第173話 一人だけの任官式
――帝国暦三二一年・秋終わり ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・小礼式室――
夜だった。
総庁の奥。
普段は使われない小さな礼式室に、灯りがともっていた。
大きな式ではない。
参列者も少ない。
ヴァルド・エイゼン。
エリシア。
メリー。
リリア。
そして。
イリス。
それだけだった。
皇女の任官式としては、あまりにも静かだった。
総騎士団副長府首席書記官。
新設される組織の、まだ空席だった役職。
その席に。
今夜、ひとりの名が入る。
「……本当に、これでよろしいのですか?」
エリシアが静かに言った。
問いかけた相手は、イリスだった。
イリスは、少し疲れの残る顔で笑う。
長旅の疲労は、まだ完全には抜けていない。
それでも、その目は揺れていなかった。
「はい」
「私は、客人ではなくなりたいので」
その言葉に、リリアが少しだけ目を伏せる。
メリーは黙っていた。
ヴァルドは、椅子に座ったまま、楽しそうでもあり、どこか静かでもある顔でイリスを見ていた。
「皇女殿下」
ヴァルドが口を開く。
「ここから先は、ただの滞在では済みませんぞ」
「承知しています」
「首席書記官とはいえ、副長府の中枢です」
「はい」
「レオンハルトのそばにいるということは、面倒の中心に立つということでもある」
「それも、少し分かってきました」
イリスは小さく笑う。
「分かってなお、望みます」
ヴァルドは、少しだけ目を細めた。
「よろしい」
低い声だった。
「では、始める」
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・小礼式室
任官には、三つが必要だった。
拝命。
宣誓。
任命状の授与。
どれか一つでも欠ければ、正式な任官とはならない。
だからこそ、イリスが今夜ここにいることには意味があった。
間に合った。
ぎりぎりで。
レオンに知られないまま。
ヴァルドが、机上の任命状を手に取る。
封蝋には総長印。
退任を前にした、現総長としての最後に近い仕事だった。
「イリスティア・ヴェル=ヴェリア」
正式名が、静かな部屋に響いた。
イリスが一歩前へ出る。
「はい」
「汝を、総騎士団副長府首席書記官に任じる」
拝命。
その一言で、イリスの立場が変わる。
皇女。
客人。
その上に、もう一つの役割が加わった。
総騎士団副長府首席書記官。
レオンハルト・ヴァイスの下で働く者。
副長府の書記官組織を束ねる者。
イリスは静かに頭を下げた。
「拝命いたします」
リリアの手が、小さく震えた。
メリーはそれを見て、そっと視線を落とす。
エリシアは、まっすぐイリスを見ていた。
この瞬間が、どれほど大きいか。
分かっているから。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・小礼式室
次に、宣誓が行われた。
ヴァルドの前に、古い宣誓文が置かれる。
イリスは、その文面を一度見てから、顔を上げた。
「私は、総騎士団副長府首席書記官として」
静かな声だった。
だが、弱くはない。
「職務を誠実に果たし」
「総騎士団副長を補佐し」
「副長府の秩序、記録、連絡、調整を守り」
「騎士団領の職務において、私情に溺れず、公正を失わぬことを誓います」
イリスは、ほんの少しだけ息を吸う。
「また」
「私は、この地において客人ではなく、職務を負う者として立つことを誓います」
その言葉は、宣誓文にはなかった。
リリアが息を呑む。
エリシアの目が、わずかに揺れた。
メリーも、イリスを見る。
ヴァルドは止めなかった。
ただ、静かに聞いていた。
「よろしい」
低い声が返る。
宣誓は、受け入れられた。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・小礼式室
最後に、任命状が授与された。
ヴァルドが、イリスへ一枚の書状を差し出す。
イリスは両手で受け取った。
丁寧に。
まるで、紙ではなく、責任そのものを受け取るように。
「総騎士団副長府首席書記官」
ヴァルドが言った。
「明日より、正式に副長府へ入れ」
「はい」
「レオンハルトには、明日知れる」
部屋の空気が少し変わる。
リリアが小さく肩を揺らした。
メリーは静かに目を伏せる。
エリシアは表情を変えない。
イリスは、少しだけ苦笑した。
