第162話 総騎士団副長
――帝国暦三二一年・秋初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室――
その日は、朝から空気が硬かった。
総庁。
大会議室。
各騎士団長。
副官。
主要部局の責任者。
さらに、総庁の人事、財務、工部、輜重補給、統括管理、情報、資源の各部からも代表者が集められていた。
ただの会議ではない。
誰もが、そう感じていた。
そして。
レオンは席に着いた時点で、すでに嫌そうな顔をしていた。
「……帰るか」
小さく呟く。
後ろに立つエリシアが、静かに答えた。
「却下します」
「まだ何も始まっていない」
「始まる前に帰る方が問題です」
「始まったら帰れない」
「始まる前にも帰れません」
逃げ道はなかった。
メリーは少し離れた席で資料を確認している。
表情は静かだった。
だが、どこか。
妙に落ち着きすぎていた。
それがまた、レオンには嫌だった。
「メリー」
「はい、お兄様」
「何か知っているな」
「発表をお待ちください」
「知っているな」
「発表をお待ちください」
二度言った。
かなり怪しかった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室
扉が開いた。
ヴァルド・エイゼンが入ってくる。
続いて、グラナート・グランフェルト。
会議室の空気が、一段重くなる。
ヴァルドは席に着くと、いつものように短く言った。
「始める」
ざわめきが消える。
全員の視線が、総長へ集まった。
「まず」
ヴァルドは資料を開く。
「この秋をもって、わしは総長を退く」
すでに告げられていた話だった。
だが、正式な場で改めて発されると、やはり重い。
「後任には、第三騎士団団長グラナート・グランフェルトを推す」
グラナートは静かに頭を下げた。
反発の声は上がらない。
ざわめきはあった。
だが、それは驚きよりも確認に近いものだった。
グラナートならば妥当。
多くが、そう思っている。
レオンは、ほんの少しだけ息を吐いた。
総長ではなかった。
そこだけは、救いだった。
だが、救いは長く続かなかった。
「次に」
ヴァルドの声が落ちる。
「総長交代に伴い、新たな役職を設ける」
レオンの顔が、目に見えて嫌そうになった。
エリシアは見ないふりをした。
かなり見えていた。
「新設役職」
「総騎士団副長」
大会議室に、ざわめきが走った。
総騎士団副長。
聞き慣れない名。
存在しなかった役職。
だが、その響きだけで分かる。
軽い役ではない。
ヴァルドは続ける。
「総長を補佐し、複数騎士団にまたがる運用調整、基準統一、補給・人員配置、総庁との連絡調整を担う」
「初代総騎士団副長には」
レオンは、もう嫌な予感しかしなかった。
「レオンハルト・ヴァイスを任じる」
完全に逃げ道が塞がった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室
視線が、一斉にレオンへ向いた。
団長たち。
副官たち。
総庁各部の代表者。
全員が見る。
レオンは少し黙った。
そして。
「……聞いていません」
低い声で言った。
ヴァルドは笑う。
「今言った」
「そういう意味ではありません」
「出世だ」
「嫌です」
「知っている」
会議室の一部で、わずかに笑いが漏れた。
だが、空気はすぐに戻る。
これは冗談だけでは済まない。
新設役職。
総長補佐。
そして、レオンハルト・ヴァイス。
これまで複数騎士団を兼任し、基準統一を進め、結果を出してきた男。
その立場が、正式な役職へ変わる。
それは、騎士団領の形が変わるということだった。
「また」
ヴァルドは資料をめくる。
「総騎士団副長の実務機関として、総騎士団副長府を設置する」
ざわめきが大きくなった。
「副長府……?」
「室ではなく、府か」
「総長補佐ではないのか」
誰かが小さく言う。
レオンも、同じことを思っていた。
「府?」
低く呟く。
エリシアが、静かに答える。
「かなり大きい組織名ですね」
「補佐ではない」
