第2章2話 穏やかではない第一執務室
――帝国暦三二一年・冬初め ヴェリア帝国東ロンバルディア帝国騎士団領 総騎士団副長府庁舎・第一執務室――
本日の業務を開始しましょう。
イリスがそう言った瞬間から、総騎士団副長府の一日は本当に始まってしまった。
レオンにとっては、かなり悪い出来事だった。予定を聞くだけでも今日は十分だった。
すでに帰りたい。
すでに休みたい。
すでに食事を普通に取りたい。
だが、予定は聞いて終わりではない。
実行される。
そこが予定の一番悪いところ。
「では、副長」
イリスは、爽やかな顔で予定帳を閉じた。
「第一執務室の確認から始めます」
「予定を聞いた時点で、かなり働いた気がする」
「まだ何も処理していません」
「精神的には処理した」
「書類は減っていません」
正論だった。
レオンは机の上を見る。
書類がある。
山というほどではない。
だが、平地でもない。
明らかに、これから育つ山だった。
「……減らしたいな」
「では、処理しましょう」
「燃やすという意味だ」
いつもなら、エリシアなら、そこで即座に返したはずだった。
却下します、と。
だが、イリスは何も言わなかった。
ただ、微笑んだ。
上品で、柔らかい笑みだった。
けれど、目だけがまったく笑っていなかった。
レオンは、直ちに黙った。
「……処理する」
「はい」
イリスは、そこでようやく満足そうに頷いた。
レオンは少しだけ理解した。
これは、エリシアとは別の種類の圧だ。
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
第一執務室は、朝から動いていた。
書記官たちは、それぞれの机で文書を分類している。
総庁から届いた通達。
各騎士団からの確認書。
帝都方面への返書案。
来客予定。
庁舎内の備品申請。
第一執務室で処理する文書。
第二執務室へ送る軍務文書。
第三執務室へ送る補給・工部関係文書。
統括管理部へ共有する確認書。
どれも単独なら大したことはない。しかし、それらがまとめて流れ込むと、大したことになった。
「こちらが本日承認分です」
イリスが一束を差し出す。
「こちらが確認のみでよい文書です」
さらに一束。
「こちらが判断保留になっているものです」
さらに一束。
「そしてこちらが、今日中に処理しないと明日の予定に影響するものです」
さらに一束。
レオンは黙った。
「……今、四つ同時に出したな」
「はい」
「一つずつ出せ」
「一つずつ出していると時間が足りません」
「では時間を増やせ」
「すでに予定は詰まっています」
「そうだったな」
思い出してしまった。
「では、まず第一執務室内の運用確認からお願いします」
イリスがそう言うと、近くにいたフィアナ・ルクスが静かに前へ出た。
次席書記官。
元第十騎士団系の書記官で、現在はレオン付き次席書記官として、第一執務室の実務整理も担っている。
「副長、第一執務室内の初期配置はすでに整っています」
フィアナは資料を差し出した。
「副長席、首席書記官席、次席書記官席、第一執務室所属書記官の席。来客対応卓。文書分類棚。そして、各送付箱です」
「各送付箱」
「総庁返送箱、帝都方面書簡箱、第二執務室送付箱、第三執務室送付箱、統括管理部共有箱です」
「……箱が多い」
「必要です」
フィアナは真面目に答えた。
「箱が多いほど、仕事が増える気がする」
「いえ、迷子になる書類が減ります」
「書類が迷子になる方がいい場合もある」
その瞬間、イリスが顔を上げた。
微笑んでいる。
目は、笑っていない。
「……そうだな、迷子はよくないな」
「はい」
フィアナは頷いた。
イリスも満足そうに頷いた。
レオンは思った。
エリシアなら、却下しますと言う。
イリスは言わない。
言わないのに、却下される。
これは、かなり精神に悪い。
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
「メリー」
レオンは、資料を抱えていたメリーを見る。
「お前はどこを見る」
「運用規程と、統括管理部への共有基準です。人員配置そのものには関わりません」
「流れを見るのか」
「はい」
「なら頼む」
「承知しました」
