第16話 増える評価 減らない余裕
――帝国暦三二〇年・春中頃 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁――
「姫様!」
そんな声が、本庁に響くようになった。
「姫様、こちらの書類もお願いします!」
「はい、承知しました」
リリアは自然に受け取る。
迷いがない。
「助かります!」
「そんな、大したことではありません」
やわらかく笑う。
その様子を、レオンは少し離れた場所から見ていた。
(……姫様って何だ?)
たぶん、ヴァイス家の姫様、という意味なのだろう。
騎士たちにとって、団長の妹で、育ちの良い令嬢で、しかも本庁に差し入れまで持ってきてくれる存在は、そう呼びたくなるものらしい。
(うちに姫はいないんだけどな)
とは思う。
だが、リリア本人は嫌がっていない。むしろ、ごく自然に受け入れている。
それに、仕事の流れは明らかに良くなっていた。
書類の仕分けは早い。
伝言の行き違いも減った。
茶や軽食が回るようになったことで、部下たちの顔色も少しまともになっている。
何より、妙に士気が上がっていた。
(……これ、このままの方がいいのか?)
納得はしていない。
だが、効果は出ている。
なら、まあいいか。
レオンはそう判断した。
数日前まで、リリアは臨時補助だった。あくまで、兄を心配して来た私的な補助。
それなのに、今ではすっかり本庁に馴染んでいる。
「姫様、差し入れです!」
「ありがとうございます」
自然に受け取り、自然に礼を言う。
誰も違和感を持っていない。
(馴染みすぎだろ)
というか。
(人気出すぎだろ)
「癒しってやつです」
近くにいた部下が、軽く言った。
「団長、いい人連れてきましたね」
「連れてきた覚えはない」
リリアは、騎士団の正式な職員ではない。
判断に関わる立場でもない。
それでも、仕分け、伝言、簡単な確認、茶や食事の手配。そのあたりを引き受けるだけで、執務室の流れは目に見えて良くなっていた。
その横で、エリシアは書類を処理している。
いつも通り。
正確に。
無駄なく。
(……騒がしい)
内心ではそう思う。
けれど、業務に支障はない。
むしろ、効率は上がっている。
(問題はない)
結論は変わらない。
変わらないはずだった。
「姫様、こちらも――」
その呼び方が、耳に残る。
(姫様、ですか)
エリシアは、ほんのわずかに目を伏せた。
リリアが名家の令嬢であることは間違いない。けれど、エリシアのグラナート家もまた、騎士団領では軽い家ではない。
家柄だけで言うなら、リリアだけが特別というわけではない。
それでも、ここでそう呼ばれるのはリリアだった。
明るく、柔らかく、誰に対しても自然に礼を返す。騎士たちがそう呼びたくなる理由は、理解できる。
理解できるから、余計にやりづらい。
(……副官は、私)
役割は変わっていない。
立場も変わっていない。
けれど、同じではない。
何かが、少しずつずれている。
「エリシアさん」
リリアが振り向いた。
「こちら、確認をお願いできますか?」
自然な頼み方だった。勝手に進めるのではなく、必ずエリシアを通す。
配慮もある。
「……はい」
エリシアは書類を受け取る。
内容を確認する。
分類も、優先順位も、補足も正しい。
修正の余地はない。
「問題ありません」
「ありがとうございます」
リリアはまた、嬉しそうに笑った。
(……やりにくい)
間違っていない。
助かっている。
否定する理由がない。
だからこそ、自分の立場だけが、静かに揺れる。
■ 第七騎士団 本庁 執務室――
夕刻。
「団長」
エリシアに呼ばれた時点で、レオンは嫌な予感がした。
「なんだ」
「上層部から通達です」
「言わなくても分かる気がする」
「恐らく、合っています」
書類を受け取り、目を通す。数行読んだところで、レオンは眉を寄せた。
「……正式か」
「正式です」
エリシアが淡々と告げる。
「第十騎士団長任命。暫定ではなく、正式に三騎士団の団長を兼任する形になります」
「……増えたな」
「増えました」
「理由は」
「成果です」
短い。
だが、十分だった。
「第七、第二、第十。三騎士団すべてにおいて、運用効率、統率、戦績が高評価となっています」
(だろうな)
レオンは思う。
結果は出ている。
否定できない。
リリアが入ってから、本庁の流れも良くなった。部下たちの士気も上がっている。
しかし、仕事そのものは減らない。
だが、回り方は明らかに変わっていた。
(……この方がいいのかもしれない)
そう思ってしまうこと自体が、少し嫌だった。逃げ場が減っていく感覚がある。
けれど、組織としては正しい。
だから余計に、たちが悪い。
「団長、おめでとうございます!」
周囲がざわついた。
「三団長ですよ!」
「すごいですね!」
「すごくない」
レオンは即答した。
「仕事が増えただけだ」
「でも、評価ですよ」
「評価で仕事を増やすな」
その横で、リリアが嬉しそうに微笑んだ。
「おめでとうございます、お兄様」
純粋で、まっすぐな声だった。
(……喜んでるな)
悪気はない。
むしろ、心から兄を誇っている。
それが分かるから、レオンは何も言えない。
「当然の結果です」
エリシアも言った。
揺れのない声だった。
(……本当にそう思ってるのか)
一瞬だけ考える。
けれど、聞かない。
聞いたところで、たぶん答えは変わらない。
「……これから忙しくなるな」
レオンがぽつりと漏らす。
「既に忙しいです」
エリシアが即座に返す。
「お手伝いしますね」
リリアも間を置かずに言う。
両側から来る。
(逃げ場がない)
書類は減る。
組織は回る。
評価は上がる。
士気も上がる。
すべてがうまくいっている。
確実に。
順調に。
逃げられない形で。
(……なんでこんなに、しんどいんだ)
答えは出ない。
ただ、胸の奥に残る感覚だけが消えない。
「……外へ、行きたい」
小さく呟く。
誰にも届かない声のつもりだった。
周囲はまだ、正式任命の話でざわついている。
リリアは嬉しそうにしている。
エリシアは次の書類を整えている。
誰も、その小さな声には気づかない。
けれど、その言葉だけは、はっきりとレオン自身の中に残った。




