第181話 代わりはいない
――帝国暦三二一年・秋終わり東ロンバルディア帝国騎士団領 旧第七騎士団本庁・執務室――
旧第七騎士団本庁舎は、静かだった。
すでに多くの書類や備品は、総騎士団副長府庁舎へ移されている。
廊下を行き交う者も少ない。
かつては朝から騎士や書記官が慌ただしく動き、報告と命令が飛び交っていた場所も、今は少しだけ広く感じられた。
ここは、レオンハルト・ヴァイスが第七騎士団長として使ってきた場所だった。
エリシア・グランフェルトが副官として立っていた場所だった。
リリアが書類を抱えて行き来し、クリスが軽口を叩き、何度も面倒な報告が運ばれてきた場所でもある。
そして今日、レオンとエリシアは、この執務室で最後の確認作業をしていた。
副官という席は、なくなった。
総騎士団副長府に、副官職は置かれない。
第一執務室には首席書記官。
第二執務室には軍務補佐官。
第三執務室には工部、輜重補給、資源、情報との連絡調整役。
補佐機能は分割される。一人の隣に、すべてを背負わせないために。
組織としては正しい。
合理的で、無駄が少ない。
エリシアにも、それは分かっていた。
分かっていたからこそ、余計に困った。
正しいことは、痛くないわけではない。
■旧第七騎士団本庁・執務室
執務室には、レオンとエリシアだけがいた。
リリアは副長府第一執務室へ行っている。
イリスも第一執務室で、総庁から届いた文書の確認中。
メリーは統括管理官関連の資料を管理部で整理している。
クリスは、どこかでシエラに捕まっているらしい。
つまり、静かだった。
レオンは、最後に残った書類を机の上で確認している。
エリシアは、その少し横に立っていた。
以前なら、それは当たり前の距離だった。
団長の横。書類を出し、必要なものを先に用意し、次の予定を告げる場所。
自分の立つべき場所。
けれど、今は違う。
エリシアはもう、副官ではない。
「エリシア」
レオンが顔を上げずに呼んだ。
「はい、団長」
「その書類は第二執務室に回す」
「承知しました」
「大隊別の訓練案は、お前が見ろ」
「はい」
「補給が絡むなら第三執務室にも回せ」
「はい」
淡々とした指示だった。
いつものように。
だから、エリシアもいつものように返事をした。
ただ、そのあと一瞬遅れた。
レオンが顔を上げる。
「どうした?」
「いえ」
「ならいい」
そう言って、レオンはまた書類へ目を落としかけた、しかし、すぐに止まる。
「よくないな」
エリシアは瞬きをした。
「何がでしょうか?」
「お前の返事が一瞬遅い」
「……申し訳ありません」
「謝れとは言っていない」
レオンは書類を置いた。
「座れ」
「私は立ったままで」
「座れ」
「はい」
エリシアは静かに椅子へ座った。
向かいではなく、少し横。
以前なら、座ることは少なかった位置だ。
それもまた、妙に落ち着かなかった。
■旧第七騎士団本庁・執務室
レオンは、しばらくエリシアを見ていた。
「副官ではなくなったことを気にしているのか?」
直球だった。あまりに直球すぎて、エリシアはすぐに答えられなかった。
「……職務上の変化は、理解しています」
「気にしているんだな」
「理解しています」
「質問に答えていない」
エリシアは口を閉じた。
そして、少しだけ目を伏せる。
「はい」
短い返事だった。
「気にしています」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。
「私は、副官であることに誇りを持っていました」
「ああ」
「団長の横に立つことを、自分の役目だと思っていました」
「ああ」
「その席を失ったことは……」
「想像していたよりも、堪えます。」
声は震えていなかった。
姿勢も崩れていない。
ただ、膝の上で重ねた指先だけが、少し強く握られていた。
レオンはそれを見ていた。
「そう、落ち込むな」
唐突にレオン言った。
エリシアは顔を上げる。
「団長」
「落ち込むな!」
「それは、命令でしょうか?」
「命令ではない」
「では、助言ですか」
「たぶん……」
「たぶん、ですか」
「すまない、こういう時に何と言えばいいか、自分にはよく分からない」
レオンは真顔で言った。
あまりにも正直だった。
エリシアは、少しだけ言葉に詰まる。
レオンは続けた。
「だが、副官職がなくなったことと、お前が不要になったことは全く違う」
「……はい」
「副長府に副官はいない」
「だが、お前の代わりもいない」