それだけで、メリーはすぐに資料を整理し始めた。彼女も今は権限が制限されている。だが、制度と流れを見る目は鈍っていない。
メリーは表情を変えなかった。
こういうところは、強い。
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
その横で、リリアはお茶の準備をしていた。
書状取扱い業務は、まだ一時停止中である。だから、帝都方面や総庁からの書簡には触れない。
書簡箱のそばを通るたび、ほんの少しだけ手が止まる。触ってはいけない。それを、何度も自分に言い聞かせているようだった。
「リリアさん、こちらは私が持ちます」
すっと近づいたのは、ココ=カラナだった。第十二騎士団系の書記官で、第一執務室でもリリアのそばにいることが多い。
落ち着いた声。
静かな目。
ただし、リリアへの距離は少し近い。
「ありがとうございます、ココさん」
「重いものは持たなくて大丈夫です」
「でも、これくらいは」
「大丈夫です」
ココは、自然な動きでリリアの持っていた資料の半分を取った。
自然だった。
自然すぎて、少し怖い。
フィアナがそれを見て、少し羨ましそうにした。
「リリアさん、無理をしてはいけません。必要なら、こちらで補給を」
「補給?」
レオンが聞き返す。
フィアナは、はっとしたように姿勢を正した。
「いえ、業務補助です」
「今、違う意味の補給に聞こえた」
「気のせいです」
イリスが微笑む。
「フィアナ、職務中です」
「はい、首席書記官」
フィアナは真面目に頷いた。だが、その視線は一瞬だけリリアに向いた。
リリアは困ったように笑っている。嫌がってはいない。ただ、少しだけ慣れている顔だった。
レオンは思った。第一執務室も、なかなか面倒な人材が多い。
「リリア」
レオンが声をかける。
「はい、お兄様」
リリアはすぐに顔を上げた。
それから、第一執務室内であることに気づいて、少しだけ慌てる。
「……副長閣下」
「ここでは好きに呼べ」
「はい」
リリアは少し安心したように微笑んだ。
「お兄様」
「茶を頼む」
「はい」
リリアは嬉しそうに頷き、すぐに茶器へ向かう。
その途中、書簡箱の横を通った。
視線が少しだけそちらへ向く。
でも、手は伸ばさない。
レオンはそれを見ていた。
リリアも処分を受けた。
正式戒告。
書状取扱い業務の一時停止。
監督付き業務。
軽くはない。
だが、完全に切り離されてもいない。
できる仕事をしながら、信頼を戻す。
今はその途中だった。
リリアは茶を置く。
「どうぞ、お兄様」
「ありがとう」
レオンは茶を受け取った。
温かい。
まだ午前なのに、もう必要だった。
「リリア」
「はい」
「書簡箱は、まだ触るな」
リリアの表情が、少しだけ引き締まった。
「はい」
「だが、茶と補助資料は助かる」
リリアが顔を上げる。
「……はい」
「今はそれをやれ」
「はい。頑張ります」
リリアは小さく頭を下げた。
その声は明るかった。
ただ、いつもより少しだけ慎重だった。
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
第一執務室の確認は、思った以上に細かかった。
文書の受付経路。
総庁への返送手順。
帝都方面の書簡管理。
来客対応の優先順位。
副長に直接上げる文書。
首席書記官で処理する文書。
次席書記官へ回す文書。
第一執務室内で完結する文書。
第二執務室へ渡す軍務文書。
第三執務室へ渡す補給・工部関係文書。
統括管理部へ共有する文書。
分ける。
分ける。
分ける。
とにかく分ける。
分けることで、職員の仕事は軽くなる。だが、分けたものの最終確認は、かなりの割合でレオンへ来る。
つまり、レオンの机にだけ、整った形で仕事が届く。整理された仕事は、逃げにくい。
「これは罠だな」
レオンが低く言った。
「どの部分でしょうか?」
イリスが聞く。
「分業だ」
「分業は効率化です」
「効率化された仕事がこちらへ来る」
「全部ではありません」
「多い!それに速い!」
「重要なものだけです」
「重要なものが多い」
「副長ですので」
「便利だな、その言葉」
「便利です」
イリスは否定しなかった。
圧がとても強い。
「この文書は、第一執務室で処理できるだろう」
レオンは一枚の書類を指した。
