第17話 姫様のはじまり
――帝国暦三二〇年・春中頃 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁――
「……なあ」
クリスが書類の山を横目に、ぼそりと言った。
「なんで“姫様”なんだ?」
レオンは顔を上げる。
「今さらだな」
「今さらだから気になるんだよ。気づいたら全員そう呼んでるだろ」
確かに、最初は一部だけだったはずの呼び名が、今では本庁のあちこちで自然に使われている。
「姫様、こちらお願いします」
「姫様、無理なさらないでください」
「姫様、お茶入れ替えておきますね」
誰も疑問に思っていない。むしろ、最初からそうだったような顔をしている。
「最初に言い出したの、誰だ?」
「知らん」
「無責任すぎるだろ」
「俺が呼ばせたわけじゃない」
レオンは書類に視線を戻そうとした。
その時。
「それ、俺知ってますよ」
横から団員の騎士マフガランが割り込んできた。
「仕事しろ」
「これは重要案件です」
(絶対違う)
レオンはそう思ったが、クリスは興味を持ったらしい。
「で、誰だよ」
マフガランは胸を張った。
「第一発見者は、俺です」
「お前かよ」
「一ヶ月前のことです」
妙に重々しい口調だった。
クリスが腕を組む。
「聞こうか」
■第七騎士団 訓練場――
一ヶ月ほど前。
訓練場の端で、若い騎士が足を滑らせた。
「っ……!」
乾いた土の上に膝をつく。
大した怪我ではない。
だが、立ち上がる動きが少し鈍った。
周囲の騎士たちが声をかけようとした、その時だった。
「大丈夫ですか?」
柔らかな声が落ちた。
リリアだった。
少しブラウンが混じった長い金髪が、訓練場を抜ける風にふわりと揺れている。
髪に結ばれた青いリボンも、遅れて小さく揺れた。
小柄で、華奢な体。
けれど、背筋はまっすぐ伸びている。
淡い色の衣服は清潔で、乱れがない。
歩くたびに裾が揺れ、その所作は自然と整っていた。
騎士団の荒い空気の中で、そこだけが別の場所のようだった。
土埃の舞う訓練場にいるのに、金色の髪と青いリボンだけが、妙に柔らかく目に残る。
「手を」
差し出された手は細く、白い。
だが、頼りなさはなかった。
若い騎士は、思わずその手を取る。
「……すみません」
「無理をなさらないでくださいね」
リリアは慌てることなく、傷の具合を見た。持っていた布を差し出し、落ち着いた声で水を頼む。
距離は近い。
だが、緊張よりも安心が先に来た。
若い騎士が顔を上げる。そこにあったのは、やわらかな微笑みだった。
まるで物語に出てくる姫君が、倒れた騎士へ手を差し伸べる場面のように。
少なくとも、その場で見ていた一人の騎士には、そう見えた。
(……なんだ、今のは)
周囲の騎士たちも、いつの間にか動きを止めていた。
そして、ぽつりと誰かが言った。
「……姫様だ」
「は?」
「いや、見ただろ今の」
「雰囲気がもう」
「物語の姫様みたいだったじゃん」
理由は説明できない。
正確な身分の話でもない。
ただ、その騎士の中にあった“理想の姫様像”に、リリアの姿がきれいにはまってしまったのだ。
言われたリリアは、困ったように瞬きをした。
「いえ、私は姫ではありません」
当然の訂正だった。
だが、騎士たちは聞いていない。
「謙虚だ……」
「やはり姫様」
「違います」
「否定まで上品だ」
「違います」
リリアは何度か訂正した。
何度も訂正した。
だが、訂正するたびに、なぜか騎士たちは納得したような顔をする。
そのうち、彼女は小さく息をついた。
「……もう、お好きになさってください」
それが、敗北だった。
それからだった。
「姫様、こちらを!」
「姫様、無理なさらないでください!」
「姫様、お茶をどうぞ!」
呼び名は、自然に広がっていった。
■第七騎士団 本庁――
「……というわけです」
マフガランが満足げに言った。
「くだらないな」
レオンは即答した。
「でも、あの娘なら納得はする」
クリスが笑いをこらえながら言う。
「でしょう!?」
マフガランが強くうなずく。
「あの日は本当に、物語の一場面みたいで――」
「盛るな」
「盛ってません」
「真顔で言うな」
(だめだこいつら)
レオンは額を押さえた。
その呼び名が当たり前のように交わされる中で、エリシアだけが、わずかに視線を落とす。
(……姫様)
正式な呼称ではない。
役職でもない。
それでも、誰も否定しない。まるで、それが正しい呼び方であるかのように受け入れている。
視線を上げる。
リリアを見る。
小さく、華奢で、柔らかく微笑む姿。
(……確かに)
一瞬だけ、思ってしまう。
そう見える。
だからこそ、困る。
理由のない納得は、位置を曖昧にする。
自分の立っている場所さえも。
その時、扉が開いた。
「お兄様」
リリアが入ってくる。
小さく、華奢で、整った立ち姿。
柔らかな空気をまとっている。
「こちら、終わりました」
にこりと微笑み、書類を差し出す。
「……姫様」
マフガランが無意識に呟いた。
隣にいた騎士エゼルも静かに頷く。
レオンはため息をつく。
「だから誰が姫様だ」
「リリア様です」
「即答するな」
リリアは首を傾げた。
「私のことでしょうか?」
「違う」
「違いません」
マフガランが真顔で断言する。
クリスが吹き出しそうになるのをこらえていた。
リリアは少し困ったように笑う。
「そのように呼ばれるほどの者ではありません」
「……謙虚」
「……やはり姫様」
「悪化してるな」
クリスがぼそりと呟いた。
リリアは、もう強く訂正しない。
最初は何度も違うと言っていた。だが、言えば言うほど周囲が納得するので、結局今では半ば諦めている。
嫌がっているわけでもない。ただ、訂正しても無駄だと理解しただけだった。
リリアは気にした様子もなく、レオンの机に書類を置く。
「お兄様、こちら確認をお願いいたします」
「ああ」
自然な距離。
自然なやり取り。
それを見て、エゼルが小さく頷いた。
「やはり、団長の隣が最も自然……」
「帰れ」
レオンが即答する。
「はっ」
なぜか満足げに、マフガランとエゼルは去っていった。
扉が閉まる。
「……人気だな」
レオンがぽつりと言う。
「そうでしょうか?」
リリアは本気で分かっていない顔をした。
クリスが肩をすくめる。
「まあ、そう見えるんだろ」
「何が」
「姫様に」
レオンは小さく息を吐いた。
誰が言い出したかは、もう関係ない。
そう見える。
それだけで、人は納得してしまう。
第七騎士団では今日も、誰かが彼女をそう呼ぶ。
「姫様」と。




