第167話 帰ってくる日
――帝国暦三二一年・秋終盤 ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 第七騎士団本庁――
■第七騎士団本庁・事務室
帝都から、一通の書状が届いた。
差出人は、皇太子アシュレイ・ヴェル=ヴェリア。
宛先は、レオンハルト・ヴァイス。
リリアは、その封筒を受け取った瞬間、動きを止めた。
「……皇太子殿下からです」
小さな声だった。
近くにいたエリシアが顔を上げる。
メリーも、資料をめくる手を止めた。
事務室の空気が、わずかに変わった。
皇太子から、レオン宛に届いた正式な書状。
本来ならば、このまますぐに本人へ届けるべきものだった。
ただ、三人は知っていた。
今、この時期に帝都から届く書状が、ただの挨拶であるはずがない。
「エリシアさん……」
リリアが不安そうに見る。
エリシアは、封筒へ視線を落とした。
封はまだ切られていない。
正しい手順ならば、そのままレオンへ渡す。
それが当然だった。
職務上も、規律上も、他に選択肢はない。
エリシアは、しばらく何も言わなかった。
それから、静かに口を開く。
「……開けてください」
リリアが息を呑んだ。
「いいのですか?」
「よくはありません」
エリシアは、はっきりと答えた。
「ですが、内容を確認する必要があります」
メリーが小さく頷く。
「お兄様へ先に渡せば、止めようとする可能性があります」
「高いですね」
「はい」
誰も否定しなかった。
リリアは、わずかに震える指で封を切った。
書状は簡潔だった。
余計な飾りの少ない、皇太子らしい文章だった。
イリスは、帝都で必要な確認を終えたこと。
本人の意思は、今も変わっていないこと。
数日後、従者と護衛を伴い、騎士団領へ向かうこと。
到着予定は、五日後の夕刻。
到着までに、騎士団領側で受け入れの準備を進めること。
今後の任官手続きについては、帝都側の条件を踏まえたうえで、騎士団領側と調整を行うこと。
リリアは、最後まで読み終えた。
だが、すぐには何も言えなかった。
「……五日後」
かすかな声だった。
「イリス様が、戻ってくるのですね」
メリーが静かに頷く。
「はい」
その表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「お姉様が戻ってきます」
その言葉を聞いた瞬間、リリアの目が少し潤んだ。
イリスが戻ってくる。
ほとんど誰にも理由を告げず、帝都へ向かったイリスが。
客人ではなくなるために。
この場所で、役目を持つために。
仲間として戻ってくるために。
本当に、帰ってくる。
「よかった……」
リリアは小さく呟いた。
だが、エリシアの表情は、すぐに引き締まった。
「問題は、ここからです」
リリアが顔を上げる。
「この書状は、団長宛です」
「はい……」
「本来ならば、私たちが開封してよいものではありません」
エリシアの声は重かった。
そのことを、誰よりもエリシア自身が理解している。
皇太子から届いた正式な書状。
それを宛名本人に渡さず、勝手に開封した。
すでに、取り返しのつかない一線を越えている。
それでも、今この書状をレオンへ見せれば、レオンは動く。
イリスを止めるために。
責任を背負わせないために。
危険から遠ざけるために。
おそらくレオンは、自分のもとへ戻ろうとしているイリスを、自分の判断で帝都へ押し返そうとする。
「……隠しましょう」
そう言ったのは、エリシアだった。
リリアが目を丸くする。
「エリシアさんが言うのですね」
「言いたくはありません」
エリシアは静かに答えた。
「ですが、今はそうするしかありません」
メリーは書状を受け取り、もう一度内容を確認した。
「お兄様には、帝都から新体制に関する定期連絡が届いたことだけ報告します」
「内容を聞かれた場合は?」
エリシアが尋ねる。
「帝都側との調整事項について、確認があったと答えます」
「嘘になりますか?」
「完全な嘘ではありません」
メリーは淡々と答えた。
「この書状には、任官手続きと騎士団領側の調整についても書かれています」
「かなり広く解釈していますね」
リリアが不安そうに言う。
「広いです」
メリーは認めた。
「ですが、お兄様に今知られるわけにはいきません」
「止めるというより……」
エリシアが、少し目を伏せた。
「知られないようにする、ですね」
「はい」
重い沈黙が落ちる。
リリアは、書状に記された到着予定日をもう一度見た。
五日後。
その日の夕刻、イリスが帰ってくる。
ただし、レオンには知らせないまま。
「迎えに行きたいです」
リリアが、ぽつりと言った。
エリシアがリリアを見る。
「リリアさん」
「分かっています」
リリアは小さく頷いた。
「私が急に外へ出れば、お兄様は不思議に思うかもしれません」
それだけではない。
「お兄様が気づかなくても、親衛隊の皆さんは間違いなく気づきます」
「はい」
「でも……」
リリアは書状を見つめた。
「イリス様に、最初にお帰りなさいと言いたいです」
その言葉に、メリーが少しだけ目を伏せた。
「私もです」
小さな声だった。
エリシアは二人を見る。
本来ならば、止めるべきだった。
だが、止められなかった。
おそらく、自分も同じ気持ちだったからだ。
「迎えは必要です」
エリシアは言った。
「今回の帰還は、皇女殿下としての公式訪問ではありません。任官に向けた帰還です」
「では……」
リリアが顔を上げる。
「私が、道中および到着時の警備確認という名目で出ます」
「エリシアさんは自然ですね」
「メリーさんは、どうしますか?」