「おそらく」
「補佐とは何だ」
「建前かと」
かなり率直だった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室
ヴァルドは淡々と読み上げる。
「総騎士団副長府には、総騎士団副長府人事部を置く」
さらにざわめく。
「人事部?」
「総庁人事部とは別か?」
「副長府に人事部を置くのか」
ヴァルドは構わず続けた。
「発足日以降、総騎士団副長府および副長直属組織内の人事権は、一部例外を除き、総騎士団副長に委ねる」
会議室の空気が、明確に変わった。
人事権。
それは重い。
かなり。
ただの調整役なら、そこまでの権限は要らない。
副長府は、総長補佐のための小さな机ではない。
事実上の独立組織だった。
レオンは資料を見て、止まる。
「……一部例外を除き」
ぼそりと呟いた。
メリーが、少しだけ目を伏せる。
何かを知っている顔だった。
かなり。
「さらに」
ヴァルドは続ける。
「総庁各部との連携を円滑にするため、副長府内に工部および輜重補給部の分室を設置する」
今度こそ、はっきりと驚きが広がった。
「工部まで?」
「輜重補給部もか」
「それはもう、作戦運用の準備ではないのか」
「副長は総長補佐では……?」
ヴァルドは平然としていた。
「補佐だ」
誰かが小さく呟く。
「独立組織では?」
「補佐だ」
ヴァルドは同じ調子で押し切った。
かなり無茶だった。
だが、総長がそう言えば、そういうことになる。
少なくとも、この場では。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室
「次に」
ヴァルドはさらに資料をめくる。
「旧第七騎士団、旧第十騎士団、旧第十二騎士団は、発足日をもって暫定的に改編する」
レオンが止まった。
エリシアも、表情を引き締める。
ヴァルトの眉が動く。
会議室の視線が、さらに集まった。
「三騎士団は、総騎士団副長直属とし」
「暫定名称を、ヴァイス騎士団とする」
静寂。
かなり。
そして。
「……は?」
レオンの声が、低く落ちた。
クリスがこの場にいれば、たぶん吹き出していただろう。
だが、ここは団長と副官、各部代表の場である。
誰も大きく笑えない。
ただし、何人かは肩を震わせていた。
「ヴァイス騎士団……」
リリアがいれば、きっと目を丸くしていただろう。
メリーは静かだった。
かなり静かだった。
静かすぎた。
「なぜ俺の名前がついている」
レオンが低く問う。
ヴァルドは当然のように答えた。
「お前の直属だからだ」
「嫌です」
「通達済みだ」
「誰が許可した」
「わしだ」
終わっていた。
かなり。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室
ヴァルドは続ける。
「各騎士団は、発足日までに所属人員、書類、資材、管理台帳、補給経路および庁舎運用の異動処理を完了すること」
資料が配られる。
そこには、現第七騎士団庁舎、現第十騎士団庁舎を暫定庁舎として使用する旨が記されていた。
建設中の総騎士団副庁舎が正式運用されるまで、現有庁舎を利用してヴァイス騎士団を動かす。
第十二騎士団の書記業務は、これまで通り全て第七側でまとめる。
ただし、所属上は副長府直属へ移る。
形式だけではない。
帳簿。
人員。
補給。
命令系統。
全てが組み替えられる。
エリシアは資料を見る。
第七。
第十。
第十二。
それらが一つの名の下に置かれる。
ヴァイス騎士団。
暫定とはいえ、これはただの兼任ではない。
明確な改編だった。
これまでレオンに兼任させていた理由が、少し見えた気がした。
複数騎士団を動かせるか。
基準を揃えられるか。
人員と補給を横断できるか。
その試験は、すでに行われていたのだ。
レオン本人だけが、知らないまま。
「聞いていない」
レオンが言う。
ヴァルドは即答した。
「言っていない」
最悪だった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室
「また」