エリシアの指先が止まった。
「私の、代わり」
「いない」
レオンは即答した。
「イリスは首席書記官だ」
「はい」
「リリアは第一執務室の空気を柔らかくする」
「はい」
「メリーは制度と管理に強い」
「はい」
「シエラは記録と報告に強い」
「はい」
「クリスは……まあ、現場を知っている」
「はい」
「それぞれ役割、役目が違う」
レオンは言った。
「イリスは文官だ。首席書記官として優秀だが、軍務は専門の者に任せる必要がある」
エリシアは、少しだけ目を上げた。
「お前は軍務だ」
「大隊運用、訓練、作戦補助、軍事判断」
「俺が見落とす部分を、お前は見る」
「それは、副官職が消えても変わらない」
エリシアは黙っていた。
言葉を受け止めるのに、少し時間が必要だった。
■旧第七騎士団本庁・執務室
「ですが」
エリシアは静かに言った。
「私は、副官資格を満たせなくなりました」
「ああ」
「上級騎士としての扱いも、一度外れました」
「ああ」
「副官に戻る資格は、今の私にはありません」
「だから戻していない」
レオンの返答は早かった。
甘さはない。
エリシアの胸に、少しだけ痛みが走る。
だが。
レオンはそこで終わらなかった。
「また取ればいい」
エリシアは、思わず目を上げた。
「団長」
「上級騎士資格は、また取ればいい」
「簡単ではありません」
「知っている」
「本当に、ご存じですか」
「一応」
エリシアは少しだけ疑わしそうに見た。
レオンは嫌そうな顔をする。
「俺が世間を知らないように見るな」
「申し訳ありません」
「事実だから謝るな」
レオンは小さく息を吐いた。
「簡単ではないのは分かっている」
「実績もいる」
「推薦もいる、だが今の自分はそれが出来る」
「試験もある」
「信頼も取り戻す必要があるだろう。」
エリシアは黙る。
「だから、難しくとも不可能ではない」
「……はい」
「お前なら取れる」
それは、あまりにも当然のような声だった。慰めようとしている響きではない。
ただの判断。
エリシアの能力を、事実として評価している声。だからこそ、胸に響いた。
「団長は」
エリシアは言った。
「なぜ、そう思われるのですか?」
「お前だからだ」
即答だった。
エリシアは息を止める。
レオンは、少し考えてから続けた。
「お前は失敗を誤魔化さない」
「はい」
「責任を人に押しつけない」
「はい」
「命令系統を破ったことは問題だが、救護判断そのものは間違っていなかった」
「はい」
「軍務を見る目はある」
「はい」
「訓練も怠らない」
「はい」
「だから、取り戻せる」
エリシアは、すぐには答えられなかった。
その言葉が、嬉しかった。
嬉しいと認めるには、少し痛いほどに。
■旧第七騎士団本庁・執務室
レオンは、机の端に置いていた資料を指で叩いた。
「副長府に副官はいない」
「はい」
「今は置かない」
「はい」
「だが、将来も絶対に置かないとは言っていない」
エリシアの顔が、わずかに上がった。
「団長」
「副長府が今より広がる可能性はある」
「大隊運用が増えるかもしれない」
「南方情勢次第では、軍団運用も現実になる」
「その時、今の分割だけでは足りなくなるかもしれない」
レオンは淡々と言う。
まるで、単なる組織構想を説明するように。
「その時に、副官に近い職を新しく作る可能性はある」
エリシアの喉が、わずかに動いた。
「副官に近い職……」
「名称は分からない」
「副長付き軍務副官かもしれない」
「副長府軍務副官かもしれない」
「もっと別の名前かもしれない」
「名前はどうでもいい」
「よくはありません」
エリシアが思わず言った。
レオンが少しだけ目を瞬かせる。
「そうか」
「はい」
「では、名前は後で考える」
「はい」
エリシアは、自分でも驚くほど真剣に返事をしていた。レオンは続ける。
「もし、その職が必要になった時」
「お前が上級騎士資格を取り戻していて、条件を満たしているなら」
エリシアは動けなかった。
レオンはまっすぐ言った。
「その時は、また俺の副官になってほしい」
息が、止まった。
副官。
また。
その二つの言葉が、胸の奥に落ちた。
もう消えたと思っていた席。
罰として失った場所。
戻れないと、自分に言い聞かせていた場所。
それを、レオンは、未来の可能性として言った。
「……団長」
声が、少しだけ低くなった。揺れないようにしたせいで、かえって硬くなった。
「それは」
「確約ではない」
レオンは言った。