「来客用茶葉の補充申請だ」
「副長室用の茶葉も含まれていますので、初回のみ確認に回しました」
「俺は茶葉まで確認するのか」
「本日は初日ですので」
「その言葉で何でも通すな」
「通ります」
レオンは茶を飲んだ。
今飲んでいる茶葉も、誰かが申請したものなのだろう。
そう考えると、少し文句を言いにくかった。
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
しばらくして、レオンは席を立とうとした。
あくまで、少し体を動かそうとしただけである。
廊下へ出る。
少し歩く。
そのまま階段へ向かう。
できれば、玄関まで行く。
逃げようとしたわけではない。決して。
そう考え、立とうとしたところで、イリスと目が合った。
イリスは微笑んでいた。
ただ、目は笑っていなかった。
レオンは、立ち上がりかけた姿勢のまま止まる。
「……座る」
「はい」
声に出して命じられたわけではない。
却下されたわけでもない。
だが、なぜか座るしかなかった。
レオンは椅子に戻る。
イリスは、何事もなかったように次の書類を整えている。
エリシアなら、却下します、と言う。
イリスは、言わない。
言わないのに、却下される。
これはこれで、逃げにくい。
「副長」
イリスが、書類を差し出す。
「こちらをお願いします」
「さっきの無言は何だ」
「何のことでしょうか」
「……何でもない」
「では、こちらを」
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
処理は進んだ。
嫌々でも進んだ。
レオンは文句を言う。
イリスは笑顔で流す。
フィアナは第一執務室内の運用を整える。
メリーは制度と統括管理部との接続を補足する。
リリアは茶と資料を整える。
ココはリリアの資料を自然に持つ。
書記官たちは、最初こそ緊張していたが、少しずつ動き始めた。
第一執務室は、動いている。
それは確かだった。
新しい部署。
新しい机。
まだ慣れない呼び方。
処分中の不自由さ。
それらを抱えたまま、それでも仕事は進む。
組織とは、そういうものだった。
「副長」
イリスが声をかける。
「何だ」
「第一執務室の初回確認は、おおむね完了しました」
「本当か」
レオンは顔を上げた。
少しだけ希望があった。
「はい」
「では休憩か」
「いいえ」
即答だった。
希望は短かった。
「次は第二執務室です」
イリスは予定帳を開く。
「少し早めに移動します」
「なぜだ」
「第二執務室側の準備が整っています」
「逃げられないな」
「逃げる予定はありません」
「俺にはあった」
イリスは答えなかった。
ただ、微笑んだ。
やはり目は笑っていない。
レオンは、すぐに言い直した。
「……なかったことにする」
「はい」
イリスは、何事もなかったように予定帳を閉じた。
レオンは、少しだけ天井を見る。
最初は、少しエリシアに似ていると思った。
仕事を逃がさないところ。
職務という言葉で押し切るところ。
予定を容赦なく詰めるところ。
だが、違う。
似ているようで、かなり違う。
エリシアは、正面から止める。
イリスは、笑顔のまま逃げ道を消す。
どちらが楽かと聞かれれば。
答えたくなかった。
■総騎士団副長府庁舎・第一執務室
レオンは机の上の書類を見た。
少し減っている。
だが、消えてはいない。
明日には、また増えるのだろう。
かなり嫌だった。
「行くか」
レオンは低く言った。
「はい」
イリスが頷く。
「第二執務室からは、エリシアさんへ引き継ぎます」
「文官から軍務補佐官へ交代か」
「はい」
「どちらも逃がさないな」
「職務です」
イリスは微笑んだ。
レオンは第一執務室を出る前に、もう一度机を見た。
新しい机。
新しい書類棚。
新しい役職名。
新しい首席書記官。
そして、新しい種類の圧。
副長府は、まだ始まったばかりだった。
「行くか」
「はい。第二執務室からは、エリシアさんへ引き継ぎます」
「文官の次は軍務補佐官か」
「はい」
「どちらも逃がさないな」
「職務です」
イリスは微笑んだ。
やはり、目は笑っていない。
冬初め。
総騎士団副長府の第一執務室は、穏やかではなかった。
そして、第二執務室は。
おそらく、もっと穏やかではない。




