が倒れるくらいなら、私の事情など不要です」
静かな声だった。
だが、迷いはなかった。
レオンは少しだけ息を吐いた。
「却下だ」
エリシアが顔を上げる。
「団長」
「何度も言わせるな。第十大隊を預かること自体は構わない。軍務補佐官の穴も、しばらくなら何とかする」
「ですが」
「何とかしてみせる」
レオンは、第十大隊の席がある方を見た。
「お前は戻るために今は休め。俺は、それまで潰れないようにする。ずっと待ってやる」
「……」
「それが今の仕事だ」
エリシアは、何かを言おうとした。
けれど、すぐには言葉にならなかった。
胸の奥が、熱くなる。
叱られたわけではない。
慰められたわけでもない。
ただ、待つと言われた。
戻る場所を、残すと言われた。
「必ず、戻ります」
エリシアは、深く頭を下げた。
「早めにな。じゃないと辛い」
「はい」
その声は、さっきより少しだけ強かった。
レオンは廊下の先を見る。
第三執務室へ向かう時間が近づいている。
冬初め。
総騎士団副長府の第二執務室は、初日から騒がしかった。
大隊長たち。
大きな声。
重い仕事。
そして、第十大隊長席は空いていた。
空いているのは椅子だけだった。
仕事は、空いていない。
むしろ、その空席の分だけ、レオンに重くのしかかる。
ここでは、副長の仕事を始める前に、その準備をしなければならない。
だが、今だけは、逃げるわけにもいかなかった。