ヴァルドの声が、さらに重くなる。
「南方情勢の不安定化に備え、第十三騎士団および第十四騎士団の増設準備に入る」
会議室が再びざわついた。
「第十三、第十四……?」
「まだ増やすのか」
「南方がそこまで悪いのか」
「サルヴァディアか」
南方。
その言葉だけで、空気が重くなる。
サルヴァディア王国。
国境周辺の緊張。
兵の動き。
情報の遮断。
今はまだ、明確な戦ではない。
だが、何かが近づいている。
騎士団領が、さらに騎士団を増やす。
それは、ただの組織拡大ではなかった。
備えだ。
それも、かなり大きな。
「第十三、第十四については、詳細を追って通達する」
ヴァルドは言う。
「ただし、当面は総騎士団副長府の調整下で準備を進める」
レオンは、資料を見る。
見たくなかった。
だが、見てしまった。
自分の名前。
副長府。
ヴァイス騎士団。
第十三。
第十四。
工部。
輜重補給部。
人事部。
文字が多い。
嫌な文字ばかりだった。
「……増えている」
低い声だった。
エリシアが答える。
「増えています」
「騎士団も増えている」
「はい」
「部署も増えている」
「はい」
「仕事も増える」
「……はい」
否定できなかった。
誰にも。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室
「さらに、職名整理を行う」
ヴァルドは続ける。
「各騎士団および総庁内で混在していた事務方職名を整理する」
「今後、書類・管理実務を担う者を一律に書記官と呼称する」
資料がめくられる。
「なお、書記官を多数擁する総庁府および総騎士団副長府には、必要に応じて首席書記官および次席書記官を置く」
この発表には、総庁側の一部が大きく反応した。
事務官。
書記官。
これまで部署や騎士団によって呼び方が揺れていた役職が、統一される。
細かい話に見える。
だが、組織をまたぐ時には大きい。
階級。
責任。
報告経路。
それらが、ようやく整理され始める。
ただし、首席書記官と次席書記官は、全騎士団に置かれるわけではない。
書記官を多数抱え、部局横断の処理が必要な組織。
総庁府。
そして、総騎士団副長府。
その二つに限られる。
通常の騎士団では、基本的に書記官で統一される。
リリアやフィアナのような書記官たちも、呼称は揃う。
だが、首席、次席という席は、さらに上の大きな組織のためのものだった。
「なお」
ヴァルドは続けた。
「総庁所属の統括管理部は、総騎士団副長府との連携強化のため、所属を総庁に置いたまま、新庁舎へ移転する」
レオンが、また止まった。
「統括管理部も?」
「そうだ」
ヴァルドが答える。
「所属は総庁のままだ」
「だが、実務場所は副長府側へ移す」
「なぜだ」
「便利だからだ」
理由が雑だった。
だが、たぶん本音だった。
メリーが静かに資料を閉じる。
「統括管理官補佐メリエラ・エイゼンについても、統括管理部の移転に伴い、総騎士団副長府付の出向扱いとする」
ヴァルドの声が響く。
メリーは軽く頭を下げた。
レオンは目を細める。
「メリー」
「はい、お兄様」
「知っていたな」
「一部は」
「一部とは」
「発表された部分です」
「全部ではないか」
「解釈によります」
かなり怪しかった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室
総庁各部の代表たちは、資料を見ながら言葉を失っていた。
副長府。
人事部。
工部分室。
輜重補給部分室。
統括管理部の移転。
旧三騎士団の改編。
ヴァイス騎士団。
第十三、第十四増設準備。
これは、ただの補佐職ではない。
総長を補佐するためという名目のもとに作られる、巨大な実務機関だった。
誰かが、小さく呟いた。
「……総庁の中に、もう一つ総庁を作るようなものでは」
ヴァルドは聞こえていた。
たぶん。
だが、ただ笑った。
「小さい」
「まだな」
その一言で、会議室の空気がさらに重くなった。
まだ。
その言葉が、妙に不穏だった。
レオンは低く言う。
「今、まだと言ったか」
「言ったな」
