姫様のはじまり
帝国暦三二〇年 春中頃
東ロンバルディア帝国騎士団領
第七騎士団 本庁
「……なあ」
クリスが書類の山を横目にぼそりと言った。
「なんで“姫様”なんだ?」
レオンは顔を上げる。
「今さらだな」
「今さらだから気になるんだよ。気づいたら全員そう呼んでるだろ」
確かに、最初は一部だったはずの呼び名が、今では本庁のあちこちで自然に使われている。
「最初に言い出したの、誰だ?」
「知らん」
「無責任すぎるだろ」
「それ、俺知ってますよ」
横からマフガランが割り込んできた。
「仕事しろ」
「これは重要案件です」
(絶対違う)
「で、誰だよ」
マフガランは胸を張る。
「――第一発見者は、俺です」
「お前かよ」
「一ヶ月前のことです」
妙に重々しい。
クリスが興味半分で腕を組む。
「聞こうか」
――一ヶ月前。
訓練場の端。
乾いた土の上で、若い騎士が転倒した。
「っ……!」
立ち上がれない。
大した怪我ではないが、動きが鈍る。
そのとき。
「大丈夫ですか?」
柔らかな声。
リリアだった。
小柄で、細い体。折れてしまいそうなほど華奢なのに、背筋はまっすぐ伸びている。
淡い衣服は清潔で、乱れがない。歩くたびに裾が揺れ、その所作は自然と整っていた。
騎士団の荒い空気の中で、そこだけが別の場所のようだった。
「手を」
差し出された手は細く、白い。
だが、頼りなさはない。
騎士は思わずそれを取る。
「……すみません」
「無理をなさらないでくださいね」
落ち着いた声。慌てることなく、傷を見て、布を巻く。距離は近い。
だが、緊張よりも安心が先に来る。
ふと、顔を上げる。そこにあったのは、やわらかな微笑み。
その場だけ、光が差したように感じた。
空気が、変わる。周囲の騎士たちも、動きを止めていた。
(……なんだ、今のは)
誰もが、同じことを思う。
そして、ぽつりと誰かが言った。
「……姫様だ」
「は?」
「いや、見ただろ今の」
「雰囲気がもう」
「姫様じゃん」
理由は説明できない。
だが、否定もできない。
その場の全員が、妙に納得していた。
それからだった。
「姫様、こちらを!」
「姫様、無理なさらないでください!」
呼び名は、自然に広がっていった。
――現在。
「……というわけです」
マフガランが満足げに言う。
「くだらないな」
レオン。
「でもあの娘なら納得はする」
クリス。
「でしょう!?」
エゼルが強く頷く。
「あの日は本当に光が――」
「差してねえよ」
「差してました」
「真顔で言うな」
(だめだこいつら)
その呼び名が、当たり前のように交わされる中で。エリシアだけが、わずかに視線を落とす。
(……姫様)
違和感がある。
役職ではない。
正式な呼称でもない。
それでも。
(誰も否定しない)
自然に受け入れている。
まるで、それが“正しい呼び方”であるかのように。
視線を上げる。
リリアを見る。
小さく、華奢で、柔らかく微笑む姿。
(……確かに)
一瞬だけ、思ってしまう。
(そう見える)
だからこそ。
(……だからこそ、困る)
理由のない納得は、
位置を曖昧にする。
自分の立っている場所さえも。
「お兄さま」
扉が開く。
リリアが入ってくる。
小さく、華奢で、整った立ち姿。
柔らかな空気をまとっている。
「こちら、終わりました」
にこりと微笑む。
「……姫様」
マフガランが無意識に呟く。
エゼルも静かに頷く。
レオンはため息をつく。
「だから誰が姫様だ」
「リリア様です」
「即答するな」
リリアは首を傾げる。
「私のことでしょうか?」
「違う」
「違いません」
真顔で断言。
クリスが吹き出しそうになるのをこらえる。
リリアは少し困ったように笑う。
「そのように呼ばれるほどの者ではありません」
「……謙虚」
「……やはり姫様」
「悪化してるな」
クリスがぼそりと呟く。
リリアは気にした様子もなく、レオンの机に書類を置く。
「お兄さま、こちら確認を」
「ああ」
自然な距離。
自然なやり取り。
それを見て、エゼルが小さく頷く。
「やはり、団長の隣が最も自然……」
「帰れ」
レオンが即答する。
「はっ」
満足げに去っていく二人。
扉が閉まる。
「……人気だな」
レオンがぽつりと言う。
「そうでしょうか?」
リリアは本気でわかっていない顔をする。
クリスが肩をすくめた。
「まあ、そう見えるんだろ」
「何が」
「姫様に」
レオンは小さく息を吐く。
誰が言い出したかは、もう関係ない。
そう見える。
それだけで、人は納得してしまう。
第七騎士団では今日も、
誰かが彼女をそう呼ぶ。
「姫様」と。




