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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第168話 空席のまま

――帝国暦三二一年・秋中頃 ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・資料室――


 その報告が届いたのは、朝だった。


 帝都からではない。


 西方街道の連絡網。


 隣接都市、西ロンバルディア・メット方面からの報告だった。


 メリーは書類を受け取り、静かに目を通した。


 そして。


 手を止めた。


「……メリーさん?」


 リリアが、すぐに気づいた。


 メリーは普段、ほとんど動揺しない。


 書類が多くても。


 面倒な内容でも。


 レオンが嫌そうな顔をしても。


 基本的には淡々と処理する。


 そのメリーの手が、止まっていた。


 リリアの胸に、嫌な予感が落ちる。


「何か……あったんですか?」


 メリーは、すぐには答えなかった。


 一度、報告書を読み直す。


 それから、静かに息を吐いた。


「お姉様が」


「予定の地点に、まだ到着していません」


 リリアの顔から、血の気が引いた。


「イリス様が……?」


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・資料室


 報告書には、短く書かれていた。


 イリス皇女殿下の一行は、帝都を発った後、西方街道を経由し、騎士団領へ向かっている。


 予定では、三日前に西ロンバルディア・メットへ到着しているはずだった。


 そこは騎士団領に隣接する主要都市であり、街道連絡網の中継点でもある。


 通常なら、皇族一行が到着すれば、すぐに確認報告が届く。


 だが、現在まで、西ロンバルディア・メットへの到着確認が取れていない。


 護衛側からの定時報告も、遅れている。


 それだけだった。


 それだけなのに。


 紙の上の文字が、やけに重かった。


「……三日前に、着いているはずだったんですか?」


 リリアの声が震える。


「はい」


 メリーは頷く。


「西ロンバルディア・メットから本庁までは、通常であれば連絡が届く距離です」


「では、なぜ……」


「分かりません」


 メリーの答えは短かった。


 正直だった。


「道中で予定変更があった可能性」


「帝都側の手続きで出立自体が遅れた可能性」


「護衛交代や街道確認で足止めされた可能性」


「あるいは、単に連絡が遅れているだけの可能性もあります」


 リリアは小さく頷く。


 可能性はある。


 たくさん。


 危険とは限らない。


 分かっている。


 それでも、心臓が落ち着かなかった。


「イリス様……大丈夫でしょうか」


 小さな声だった。


 メリーは、すぐには答えなかった。


「現時点では、危険とは断定できません」


「はい……」


「ですが、確認は必要です」


 その声は、いつもより少し硬かった。


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・資料室


 エリシアを呼んだ。


 報告書を読んだエリシアの表情も、すぐに引き締まった。


「三日前に到着予定だった西ロンバルディア・メットへ、未着確認……」


 低い声だった。


 リリアはエリシアを見る。


「エリシアさん」


「街道確認を出します」


 エリシアは即座に言った。


「西ロンバルディア・メット側へ再確認」


「道中の宿場、関所、護衛交代地点にも照会を出します」


「ただし」


 そこで、わずかに言葉を止める。


「団長には、まだ伝えられません」


 リリアは、ぎゅっと手を握った。


 レオンに伝えれば、すぐに動く。


 おそらく、直接確認に行こうとする。


 イリスを止めるためではなく。


 危険なら助けるために。


 でも、それは全てを知られることにもなる。


 イリスの任官計画。


 首席書記官の空席。


 発足日前の抜け道。


 全部。


「……団長に知られずに、街道確認を出せますか」


 エリシアが言う。


 メリーは少し考えた。


「統括管理部の移転準備に伴う西方連絡網確認、という名目なら可能です」


「苦しいですね」


「苦しいです」


 メリーは認めた。


「ですが、完全な嘘ではありません」


 エリシアは静かに頷く。


「では、それで進めます」


 リリアは報告書を見る。


 三日前。


 西ロンバルディア・メット。


 未着。


 その文字が、頭から離れなかった。


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・資料室


「もう一つ、問題があります」


 メリーが言った。


 リリアが顔を上げる。


「任官手続きです」


 エリシアが少しだけ目を細めた。


 分かっている顔だった。


 メリーは静かに説明する。


「官職を正式に受けるには、三つ必要です」


「拝命」


「宣誓」


