第174話 遅すぎた報告
――帝国暦三二一年・秋終わり ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室――
夜だった。
レオンは、まだ執務室にいた。
机の上には、副長府発足準備の資料。
第一執務室。
第二執務室。
第三執務室。
首席書記官。
大隊編成。
総騎士団副長府人事部。
工部分室。
輜重補給部分室。
どれも、嫌な文字ばかりだった。
レオンは資料を一枚めくる。
そして、止まる。
「……エリシア」
呼んだ。
返事はない。
いつもなら、少し離れた場所からすぐに声が返る。
はい、団長。
そう言って。
必要な資料を持ってくる。
だが、返事はなかった。
レオンは顔を上げる。
「エリシア?」
執務室は静かだった。
いつもより。
少しだけ。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室
扉が開いた。
入ってきたのは、リリアだった。
顔色が悪い。
明らかに。
レオンはすぐに眉を寄せた。
「リリア」
「……お兄様」
「どうした」
リリアは答えない。
言葉を探すように、視線を揺らしている。
その後ろから、メリーが入ってきた。
さらに、クリス。
シエラ。
全員、表情が硬い。
レオンは資料を置いた。
「何があった?」
短い声だった。
リリアが肩を震わせる。
メリーは目を伏せる。
クリスは苦い顔をしたまま、何も言わない。
シエラだけが、静かに一冊の報告書を持っていた。
「団長」
リリアが小さく言った。
だが、その後が続かない。
レオンは、少しだけ目を細める。
「エリシアはどこだ」
その一言で、部屋の空気がさらに重くなった。
答えたのは、メリーだった。
「エリシアさんは」
「総庁人事部監察課に、拘束されました」
沈黙。
長い沈黙だった。
レオンは動かなかった。
表情も変わらない。
ただ。
空気だけが冷えた。
「……拘束」
低い声だった。
「理由は」
誰もすぐには答えなかった。
クリスが歯を食いしばる。
「軍令違反の疑いです」
レオンがクリスを見る。
「軍令違反?」
「ああ」
「何をした」
クリスは、すぐに答えなかった。
それが答えのようなものだった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室
シエラが一歩前へ出た。
「説明します」
レオンの視線が向く。
「シエラ」
「はい」
「なぜ君が説明する?」
「報告書を預かっているためです」
「報告書?」
シエラは、手にしていた報告書を机に置いた。
厚みがある。
整理された紙束。
表題は、こうだった。
西方街道における帝都側使者収容および関連行動報告。
レオンの目が、その文字を追う。
「……帝都側使者」
低く呟く。
「誰のことだ」
誰も答えない。
いや。
答えられない。
レオンは、ゆっくりと顔を上げた。
「誰のことだ」
二度目。
声は荒くない。
だが、逃げ道がなかった。
リリアが震える声で言った。
「……イリス様です」
レオンの視線が、リリアへ向く。
「イリス?」
「はい」
「帰ってきたのか」
リリアは唇を噛む。
「はい」
「いつ」
「今日です」
「なぜ俺は知らない」
その問いに、誰も答えられなかった。
部屋が静まり返る。
レオンは報告書を見る。
その手は、まだ動かない。
「最初から説明しろ」
静かな声だった。
「省略するな」
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室
説明は、メリーから始まった。
皇太子アシュレイ・ヴェル=ヴェリアからの書状。
イリスが騎士団領へ戻る意思を固めたこと。
総騎士団副長府首席書記官として任官する計画。
発足日前の初期人事として、現総長ヴァルドが処理する予定だったこと。
五日後の夕刻に到着予定だったこと。
西ロンバルディア・メットへの未着報告。
予定より五日遅れの通過記録。
護衛隊の人数減少。
旧林道。
小さな礼拝堂。
山賊の襲撃。
馬車の喪失。
徒歩での避難。
第六中隊による収容。
そして。
エリシアが団長名義の委任状を作り、第六中隊を動かしたこと。
レオンは、途中で一度も口を挟まなかった。
それが、逆に怖かった。
リリアは何度も泣きそうになった。
クリスはずっと腕を組んでいる。
シエラは、報告書の横に立っていた。
メリーは淡々と説明した。
淡々と逃げずに。
「……以上です」
最後に、メリーが言った。
部屋は静かだった。
レオンは、報告書に視線を落としている。
しばらくして。
低い声で聞いた。
「イリスは無事なのか」
最初に聞いたのは、それだった。
リリアが顔を上げる。
「はい」
「疲れていましたけど……無事です」
「医務確認は」
「受けています」
「護衛は」
「生存しています。負傷者はいますが、命に関わる状態ではありません」
レオンは頷いた。
「そうか」
短い返事だった。
その後。
ようやく、レオンは顔を上げた。
「それで」
「なぜ、俺に言わなかった」
部屋の空気が、また重くなる。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室
リリアが一歩前へ出た。
「私です」
声は震えていた。
「私が、お兄様に隠しました」
「リリア」
メリーが止めようとする。
だが、リリアは首を振った。
「皇太子殿下からの書状を、私が開けました」
「お兄様に渡さずに」
「イリス様が戻ってくる日も、任官のことも」
「全部……隠しました」
レオンは、リリアを見ている。
静かに。
「なぜだ」
「お兄様が、止めると思ったからです」
リリアは泣きそうな顔で言った。
「イリス様が、ここまでして戻ろうとしているのに」
「客人ではなく、仲間になろうとしているのに」
「お兄様はきっと、守るために止めると思いました」
「だから、隠しました」
レオンは何も言わない。
リリアは続ける。
「ごめんなさい」
「でも」
「止めたくありませんでした」
静かな部屋に、リリアの声だけが響く。
レオンはしばらくリリアを見ていた。
「……そうか」
