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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第179話 私の任官のためでした

――帝国暦三二一年・秋終わり ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・イリス私室――


 イリスは、まだ少し疲れていた。


 山賊に襲われたこと。


 馬車を失ったこと。


 慣れない道を歩いたこと。


 小さな礼拝堂で一夜を越したこと。


 そのすべてが、体に残っている。


 それでも、休んでいるだけではいられなかった。


 机の上には、任命状が置かれている。


 総騎士団副長府首席書記官。


 もう、客人ではない。


 この国の一員。


 ならば、自分のために起きたことから、目を逸らすわけにはいかない。


 扉が小さく叩かれた。


「イリス様」


 リリアの声だった。


「入ってください」


 扉が開く。


 リリア。


 メリー。


 そして、レオン。


 少し遅れて、シエラも入ってきた。


 エリシアはいない。


 それだけで、部屋の空気が少し重くなる。


 イリスは静かに立ち上がろうとした。


「座っていろ」


 レオンが言った。


 短い声だった。


 いつも通り。


 でも、いつもより少し硬い。


「……ありがとうございます」


 イリスは素直に座り直す。


 リリアが心配そうに見る。


 メリーは静かに目を伏せていた。


 シエラは、記録用の紙を持っている。


 イリスはそれを見て、小さく笑った。


「聴取、ですね」


「正式な聴取前の確認です」


 シエラが答えた。


「人事部監察課からも、後ほど確認が入ると思われます」


「分かりました」


 イリスは頷く。


「話します」


「今回のことは、私の任官のためでした」


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・イリス私室


 メイドのメリッサが控える中、沈黙が続く。


 リリアが息を呑む。


 メリーは動かない。


 レオンは、ただイリスを見る。


「最初から説明してください」


 まず、シエラが静かに言った。


「はい」


 イリスは任命状へ視線を落とした。


「私は、騎士団領に戻りたいと思いました」


「客人としてではなく」


「この場所で、職務を持つ者として」


「皆さんと同じ側に立ちたかったのです」


「そのために、帝都へ戻りました」


 レオンは何も言わない。


 イリスは続ける。


「皇帝陛下に意思を伝えました」


「兄にも」


「当然、反対されました」


「皇女が騎士団領で任官するなど、簡単に認められる話ではありませんから」


 その声は落ち着いていた。


 ただ、少しだけ疲れている。


 それでも、イリスは言葉を止めない。


「それでも、私は戻ると言いました」


「総騎士団副長府首席書記官になり、レオンの下で、働くために」


 リリアが小さくレオンを見る。


 レオンは、やはり何も言わない。


 ただ、少しだけ目を細めた。


「その任官には、期限がありました」


 イリスは言う。


「総騎士団副長府の発足前」


「現総長であるヴァルド様が、初期人事として処理できる最後の時期です」


「発足後であれば、人事権はレオンに移ります」


「そうなれば、私の任官はきっと止められると思いました」


 レオンの視線が、わずかに動く。


 イリスは、その目を正面から受けた。


「あなたなら、私を止めたでしょう?」


 部屋が静かになる。


 レオンは、少しだけ黙った。


「……止めたかもしれない」


 正直な答えだった。


 イリスは少しだけ笑う。


「そう思いました」


「だから、皆さんは隠したのです」


「私も、それを望みました」


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・イリス私室


「道中のことを話します」


 イリスは、ゆっくりと息を整えた。


「帝都を出た後、予定より遅れました」


「理由はいくつかあります」


「帝都側の手続き」


「護衛の調整」


「道中の確認」


「そして、西方街道での襲撃」


 リリアの手がぎゅっと握られる。


「山賊に襲われました」


「護衛の方々が撃退してくださいました」


「ですが、馬車を失いました」


「馬も散り、連絡も途切れました」


「そのため、一部の護衛が街道へ戻り、連絡と安全確認へ向かいました」


「私は、メリッサと護衛二名とともに旧林道へ避難しました」


「小さな礼拝堂まで、歩きました」


 レオンの顔が少しだけ険しくなる。


 イリスは苦笑した。


「慣れない徒歩の旅でした」


「正直に言えば、かなりつらかったです」


「足も痛くて」


「途中で、少しだけ後悔もしました」


 リリアが泣きそうな顔になる。


「イリス様……」


「でも」