「任命状の授与」


 リリアは小さく繰り返す。


「拝命……宣誓……任命状……」


「はい」


 メリーは頷く。


「拝命は、官職を命じられること」


「宣誓は、その官職として責務を果たすと誓うこと」


「任命状の授与は、正式に任命されたことを示す証書を受け取ることです」


「お姉様ご本人がいなければ、完了しません」


 リリアの顔がさらに青くなる。


「では、イリス様が前日までに着かなかったら……」


「ヴァルド総長の退任前に、任官手続きを終えられません」


 メリーの声は静かだった。


 静かだからこそ、重かった。


「発足日前の初期人事であれば、現総長が処理できます」


「ですが、発足日を過ぎれば、副長府内の人事権は原則としてお兄様に移ります」


「つまり」


 エリシアが続ける。


「団長に知られず、皇女殿下を総騎士団副長府首席書記官として任官させる抜け道が消えます」


 部屋が静かになった。


 リリアは、言葉を失う。


 イリスが戻ってくるだけでは足りない。


 前日までに戻り。


 拝命し。


 宣誓し。


 任命状を受け取らなければならない。


 その三つが揃って、ようやく客人ではなくなる。


 仲間として、この場所に戻れる。


「……急がないと」


 リリアが小さく言う。


「はい」


 メリーが頷く。


「お姉様がどこにいるのか、確認する必要があります」


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・執務室


 その日の昼前。


 レオンは副長府発足準備の資料を見ていた。


 相変わらず嫌そうな顔だった。


 資料には、第一執務室の運用案が記されている。


 副長府書記官配置。


 統括管理部との連絡。


 総騎士団副長府人事部との調整。


 工部分室。


 輜重補給部分室。


 そして。


 首席書記官。


 空欄。


「……エリシア」


「はい、団長」


「首席書記官はどうなっている」


 一瞬、エリシアの手が止まった。


 近くにいたメリーも、わずかに視線を上げる。


 リリアは茶器を持ったまま固まった。


 レオンは資料を見ている。


 何も知らない。


 ただ実務上、空欄を見て聞いただけだった。


「副長府の首席書記官ですか」


 エリシアは、できるだけ平静に返す。


「他にあるのか」


「いえ」


「空欄のままだと、第一執務室が回らない」


 正論だった。


 あまりにも。


「書記官が増えるなら、取りまとめる者が必要だ」


「統括管理部も移る」


「人事部との連絡もある」


「メリーだけに寄せると倒れる」


 メリーが少しだけ目を伏せた。


 リリアの胸が痛む。


 レオンは、イリスのことには気づいていない。


 ただ、空席を気にしている。


 その空席に入るはずの人が、まだどこにも着いていないことを知らない。


「首席書記官については」


 メリーが静かに口を開いた。


「現総長が、有能な書記官を推薦してくださるとのことです」


 レオンが顔を上げる。


「有能な書記官?」


「はい」


「誰だ」


「まだ正式には伺っていません」


「妙だな」


「発足日前までの初期人事権は、現総長にあります」


 メリーは淡々と言う。


「発足日以降の人事権はお兄様に移りますが、初期配置については総長裁量です」


「首席書記官は、初期配置として扱われます」


 レオンは少し眉を寄せた。


「総長推薦か」


「はい」


「それが一番妙だ」


 かなり正しかった。


 エリシアは静かに目を伏せる。


 リリアは息を詰める。


 メリーは表情を変えない。


「発足後に問題があれば」


 エリシアが補足する。


「団長の人事権で調整可能です」


「最初から問題が起きそうな人事をするな」


「……おっしゃる通りです」


「誰だ、その有能な書記官は」


「現時点では未確認です」


 メリーの声は落ち着いていた。


 落ち着きすぎていた。


 レオンはしばらくメリーを見る。


「メリー」


「はい、お兄様」


「知っているな」


「正式には伺っていません」


「正式には?」


「はい」


「……妙だな」


「総長推薦ですので」


「だから妙なんだ」


 沈黙が少し長い。


 リリアは、茶器を握る手に力が入った。


 レオンは、やがて資料へ視線を戻す。


「早めに確認しろ」


「はい」


「メリーの負担が増える」


「問題ありません」


「問題ある」


 短い声だった。


 メリーが少しだけ目を伏せる。


「候補がいるなら、早く決めろ」


「承知しました」


 レオンはそれ以上聞かなかった。


 また資料へ戻る。


 エリシアも、平静を装って書類を整える。


 リリアは静かに茶を置いた。


 その手は、少しだけ震えていた。


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・廊下


 執務室を出たあと。


 三人は廊下の隅で立ち止まった。


 人の通りが少ない場所。


 窓の外には、秋の空が見える。


