第161話 最後の抜け道
――帝国暦三二一年・秋終盤 ヴェリア帝国・東ロンバルディア騎士団領 グランフェルト家邸・書斎――
■グランフェルト家邸・書斎
空気は、張り詰めていた。
リリア。
メリー。
エリシア。
三人は、グラナート・グランフェルトの前に立っている。
その横では、エリシアの母が静かに見守っていた。
先ほどまでの柔らかな空気は、もうない。
イリスを戻す。
そのために、何が必要なのか。
それを問われている。
グラナートは、ただ黙っていた。
鋭い視線。
厳しい沈黙。
それだけで、言葉を削られていくようだった。
「……皇女殿下は」
最初に口を開いたのは、リリアだった。
少しだけ声が震えている。
だが、逃げなかった。
「騎士団領に戻りたいと仰っています」
「それは聞いた」
グラナートの声は低い。
「戻りたいだけなら、理由にはならん」
「はい」
リリアは頷いた。
「でも、イリスさん……皇女殿下は、ただ戻りたいだけではありません」
リリアは、胸の前で書類を握る。
「役に立ちたいと、仰っていました」
グラナートは何も言わない。
リリアは続けた。
「客人ではなく、責任を持つ側に立ちたいと」
「帝都と騎士団領の間に立てるなら、そうしたいと」
そこで一度、言葉が止まる。
リリアは唇を結び、それから、正直に言った。
「私は、イリスさんに戻ってきてほしいです」
理屈ではなかった。
だが、嘘でもない。
「でも、それだけでは駄目なのも分かっています」
グラナートの視線が、わずかに動いた。
リリアは、書類を握る手に少しだけ力を込める。
「だから、必要な理由も考えました」
「皇女殿下が戻ることで、帝都との連絡が強くなります」
「お兄様には、帝都の視点が足りません」
「お兄様は……その、合理的ですが、少し常識が足りないところがあるので」
エリシアが目を伏せた。
否定できなかった。
メリーも否定しなかった。
グラナートも否定しなかった。
かなり強い沈黙だった。
「皇女殿下なら」
リリアは続ける。
「お兄様に足りないところを、見てくださると思います」
「帝都にも、騎士団領にも、ちゃんと伝えてくださると思います」
そして、最後だけははっきりと言った。
「だから、必要です」
リリアの言葉が終わる。
書斎に、静かな余韻が残った。
続いて、メリーが一歩前に出る。
「グラナート団長」
静かな声だった。
「お姉さまを受け入れることには、危険があります」
「皇族を騎士団領の職務系統へ組み込むこと」
「帝都貴族の反発」
「レオン様個人との距離」
「どれも問題になります」
グラナートは黙って聞いている。
メリーは、怯まなかった。
「ですが、現状のまま客人扱いを続ける方が、むしろ曖昧です」
「正式な役職」
「責任範囲」
「報告経路」
「評価期間」
「それらを定めれば、お姉さまは監視対象ではなく、職務上の責任者として扱えます」
理路整然としていた。
いかにもメリーらしい。
だが、その声には、いつもより少しだけ熱があった。
「皇帝陛下の条件も、一年という期限付きです」
「成果が出なければ帰還」
「以後の任官および長期滞在は禁止」
「これは騎士団領側にとっても、受け入れの説明材料になります」
メリーはそこで、少しだけ息を整えた。
「お姉さまは本気です」
「そして」
「本気であるなら、役職と責任を与えるべきです」
グラナートは、静かに目を細めた。
「ヴァルドの孫らしい言い方だ」
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
「承知しています」
メリーは動じなかった。
そのやり取りに、エリシアの母が少しだけ笑う。
最後に、エリシアが口を開いた。
「父上」
この場では、そう呼んだ。
グラナートが視線を向ける。
「私は、皇女殿下の受け入れに賛成です」
「理由は」
「職務上、必要性があると判断するためです」
エリシアは真っ直ぐ父を見る。
「レオンは、複数騎士団の運用、基準統一、人員配置、補給整理を進めています」
「今後、総長交代と新体制移行に伴い、帝都との調整は確実に増えます」
「その際、帝都の論理を理解し、かつ騎士団領の実情も知る補佐役は必要です」
「皇女殿下は、その条件を満たしています」
グラナートは答えない。
エリシアは続けた。
「そして」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「皇女殿下は、ここへ戻るために代償を受け入れました」
「宮廷内の立場を一部失い」
「一年で成果を出せなければ、二度と騎士団領へ戻れない」
「それでも戻ると決めた方を」
エリシアは、静かに言い切った。
「こちらが、理由もなく拒むべきではないと思います」
部屋が静かになった。
かなり。
グラナートは、三人を見る。
リリア。
メリー。
エリシア。
立場は違う。
感情も違う。
理屈の組み立ても違う。
だが、向いている方向は同じだった。
イリスを戻したい。
その一点だけは、揃っていた。
沈黙が長く続く。
リリアは不安そうに手を握る。
メリーは表情を崩さない。
エリシアは、父の答えを待っている。
その横で、エリシアの母がにこりと笑った。
「あなた」
柔らかい声だった。
「三人とも、こんなに一生懸命話しているのよ」
「情で判断する話ではない」
グラナートは短く返す。
「ええ。分かっています」
母は頷いた。
「でも、情があるからこそ、ここまで理由を整えてきたのでしょう?」
グラナートは黙る。
「ただ泣いて頼みに来たわけではないわ」
「ちゃんと考えて、怖いあなたの前まで来たのよ」
「怖いとは何だ」