「必要にならない可能性もある」
「組織として置かない方がいい可能性もある」
「お前が条件を満たせない可能性もある」
「俺がその時、別の役職になっている可能性もある」
「そこまで言わなくても」
エリシアは思わず言った。
レオンは真顔で返す。
「不確定なものを確定のようには言えない」
「……はい」
「だが、可能性はある」
「その時、俺はお前を候補にする」
エリシアは、膝の上の手を強く握った。
喜びが、表に出そうになる。
けれど、うまく出ない。
笑えばいいのか。
頭を下げればいいのか。
泣けばいいのか。
どれも違う気がした。
だから、エリシアはただ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
声は硬かった。
だが、ほんの少しだけ震えていた。
「その時が来るなら」
「必ず、条件を満たしてみせます」
「そうしろ」
レオンはいつも通り短く言った。
「俺は、人事で面倒な説明をするのが嫌いだ」
「はい」
「だから、誰が見ても納得する状態で戻ってこい」
エリシアの目が、少しだけ熱くなる。
「はい、団長」
■旧第七騎士団本庁・執務室
沈黙が落ちた。
重くはなかった。
静かだった。
エリシアは、まだ顔を上げられなかった。
嬉しい。ただ、それをどう出せばいいのか分からない。
以前なら、職務で隠せた。
副官として、すぐに次の仕事へ移ればよかった。
でも、今は違う。
自分は副官ではない。
それでも、レオンは、自分の未来にまだ席を残してくれた。
「エリシア」
「はい」
「泣くなら、見なかったことにする」
「泣いていません」
「そうか」
「はい」
「ならいい」
レオンは書類へ目を戻しかける。
エリシアは少しだけ顔を上げた。
「団長」
「何だ」
「私は、感情表現が得意ではありません」
「知っている」
「ですが」
「今、とても嬉しく思っています」
レオンが顔を上げた。
エリシアはまっすぐ座っていた。
表情は硬い。
いつも通りに見える。
けれど、耳のあたりがほんの少し赤い。
指先も、まだ力が入っている。
「そうか」
レオンは言った。
「なら、よかった」
それだけだった。
けれど、エリシアには十分だった。
「はい」
エリシアは、静かに頷く。
「団長」
「何だ」
「私は、必ず取り戻します」
「上級騎士資格か」
「はい」
「それから」
「団長の隣に立てるだけの信頼を」
レオンは少しだけ目を伏せた。
「信頼は、ゼロではない」
エリシアは息を呑む。
「処分を受けた以上、傷はある」
「はい」
「だが、ゼロにはしていない」
「はい」
「だから働け」
「職務停止中です」
「なら休め」
「はい」
「休んで、鍛え直せ」
「休むのか鍛えるのか、どちらでしょうか」
「両方だ」
「難しい助言です」
「そうか」
エリシアは、ほんの少しだけ笑った。
本当に、わずかに。
口元がかすかに緩んだだけだった。
それでも、レオンは気づいたらしい。
「今、笑ったか」
「笑っていません」
「そうか」
「はい」
「なら、そういうことにしておく」
エリシアは目を伏せた。
胸の奥に残っていた冷たいものが、少しだけ溶けた気がした。
■旧第七騎士団本庁・執務室
最後の書類確認が終わる頃には、窓の外の光が少し傾き始めていた。
レオンは、机の上に残った書類を一つにまとめた。
「これで終わりだな」
「はい」
エリシアは静かに答える。
「旧第七騎士団本庁での、団長の執務はこれが最後になります」
「ああ」
レオンは短く答えた。
執務室の中を、少しだけ見回す。
机。
棚。
壁に掛けられた第七騎士団の古い旗。
何度も開け閉めされた扉。
報告書が積み上がり、命令が飛び交い、面倒な案件が運び込まれた場所。
レオンは、この場所から何度も逃げたいと思った。それでも、ここで多くの仕事をした。
「長かったような」
「短かったような気もする」
エリシアは、少しだけ目を伏せた。
「私は、長かったと思います」
「そうか」
「はい」
「だが、悪い場所ではなかった」
レオンは言った。
その言葉は、少し意外だった。
エリシアは顔を上げる。
「団長」
「何だ?」
「今の言葉は、少し意外でした」
「俺もだ」
「ご自分でもですか」
「ああ」
レオンは机に手を置いた。
「ここでは、ずいぶん働かされた」
「はい」
「何度も辞めたいと思った」
「はい」
「副官が怖かった」
「……はい?」
「いや、何でもない」
「聞こえました」
「忘れろ」