「怒りますか?」
「怒るじゃろうな」
ヴァルドはあっさり言った。
「かなり」
イリスは困ったように笑う。
「やはり」
「まあ、諦めろ」
「諦めるのは、レオンの方では?」
「それもそうじゃな」
ヴァルドが笑った。
小さな礼式室に、ほんの少しだけ空気が緩む。
だが、すぐに静けさが戻った。
これは、祝いだけではない。
秘密の上に成り立った任官だった。
その重さは、誰も忘れていなかった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・小礼式室
式が終わると、ヴァルドは任命記録に署名した。
メリーが、それを確認する。
エリシアも記録欄を見る。
不備はない。
拝命。
宣誓。
任命状の授与。
すべて終わった。
イリスは正式に、総騎士団副長府首席書記官となった。
「これで」
リリアが小さく言う。
「イリス様は、戻ってこられたんですね」
イリスはリリアを見る。
少し疲れた顔で。
それでも、嬉しそうに。
「はい」
「戻りました」
その言葉に、リリアは泣きそうになりながら笑った。
メリーも静かに頷く。
「お姉様」
「はい」
「明日から、忙しいですよ」
「それは分かっています」
「第一執務室は混乱します」
「想定しています」
「お兄様も混乱します」
「それは少し楽しみです」
エリシアが静かに見る。
「殿下」
「はい」
「団長を過度に混乱させないでください」
「努力します」
「努力ではなく、実行してください」
「……はい」
イリスは少しだけ笑った。
ようやく。
少しだけ、いつものイリスに戻った気がした。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・小礼式室前廊下
式の後。
エリシアとイリスは、少しだけ廊下に残った。
リリアとメリーは、先に資料を運んでいる。
ヴァルドは奥の部屋へ戻った。
夜の総庁は静かだった。
「イリス殿下」
エリシアが呼ぶ。
「はい」
「明日から、殿下の職務は第一執務室が中心になります」
「ええ」
「団長の予定管理」
「来客対応」
「書類の優先順位整理」
「副長府内の連絡調整」
「帝都や総庁との窓口の一部」
「これまで私が担っていた秘書官に近い仕事は、軍事関係を除き、基本的に殿下へ引き継がれます」
イリスは真剣に聞いていた。
「エリシアさんは?」
「私は第二執務室で、ヴァイス騎士団の運用と軍事関係の助言を主に担当します」
「今までと同じように団長を補佐しますが、全てを私が抱える形ではなくなります」
「寂しくはありませんか?」
イリスが静かに聞く。
エリシアはすぐには答えなかった。
廊下に、短い沈黙が落ちる。
「……必要なことです」
「答えになっていませんね」
「答えにするほどのことではありません」
イリスは少しだけ微笑む。
「エリシアさんらしいです」
「私は、いずれ大隊長となる可能性もあります」
エリシアは続けた。
「団長の隣に立つだけではなく、軍事面で支える形へ変わるでしょう」
「それでも」
「団長を支えることに変わりはありません」
イリスは頷いた。
「では、私は第一執務室を支えます」
「お願いします」
「はい」
イリスは任命状を胸に抱える。
「客人ではなくなりましたから」
その言葉に、エリシアは静かに頷いた。
「はい」
「ようこそ、副長府へ」
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・小会議室
その後。
約束していた報告書が、シエラへ提出された。
場所は第七騎士団本庁の小会議室。
出席者は、リリア。
メリー。
エリシア。
クリス。
そして、シエラ。
机の上には、厚みのある報告書が置かれていた。
皇太子からの書状。
到着遅延。
西ロンバルディア・メット未着。
委任状の作成。
第六中隊の出動。
小さな礼拝堂での収容。
帰還。
全てが、時系列で記録されている。
もちろん、余計な広がりを避けるため、表現は慎重に選ばれていた。
だが、なかったことにはしていない。
シエラは最初から最後まで読み、静かに言った。
「受領します」
リリアがほっと息を吐く。
「これで……約束は」
「果たされました」
シエラは頷く。
「ただし、この報告書は私の管理下に置きます」
「必要になれば、提出します」
クリスが苦い顔をする。
「必要にならないことを祈る」
「祈る前に、次からは先に報告してください」