 イリスはリリアを見る。


「戻りたかったのです」


「ここへ」


「客人ではなくなるために」


「自分の足で戻る必要があると思いました」


「……馬車は失いましたけど」


 少しだけ、いつもの冗談めいた口調が戻る。


 でも、誰も笑えなかった。


 イリスもそれ以上は笑わず、視線を落とす。


「第六中隊が来てくれなければ、間に合わなかったかもしれません」


「エリシアさんが動いてくれなければ」


「クリスさんが協力してくれなければ」


「メリーさんとリリアさんが、手続きを進めてくれなければ」


「私は任官できませんでした」


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・イリス私室


「つまり」


 シエラが静かに確認する。


「今回の一連の行動は、イリス殿下の任官を発足日前に完了させるためのものだった」


「はい」


「殿下ご本人も、その事情を理解していた」


「はい。理解していました」


「副長に事前に知らせれば、任官が止まる可能性があると認識していた」


「はい」


「そのため、秘匿されることを少なくとも容認していた」


「はい」


 イリスは一つずつ頷いた。


 リリアが小さく声を上げる。


「イリス様」


「リリアさん」


 イリスは優しく呼ぶ。


「ここは、曖昧にしてはいけません」


「でも……」


「私の任官のためです」


 その声は静かだった。


「皆さんは、越権、逸脱と困った動きをしましたが、全て私のために動いてくれました」


「それが正しかったとは言いません」


「でも、私が関係ないとは絶対に言わせません」


 メリーが、初めて少しだけ顔を上げた。


「お姉様……」


「メリーさんもです」


 イリスはメリーを見る。


「私のために動いてくれましたね」


「はい」


「ありがとう」


 メリーは一瞬だけ黙った。


 それから、静かに答える。


「……怒られる場面です」


「感謝は別です」


 イリスは小さく微笑んだ。


「後で、一緒に怒られましょう」


「お兄様にですか」


「はい」


「かなり長くなりそうです」


「それは困りますね」


 少しだけ、空気が揺れた。


 ほんの少し。


 でも、レオンは笑わなかった。


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・イリス私室


 レオンが口を開いた。


「イリス」


 イリスは顔を上げる。


「はい」


「なぜ、俺に言わなかった」


 その声は静かだった。


 怒鳴ってはいない。


 責め立ててもいない。


 ただ、問いだった。


 イリスは、すぐには答えなかった。


 そして、ゆっくりと言う。


「あなたが、私を守ろうとするからです」


 レオンは黙る。


「私は、それが嫌だったわけではありません」


「嬉しかったです」


「でも、守られるだけでは、本当の仲間になれません」


「責任を負う場所に入りたかった」


「そのためには、あなたに止められる前に、形を作るしかありませんでした」


「それは」


「とても、ずるいやり方でした」


 イリスは任命状を見る。


「私は、あなたが断れない形を作りました」


「皆さんも、それを助けてくれました」


「だから、もし責任を問うなら」


 静かに、はっきり言う。


「私にも問うてください」


 リリアが震えた。


「イリス様!」


「リリアさん」


 イリスは優しく制した。


「私は既に首席書記官です」


 その言葉に、レオンがわずかに反応した。


 ほんの少しだけ。


 でも、確かに。


 今までのイリスは、皇女だった。


 客人だった。


 守るべき相手だった。


 だが今、彼女は自分でそう言った。


 総騎士団副長府首席書記官。


 つまり。


 自分の下で働く者。


 自分の命令系統に入る者。


 責任を負う側へ来た者。


 レオンは、短く息を吐いた。


「……そうだったな」


 低い声だった。


「君はもう、客人ではない」


 イリスは静かに頷く。


「はい」


「だからこそ」


 レオンは続けた。


「責任を問われる」


「承知しています」


「守られるだけでは済まない」


「そのために戻りました」


 その言葉に、レオンは少しだけ目を伏せた。


 納得したわけではない。


 怒りが消えたわけでもない。


 ただ、イリスを外側の人間として扱う逃げ道が、そこで一つ消えた。


 イリスは改めてリリアを見る。


「もう客人ではありません」


「自分の席のために起きたことを、他人事にはできません」


 レオンは、じっとイリスを見ていた。


 長い沈黙。


 その後、短く言う。


「分かった」


 それだけだった。


 イリスは少しだけ目を伏せる。


「ありがとうございます」


「礼を言うことではない」


「そうですね」


「怒っている」


「はい」


「君にも」


「はい」


 イリスは静かに頷いた。


 ほんの少し微笑みながら。