「難しいです」
エリシアはほんの少しだけ目元を和らげた。
レオンは小さく息を吐く。
「だが、世話にはなった」
「はい」
エリシアは立ち上がった。
そして、執務室の中央へ一歩進む。
背筋を伸ばし、静かに頭を下げた。
「今まで、お世話になりました」
誰に向けた言葉なのか。
建物に。
執務室に。
第七騎士団に。
副官として過ごした時間に。
あるいは、そのすべてに。
エリシア自身にも、はっきりとは分からなかった。けれど、言わずにはいられなかった。
レオンはそれを見ていた。
少しだけ沈黙する。
それから、同じように執務室へ目を向けた。
「世話になった」
短い言葉だった。
だが、それで十分だった。
エリシアは顔を上げる。
胸の奥が、また少しだけ熱くなる。
副官としての最後の仕事。
旧第七騎士団本庁舎での最後の確認。
それを、団長と二人で終えられた。
それは、失ったものばかりではなかった。
■旧第七騎士団本庁・執務室前廊下
しばらくして、エリシアが執務室を出ると、廊下にクリスがいた。
壁にもたれ、腕を組んでいる。
「おう」
「何をしているのですか」
「通りかかった」
「嘘ですね」
「最近、みんなそれ言うな」
クリスは肩をすくめる。その少し後ろには、リリアとメリーもいた。
リリアは明らかに心配そうにこちらを見ている。メリーは書類を持ったまま、表情を変えない。
「エリシアさん」
リリアが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか」
「はい」
「本当に?」
「はい」
エリシアは少しだけ迷ってから、言った。
「団長に、慰めていただきました」
クリスが目を丸くした。
「レオンが?」
「はい」
「慰められたのか?」
「おそらく」
「おそらくって何だよ」
メリーが静かに言う。
「お兄様は、慰めるつもりがなくても結果的に慰めることがあります」
「あるな」
クリスが頷いた。
リリアはぱっと顔を明るくする。
「お兄様は優しいですから」
「優しいっていうか、変な方向にまっすぐなんだよ」
「そこが素晴らしいところです」
「今の話を聞いて、そうなるのか」
クリスは疲れた顔をした。
エリシアは、そのやり取りを見ていた。
少し前なら、たぶん焦って止めていた。
団長への不用意な評価。
職務中の雑談。
廊下での無駄話。
だが、今は少しだけ聞いていたかった。自分の中に残った熱が、簡単には消えてほしくなかった。
「エリシアさん」
メリーが言う。
「上級騎士資格について、制度確認が必要であれば資料を用意します」
「お願いします」
「再取得には、実績、推薦、審査、試験、信頼回復が必要です」
「承知しています」
「簡単ではありません」
「はい」
エリシアは静かに頷いた。
「でも、やります」
リリアが、嬉しそうに両手を胸の前で重ねた。
「エリシアさんなら、きっとできます」
「ありがとうございます」
クリスも軽く笑う。
「まあ、お前ならやるだろ」
「当然です」
「怖い顔で訓練して、怖い顔で試験受けて、怖い顔で合格しそうだしな」
「クリス」
「なんだよ」
「後で訓練場へ」
「職務停止中じゃねぇのかよ」
「見学です」
「絶対見学じゃないだろ」
リリアが少しだけ笑った。
メリーも、ほんのわずかに口元を緩める。
エリシアは廊下の窓へ目を向けた。
秋の終わりの光が、冷たく差し込んでいる。
副官ではなくなった。
その事実は、変わらない。
上級騎士としての扱いも、一度失った。
信頼にも傷がついた。
けれど、道は、まだ残っている。
そして、その道の先に。
もう一度、名を呼ばれる可能性がある。
副官として。
団長の隣に立つ者として。
エリシアは、静かに息を吸った。
「私は、取り戻します」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
リリアが頷く。
メリーも頷く。
クリスは少しだけ笑って、廊下の奥を見る。
「じゃあ、まずは休めよ」
「休みます」
「ほんとか?」
「はい」
「訓練場に行かないな?」
「見学です」
「駄目だこりゃ」
クリスが天井を見た。
リリアがまた笑った。
その笑い声を聞きながら、エリシアは少しだけ目を伏せる。嬉しい時に、どう笑えばいいのかは、まだよく分からない。
けれど、今なら少しだけ、分かる気がした。
胸の奥に残った熱を、消さずに持っていけばいい。
いつか、もう一度。
団長の隣に立てる日まで。
――第一章 了