「統括管理部の移転準備に関する確認という名目で外出できます」
「それも不自然ではありません」
「私は……」
リリアは少し考えた。
「お茶の確認でしょうか」
エリシアが黙った。
メリーも黙った。
「……駄目ですか?」
「外出の理由としては弱いです」
エリシアが正直に答えた。
「では、リリアさんは第七騎士団本庁側の受け入れ準備確認としましょう」
メリーが淡々と補う。
「お茶の準備も、その中に含めます」
「含むのですね」
「はい」
リリアは、少しだけ笑った。
張り詰めていた空気に、わずかな柔らかさが戻る。
その時、事務室の扉が開いた。
「何をしている」
レオンだった。
三人の動きが止まる。
本当に、同時に止まった。
リリアは書状を持ったまま。
エリシアはその横に立ったまま。
メリーだけが、静かに一歩動いた。
リリアの手から書状を受け取り、机上の資料の下へ滑り込ませる。
あまりにも自然な動きだった。
リリアは、一瞬だけ感心しそうになった。
それどころではなかった。
「受け入れ準備について確認していました」
メリーが答える。
「そうか」
レオンは事務室の中を見る。
鋭く探っているわけではない。
ただ、普通に見ている。
それが、かえって怖かった。
「リリアもか」
リリアの肩が小さく揺れる。
「は、はい」
「何の受け入れだ」
リリアが言葉に詰まった。
まずい。
そう思った瞬間、エリシアが静かに口を開いた。
「副長府への移転に伴う、来客対応の確認です」
レオンがエリシアを見る。
「来客?」
「はい」
「今後は、帝都や総庁、各騎士団からの来訪が増える見込みです」
「そのため、応接場所、待機室、案内経路などを確認していました」
「……そうか」
通った。
リリアは、内心で息を吐いた。
メリーは表情を変えない。
エリシアは、わずかに目を伏せていた。
真面目な自分の中で、何かが痛んでいるようにも見えた。
「メリー」
「はい、お兄様」
「皇太子殿下から、何か届いていなかったか」
事務室の空気が、再び止まった。
レオンは、何気なく尋ねただけだった。
それが一番怖かった。
メリーは一拍だけ置いて答える。
「定期連絡が届いています」
「内容は」
「帝都側との新体制移行に関する確認です」
「急ぎか」
「現時点で、お兄様の即時判断を必要とするものではありません」
嘘ではない。
少なくとも、今すぐレオンに判断させるわけにはいかなかった。
「なら、後で見せてくれ」
「必要な部分をまとめてお渡しします」
「分かった」
レオンは、それ以上追及しなかった。
近くに置かれていた資料を一つ取り、事務室を出ようとする。
だが、扉の前で足を止めた。
「そういえば」
三人の背筋が、また固まる。
「イリスは、いつ帰ってくる」
リリアの指先が、わずかに震えた。
エリシアは表情を変えない。
メリーが静かに答える。
「帝都側と予定を調整中です」
「まだ決まっていないのか」
「正式な受け入れ日程としては、確定していません」
到着予定は書かれている。
だが、騎士団領側での受け入れ日程は、まだ正式には整えられていない。
かなり苦しい。
それでも、完全な嘘ではなかった。
「そうか」
レオンは少しだけ考えた。
「決まったら教えてくれ」
「はい」
メリーが頭を下げる。
レオンはそのまま事務室を出ていった。
足音が遠ざかる。
三人は、しばらく何も言わなかった。
最初に息を吐いたのは、リリアだった。
「……通りました」
「通りましたね」
メリーが静かに答える。
エリシアは額に手を当てかけて、やめた。
「これは危険です」
「はい」
「本来、何度もできることではありません」
「承知しています」
メリーは頷いた。
「ですが、今回だけは必要です」
リリアは、隠された書状を見る。
五日後。
その文字が、目に焼きついていた。
「イリス様は、本当に帰ってくるのですね」
「はい」
メリーが答える。
「ただし、まだ正式任官前です」
「ヴァルド総長へのお願いも残っています」
「首席書記官としての初期人事も」
「帝都側との条件調整もあります」
エリシアが続ける。
「まだ、全てが終わったわけではありません」
「はい」
リリアは頷いた。
「それでも……」
もう一度、書状を見る。
「帰ってくる日が分かりました」
その言葉に、三人とも少しだけ黙った。
帰ってくる日。
それは、ただの日付ではない。
客人だった皇女が、もう一度この騎士団領へ戻ってくる日。
まだ誰にも知られていない、新しい席へ向かう日。
「迎えの準備をしましょう」
エリシアが言った。
「秘密裏に」
メリーが続ける。
「はい」
リリアは、書状をそっと畳んだ。
大切なものを扱うように。
*
■第七騎士団本庁・廊下
夕方。
レオンは、廊下を歩いていた。
手には、副長府への移転に関する資料を抱えている。
嫌そうな顔だった。
いつも通りだった。
その横を、リリアが少し急いで通り過ぎる。
「リリア」
「はい、お兄様」
「忙しそうだな」
「はい。受け入れ準備がありますので」
「そうか」
レオンは少しだけ考えた。
「無理はするな」
その一言で、リリアは少しだけ胸が痛くなった。
知らない。
お兄様は、まだ知らない。
誰が戻ってくるのか。
なぜ、受け入れ準備が必要なのか。
その人が、どれだけのものを背負って戻ろうとしているのか。
「はい」
リリアは笑った。
「無理はしません」
少しだけ、嘘だった。
今は、そう答えるしかなかった。
レオンは頷き、そのまま歩いていく。
リリアは、その背中を見送った。
イリスが戻ってくる日が決まった。
五日後の夕刻。
だが、その日を一番知らされるべき人だけが、まだ何も知らなかった。