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・人事部監察課


 その後。


 イリスは、人事部監察課でも同じ内容を証言した。


 レオン。


 シエラ。


 リリア。


 メリー。


 クリス。


 関係者は、別室または同席可能な範囲で記録を確認した。


 監察官は、イリスの前で慎重に言葉を選んだ。


 相手は皇女。


 同時に、総騎士団副長府首席書記官。


 もう、ただの客人ではない。


「イリス殿下」


「はい」


「今回の行動は、殿下の任官を発足前に完了させるためのものだったと、証言されるのですね」


「はい」


「殿下ご自身が、その事情をある程度理解していた」


「はい」


「レオンハルト団長へ事前に知らせなかった理由は」


「止められると考えたためです」


「それは、殿下ご自身の判断ですか」


「はい」


 監察官が記録係へ視線を送る。


 筆が走る。


「エリシア・グランフェルト殿の委任状偽造については、事前に知っていましたか」


「いいえ」


「第六中隊の出動については」


「礼拝堂で収容されるまで知りませんでした」


「では、殿下が直接命じたものではない」


「はい」


「ですが、その原因となった任官計画は殿下ご自身の意思による」


「はい」


 イリスは逃げない。


 そこだけは、はっきりさせる。


「私は、自分の任官のために皆さんが動いたことを理解しています」


「その上で、証言します」


「私は戻る意思を持ち、任官を望みました」


「そのために必要な期限があったことも理解していました」


「今回の騒動から、私だけを切り離さないでください」


 監察官はしばらく黙った。


 皇女本人が、自分も責任の中心にいると言っている。


 これは軽く扱えない。


 同時に、処分もしづらい。


 だからこそ、証言としては強かった。


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・人事部監察課・廊下


 聴取後。


 イリスは廊下に出た。


 リリアがすぐに駆け寄る。


「イリス様」


「大丈夫です」


 イリスは微笑む。


「思ったより、怖くありませんでした」


「怖かったですよね?」


「少し」


「やっぱり……」


 リリアは泣きそうな顔になる。


 イリスはそっと手を伸ばし、リリアの手に触れた。


「リリアさん」


「はい」


「ありがとうございました」


「え……」


「私を、戻そうとしてくれて」


 リリアの目に涙が浮かぶ。


「でも、私……お兄様に隠して……」


「ええ」


「悪いことをしました」


「はい」


 イリスは頷いた。


「私もです」


「だから、一緒に怒られましょう」


 リリアは涙をこぼしそうになりながら、少し笑った。


「はい……」


 その横で、メリーが静かに言う。


「お姉様」


「はい」


「怒られる範囲が、かなり広がりました」


「そうですね」


「おそらく長いです」


「覚悟します」


 シエラが後ろで記録を見ている。


「説教時間の予測も必要でしょうか」


 クリスがすぐに言った。


「いらねぇ」


「参考値として」


「いらねぇって」


 少しだけ、空気が戻る。


 それでも、エリシアはまだ戻っていない。


 それだけは、誰も忘れなかった。


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室


 夜。


 レオンはイリスの証言記録を読んでいた。


 机の上には、また書類が増えている。


 シエラ報告書。


 クリス証言。


 リリアとメリーの聴取記録。


 そして、イリスの証言。


 自分の任官のためだった。


 彼女はそう言った。


 自分を客人ではなくすために。


 レオンに止められる前に、形を作るために。


 そのために、皆が動いた。


 レオンは記録を閉じる。


「……面倒なことを」


 小さく呟く。


 呆れ。


 怒り。


 心配。


 少しだけ、理解。


 全部が混ざっていた。


 イリスは助かった。


 任官も済んだ。


 首席書記官の席は埋まった。


 だが、その席に至るまでの道が、あまりにも荒れていた。


 その道を作った者たちは、全員傷を負っている。


 そして、エリシアはまだ戻らない。


 レオンは窓の外を見る。


 総庁の灯りが見える。


 事実は増えた。


 論点も分かれてきた。


 エリシア一人の責任ではないことも、はっきりしてきた。


 だが、彼女の罪が消えたわけではない。


 イリスの証言は、すべてを救うものではなかった。


 ただ、今回の騒動の中心に、誰の願いがあったのか。


 それだけは、もう隠せなくなった。


 イリスは、客人ではなくなるために戻った。


 そのために、皆が動いた。


 そしてその願いだけは、誰にも否定できるものではなかった。

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