「やめろ」
「もう遅い」
「遅くするな」
ヴァルドは楽しそうだった。
かなり。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室
グラナートは、ここまでほとんど口を挟まなかった。
だが、ヴァルドが資料を閉じたあと、静かに立ち上がった。
次期総長候補。
その男の声は、重く、硬かった。
「今後、南方情勢は不安定化する可能性が高い」
「騎士団領は、従来通りの独立騎士団運用だけでは対応できない局面を迎える」
「今回の改編は、拡大ではなく備えである」
「そして、備えには実務が必要だ」
視線が、レオンへ向く。
「レオンハルト・ヴァイス」
呼ばれる。
レオンは嫌そうに顔を上げた。
「はい」
「総騎士団副長として、発足日までに旧三騎士団の異動処理を完了させろ」
「……発足日前から仕事があるのですか」
「当然だ」
「就任前なのに」
「発足準備だ」
「最悪だ」
グラナートは表情を変えない。
「不服か」
「かなり」
「却下する」
「エリシアと同じことを言う」
エリシアは静かに目を伏せた。
その通りだった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室
会議は、その後もしばらく続いた。
移行日程。
人員整理。
書類移管。
庁舎運用。
補給経路。
総庁各部との連携。
細かい確認が山ほどあった。
レオンは、だんだん無言になっていった。
嫌がる余裕すら削られていた。
エリシアは横で資料を整理する。
メリーは、統括管理部移転関連の書類をすでに確認している。
ヴァルトは遠い目をしていた。
第十も、巻き込まれる。
完全に。
グラナートは淡々と議事を進める。
ヴァルドは楽しそうに見ている。
その光景だけで、レオンは思った。
これは罠だ。
かなり大掛かりな。
そして、もう踏んでいる。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・大会議室・会議後
会議が終わる。
参加者たちが、それぞれ資料を抱えて出ていく。
誰もがざわついていた。
「ヴァイス騎士団だと」
「副長府に人事部まで置くのか」
「工部と輜重補給部の分室……」
「第十三、第十四まで」
「南方が動くのか」
不安。
驚き。
期待。
警戒。
それらが混じって、総庁の廊下を満たしていた。
レオンは立ち上がらない。
資料を見たまま、しばらく黙っていた。
その中に、空欄があった。
総騎士団副長府。
首席書記官。
未定。
「……首席書記官は未定か」
レオンが呟く。
メリーが静かに答える。
「はい」
「発足後に決めればいい」
「はい」
嘘ではない。
だが、メリーの返事は、少しだけ早かった。
エリシアはそれに気づいた。
気づいたが、何も言わなかった。
今はまだ、言えない。
その空欄には、もう別の意味がある。
レオンだけが、それを知らない。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 総庁・廊下
総庁を出ると、秋の風が吹いていた。
遠くに、建設中の総騎士団副庁舎が見える。
まだ完成していない。
だが、確かに形になりつつあった。
あれが、総騎士団副長府になる。
旧第七。
旧第十。
旧第十二。
それらを束ねるヴァイス騎士団の中枢になる。
さらに、統括管理部も移る。
工部。
輜重補給部。
人事部。
書記官制度。
発足日までに、全てを異動させる。
レオンはしばらく建物を見ていた。
そして。
「……壊すか」
エリシアが即答する。
「却下します」
「まだ完成していない」
「なおさら却下です」
「完成したら手遅れだ」
「もう手遅れです」
かなり正しかった。
レオンは黙った。
メリーは静かに資料を抱え直す。
その目は、どこか別の空欄を見ているようだった。
総騎士団副長。
名目は、総長補佐。
だがその日、誰もが思った。
これは補佐ではない。
もう一つの総庁だ、と。
そして、その中にはまだ、名前の入っていない席が一つ、静かに用意されていた。