短い声。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
分からない。
リリアには、それが一番怖かった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室
次に、クリスが口を開いた。
「俺も知ってた」
レオンが見る。
「第六中隊を動かした」
「ああ」
「委任状は」
「偽造だと途中で気づいた」
クリスは逃げなかった。
「それでも動いた」
「殿下を探す必要があったからだ」
「兵には、帝都からの使者の所在確認と説明した」
「本当の対象は伏せた」
「戻ったあと、すぐお前に報告するつもりだった」
「シエラに止められた」
シエラが静かに頷く。
「報告の延期を提案しました」
「報告書は私が受領しています」
「隠蔽ではなく、事態収束後の正式報告として扱うためです」
レオンはシエラを見る。
「君も関わったのか」
「はい」
「理由は」
「今すぐ報告すれば、皇女殿下の任官手続きが止まる可能性があったためです」
「君はそれを認めた」
「報告義務は残しました」
「時期をずらしただけです」
「詭弁だな」
「はい」
シエラは否定しなかった。
「ですが、必要と判断しました」
レオンは少しだけ目を細める。
「全員、必要と判断したわけか」
誰も答えない。
答えるまでもなかった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室
レオンは報告書を手に取った。
最初のページを開く。
読んでいく。
皇太子の書状。
返書。
西方街道報告。
委任状。
第六中隊出動記録。
小さな礼拝堂での収容。
シエラへの報告書提出。
そして、エリシアの拘束。
文字が並んでいる。
全てが自分の知らないところで起きたことだった。
レオンは、紙をめくる手を止めた。
「……エリシアは」
低い声だった。
「自分だけの責任にするつもりだったのか」
メリーが答える。
「はい」
「二人は知らなかったことにしろと、言っていました」
「それで?」
「私は拒否しました」
「委任状の文面は?」
「私が整えました」
「なら、君も関係者だ」
「はい」
「リリアは?」
「書状を開け、隠しました」
「クリスは?」
「偽造と知りながら、第六中隊を動かしました」
「シエラは?」
「報告を延期しました」
レオンは静かに頷いた。
「全員だな」
その言葉に、部屋の空気が凍る。
誰か一人の問題ではない。
エリシアだけではない。
ここにいる全員が、何らかの形で関わっている。
それを、レオンは一つずつ確認した。
「……では、なぜエリシアだけが拘束された」
声が、少し低くなった。
クリスの目が細くなる。
シエラも、わずかに反応した。
レオンは報告書を閉じる。
「人事部監察課は、誰から告発を受けた」
シエラが答える。
「第六中隊所属騎士からと聞いています」
「誰だ」
「まだ確認できていません」
「確認しろ」
短い命令だった。
シエラが頷く。
「はい」
「クリス」
「ああ」
「第六中隊の帰還後の動きを洗え」
「分かった」
「メリー」
「はい、お兄様」
「この件に関わる書類を全て持ってこい」
「承知しました」
「リリア」
「はい……」
「イリスの状態を確認してこい」
「え」
「今は休ませるのが優先だ」
リリアの目に涙が浮かぶ。
「はい」
「それと」
レオンは少しだけ言葉を止めた。
「泣くな。まだ終わっていない」
リリアは必死に頷いた。
「はい」
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室
レオンは立ち上がった。
表情は変わらない。
怒鳴らない。
机も叩かない。
ただ、静かだった。
その静けさが、普段よりずっと怖かった。
「団長」
メリーが小さく言う。
「エリシアさんは、監察課に……」
「分かっている」
レオンは答える。
「拘束理由は、軍令違反の疑い」
「指揮権の不正行使」
「委任状偽造」
「正式報告を経ない領外部隊行動」
「だな」
「はい」
「事実はある」
その言葉に、誰も反論できなかった。
事実はある。
偽造も。
無断出動も。
報告遅延も。
確かにあった。
「だが」
レオンは続けた。
「エリシア一人で成立する話ではない」
声が低い。
「なぜ一人だけ拘束した」
その問いは、部屋に向けたものではなかった。
監察課。
告発者。
そして、この一連の動きの裏側へ向けたものだった。
クリスが小さく息を吐く。
「レオン」
「なんだ」
「俺も行く」
「来い」
即答だった。
クリスは少し驚いた顔をした。
レオンは続ける。
「お前も関係者だ」
「証言も必要になる」
「それと」
「エリシアを拘束させたままにするつもりはない」
リリアが顔を上げる。
メリーも、わずかに目を開いた。
レオンは扉へ向かう。
「まず、事実を確認する」
「怒るのは、その後だ」
淡々としていた。
だが、その声の奥には、確かに熱があった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁へ向かう廊下
レオンとクリスが廊下を歩く。
後ろからシエラもついてくる。
メリーは書類を集めに走り、リリアはイリスの部屋へ向かった。
それぞれが動き始めた。
クリスは横目でレオンを見る。
「怒ってるか」
「怒っている」
「分かりにくいな」
「今は優先順位が違う」
「何が一番だ」
「エリシアの拘束理由の確認」
「次は?」
「告発者」
「その次は?」
「全員への説教」
「やっぱりあるのかよ」
「当然だ」
クリスは少しだけ苦い顔をした。
「俺もか」
「当然だ」
「だよな」
いつもの会話に近い。
だが、空気は重いままだった。
レオンは前を見ている。
総庁の灯りが、廊下の先に見えた。
エリシアが拘束されている。
自分の知らないところで。
自分の名前が使われ。
自分の部下が動き。
自分の補佐官が罪を背負おうとしている。
知らなかった。
その事実が、静かに胸の奥へ沈んでいく。
レオンは足を止めなかった。
知った以上。
もう、止まる理由はなかった。