「俺に言うな」
「あなたも関係者です」
「それはそうだが」
シエラは表情を変えない。
「今回の件は、全員が危険な橋を渡っています」
「結果として殿下は戻られました」
「任官も完了しました」
「だからといって、過程が消えるわけではありません」
全員が黙る。
正しい。
分かっている。
それでも。
リリアは少しだけ胸を撫で下ろしていた。
イリスは任官した。
報告書も出した。
クリスも約束を守ってくれた。
シエラも受け取ってくれた。
ようやく。
一連の騒動が終わったような気がした。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・小会議室前
会議室を出た時。
リリアは小さく息を吐いた。
「……終わりましたね」
メリーが静かに頷く。
「少なくとも、一つは」
「一つ?」
「明日、お兄様にお姉様の任官が知られます」
「あ……」
リリアは一瞬、顔をこわばらせた。
それは、終わっていない。
むしろ、明日から始まる。
クリスが廊下で腕を組む。
「レオン、絶対嫌な顔するぞ」
「しますね」
メリーが即答した。
エリシアも静かに言う。
「説明は必要です」
「誰がするんだ」
クリスが聞く。
沈黙。
全員が少しだけ視線を逸らした。
「おい」
「……必要な者全員で」
エリシアが言った。
「それが一番、怒られますね」
シエラが冷静に言う。
「言わないでください」
リリアが小さく肩を落とす。
それでも、空気は少しだけ軽かった。
イリスは戻った。
席も埋まった。
報告書も出した。
罪が消えたわけではない。
だが、一つの山は越えた。
そう思っていた。
その時だった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・廊下
廊下の向こうから、数名の騎士が歩いてきた。
総庁の制服。
その中に、人事部の腕章をつけた者がいる。
エリシアが、すぐに気づいた。
メリーの表情も変わる。
シエラが眼鏡の奥で目を細めた。
「……人事部監察課」
小さな声だった。
騎士たちは、まっすぐエリシアの前で止まった。
「エリシア・グランフェルト殿」
先頭の男が言う。
声は事務的だった。
「総庁人事部監察課です」
リリアの顔から血の気が引く。
クリスが一歩前に出ようとした。
だが、エリシアが目だけで止めた。
「何の用件でしょうか?」
エリシアの声は静かだった。
先頭の男は、一枚の書類を示す。
「第六中隊所属騎士より、貴殿の軍令違反について告発がありました」
空気が止まった。
リリアが息を呑む。
メリーの手が、わずかに動く。
クリスの顔から表情が消えた。
シエラは何も言わない。
「容疑は」
男は続ける。
「指揮権の不正行使」
「委任状偽造の疑い」
「正式報告を経ない領外部隊行動」
「および、軍令違反」
言葉が、一つずつ廊下に落ちる。
重く。
逃げ場なく。
リリアは震える声で言った。
「ま、待ってください……」
「リリアさん」
エリシアが静かに制した。
「でも」
「大丈夫です」
その声は、いつも通りだった。
いつも通りに聞こえるようにしていた。
男が言う。
「事情聴取のため、同行願います」
「任意ですか」
シエラが静かに問う。
男は一瞬、シエラを見る。
「監察課判断による一時拘束です」
クリスが低く言った。
「拘束だと?」
「抵抗される場合、正式拘束へ移行します」
エリシアは、クリスを見た。
首を横に振る。
「抵抗しません」
「エリシアさん!」
リリアが叫ぶ。
エリシアは、リリアへ少しだけ顔を向けた。
「大丈夫です」
二度目。
それは、たぶん嘘だった。
でも、今のリリアにはその言葉しか渡せなかった。
メリーが静かに言う。
「私も関係者です」
「後ほど確認します」
監察課の男は淡々と答える。
「現在の対象は、エリシア・グランフェルト殿です」
エリシアは静かに頷いた。
「分かりました」
そのまま、監察課の騎士たちに囲まれる。
手枷はない。
だが、それは自由ではなかった。
連れていかれる。
エリシアが。
団長の知らないところで。
リリアは動けなかった。
クリスは奥歯を噛みしめる。
シエラは、先ほど受け取った報告書を強く抱えていた。
メリーだけが、静かに目を伏せる。
すべて終わった。
そう思ったのは、ほんの短い間だけだった。
その夜。
エリシア・グランフェルトは、軍令違反の疑いにより拘束された。