 リリアは小さく息を吐いた。


「……気づかれそうでした」


「かなり危うかったです」


 エリシアの声も硬い。


 メリーは資料を抱え直す。


「団長が首席書記官の空欄を気にし始めました」


「当然です」


 エリシアが言う。


「第一執務室を動かすなら、必要な席です」


「はい」


 メリーは頷く。


「ですが、お姉様が到着しなければ、その席は埋まりません」


 リリアが顔を上げる。


「西ロンバルディア・メットには、まだ……」


「到着確認がありません」


 メリーの答えは短い。


 短い分、胸に刺さった。


「追加の照会は出しました」


 エリシアが続ける。


「宿場、関所、護衛交代地点、西ロンバルディア・メットの管理官へ確認を急がせます」


「私も、親衛隊の連絡網を使えないか確認します」


 リリアが言う。


「ただし、団長には知られない範囲で」


「はい」


 リリアは頷く。


 難しい。


 イリスを心配している。


 すぐにでも探しに行きたい。


 それなのに、レオンには知られないようにしなければならない。


 その矛盾が、胸を締めつける。


「……イリス様」


 リリアは小さく呟いた。


「どこにいるんでしょう」


 誰も答えられなかった。


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・資料室


 午後。


 報告を待ちながら、三人は必要な準備を進めた。


 拝命のための手続き確認。


 宣誓文の形式。


 任命状の準備状況。


 ヴァルド総長への依頼文案。


 受け入れ時の動線。


 警備。


 記録。


 すべて、イリスが到着する前提で作られている。


 その本人が、まだ着かない。


 リリアは何度も窓の外を見た。


 西の空。


 そちらから、何かが届く気がして。


 何も届かない。


 メリーは書類を整え続けている。


 ただ、いつもより少しだけ速度が速かった。


 エリシアは街道確認の伝令を手配しながら、表情を崩さない。


 崩さないだけで、安心しているわけではない。


 それは、リリアにも分かった。


「リリアさん」


 エリシアが声をかける。


「はい」


「水を飲んでください」


「え?」


「顔色が悪いです」


 リリアは、そこで自分がずっと緊張していたことに気づいた。


「……はい」


 カップを受け取る。


 手が少し冷たかった。


「大丈夫です」


 リリアは自分に言い聞かせるように言った。


「イリス様は、きっと大丈夫です」


 エリシアは何も言わない。


 ただ、静かに頷いた。


■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・資料室


 夕方近く。


 扉が急に開いた。


 伝令の書記官だった。


 息が少し上がっている。


「エリシア様、メリエラ様」


 その声に、三人が一斉に振り向く。


「西方街道方面から、追加報告です」


 リリアの心臓が跳ねた。


 メリーが一歩前へ出る。


「内容は」


 書記官は報告書を差し出した。


 手が少し震えている。


「西ロンバルディア・メットへの到着確認、まだ取れていません」


 リリアの表情が凍る。


 エリシアの目が鋭くなる。


 メリーが報告書を受け取った。


「それだけですか」


「いえ」


 書記官は息を整え、続ける。


「西方街道の途中、二つ前の宿場で、皇女殿下一行と思われる護衛隊が通過した記録があります」


「日時は?」


「予定より、五日遅れです」


 メリーの手が止まった。


 リリアが息を呑む。


「五日……?」


 それでは。


 発足日前日に間に合わない可能性がある。


 拝命も。


 宣誓も。


 任命状の授与も。


「原因は」


 エリシアが短く問う。


「不明です。ただし、護衛隊は人数を減らしていたとの記録があり……」


 書記官の声が、少し硬くなる。


「一部が、別行動を取っていた可能性があります」


 部屋の空気が変わった。


 リリアの手から、持っていた紙が滑り落ちる。


 メリーの表情から、わずかに温度が消えた。


 エリシアはすぐに立ち上がる。


「街道図を」


「はい」


「西方連絡網を全て開いてください」


「親衛隊には、まだ正式連絡しないで」


「リリアさんは――」


 エリシアが言いかけた時。


 リリアはもう、扉へ向かっていた。


「リリアさん!」


「イリス様が……!」


 声が震えていた。


 メリーも、いつもの冷静さを少しだけ失っていた。


「お姉様……」


 西ロンバルディア・メットに、イリスはまだ着いていない。


 予定より五日遅れ。


 護衛隊は人数を減らしていた。


 一部は別行動。


 その報告だけで、資料室の空気は完全に変わった。


 首席書記官の席は、まだ空いたまま。


 その席に入るはずの人が。


 今、どこにいるのか。


 誰にも分からなかった。

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