「怖いでしょう?」
「……」
グラナートは否定しなかった。
否定できなかったのかもしれない。
リリアは少しだけ頷きそうになって、必死に堪えた。
「それに」
母は続ける。
「エリシアが、こんな顔をしているの」
エリシアが止まった。
「母上」
「お友達のために、こんなに必死になっているのよ」
「これは職務上の――」
「はいはい」
母は笑顔で流した。
かなり強かった。
「だから、あなたもちゃんと聞いてあげてください」
「私は聞いている」
「聞いている顔が怖いの」
「……」
また沈黙。
グラナートは、少しだけ目を閉じた。
そして、低く息を吐く。
「……協力はする」
リリアの顔が明るくなった。
メリーも、ほんの少しだけ目を開く。
エリシアは静かに息を止めた。
「ただし」
グラナートは続ける。
「受け入れは簡単ではない」
「はい」
エリシアが答えた。
「皇帝陛下の条件」
「皇太子殿下を通じた報告経路」
「騎士団領側の受け入れ体制」
「それらは整えればいい」
そこで、グラナートの声が少し低くなった。
「だが、最大の問題がある」
空気が変わる。
リリアが不安そうに顔を上げた。
「最大の問題……ですか?」
「そうだ」
グラナートは、三人を見た。
「皇女殿下を、どこへ置くかだ」
グラナートは机の上の資料を手に取った。
「皇女殿下をただの書記官にはできん」
「当然、通常の騎士団所属でも扱いが難しい」
「客人をやめるなら、正式な職務が必要だ」
「責任範囲も、命令系統も明確でなければならん」
メリーが小さく頷く。
グラナートは続けた。
「現状、最も自然なのは、新設される総騎士団副長職の周辺だ」
リリアが瞬きをした。
「総騎士団……副長?」
メリーは静かに顔を上げる。
何かを知っていた。
あるいは、予想していた。
エリシアは表情を引き締める。
その名は、まだ正式には公表されていない。
だが、父の口から出た以上。
ほぼ決まっている。
「総長を補佐し、複数騎士団の運用調整を担う新設職だ」
グラナートは淡々と言った。
「総庁の人事部でさえ、容易に介入できない組織になる」
「新体制移行の中枢だ」
「その周辺に皇女殿下を置くなら、筋は通る」
そして、具体的な肩書きを口にする。
「総騎士団副長付の首席書記官」
リリアが小さく息を呑んだ。
「首席書記官……」
「実質的には、筆頭補佐官に近い」
グラナートは続ける。
「皇女殿下の立場」
「帝都との連絡調整」
「騎士団領内での責任範囲」
「どれを見ても、それが最も整う」
メリーの目が、わずかに動いた。
その肩書きなら、確かに筋は通る。
客人ではない。
ただの書記官でもない。
帝都と騎士団領を繋ぐ補佐役として、正式な職務を持てる。
だが、グラナートはそこで声を低くした。
「しかし、本来なら問題がある」
「問題……」
リリアが不安そうに聞く。
「総騎士団副長就任後の人事は、原則としてレオンハルトに任される」
空気が固まった。
「総騎士団副長付の首席書記官となれば、なおさらだ」
「本来なら、副長本人の承認なしに任官させるべきではない」
リリアはすぐに意味を理解できなかった。
だが、メリーが静かに目を伏せる。
エリシアも、同じように沈黙した。
そして、リリアも気づく。
「……お兄様に知られたら」
「止めるだろうな」
グラナートは淡々と言った。
誰も否定しなかった。
否定できなかった。
レオンなら、止める。
イリスのために。
危険を避けるために。
重荷を背負わせないために。
そう言って。
全部、なかったことにしようとする。
沈黙が落ちる。
今度の沈黙は、かなり重かった。
リリアは書類を握りしめる。
メリーはじっと考えている。
エリシアは、父を見る。
「父上」
「何だ」
「抜け道は、ありますか?」
かなり直接的だった。
母が少しだけ目を丸くする。
グラナートは、娘を見た。
しばらく黙り。
そして、低く答える。
「ある」
一瞬、リリアが顔を上げた。
メリーの目も、わずかに鋭くなる。
「ただし、かなり強引だ」
「構いません」
メリーが即答した。
グラナートは、その返答に少しだけ目を細める。
「ヴァルドの孫娘だな」
「否定はしません」
「褒めていない」
「承知しています」
そのやり取りは、どこか既視感があった。
グラナートは続ける。
「総騎士団副長就任後の人事は、原則としてレオンハルトに任される」
「だが、発足時の初期人事は別だ」
「特に、首席書記官については、総長側から推薦・任命できる余地がある」
メリーが小さく息を吸う。
「つまり」
静かな声だった。
「お兄様が総騎士団副長に就任する前に」
「お姉さまを、総騎士団副長付首席書記官として推薦・任官させる」
グラナートは頷いた。
「そういうことだ」
リリアの目に、少しだけ希望が宿る。
「それなら……お兄様に知られずに?」
「可能ではある」
グラナートは答える。
「だが、処理できる者は限られる」
「まだ新総長でない私では、完全には動かせん」
「新設組織の発足前人事となれば、退任前の総長裁量が必要になる」
メリーが、はっきりと顔を上げた。
「お祖父様ですね」
「そうだ」
グラナートは短く返す。
「ヴァルド総長が退任前に処理すれば、形式上は通る」
「レオンハルトが正式に総騎士団副長となる一日前」
「その時点で、首席書記官として任官処理を完了させる」
「そうすれば、レオンハルトの承認前に人事は成立する」
リリアは息を呑んだ。
かなり危うい。
だが。
確かに道があった。
細い。
強引で。
怒られそうで。
それでも、道だった。
「退任前日の総長に」
グラナートが低く言う。
「最後の面倒事を押し付ける気か」
メリーは真顔で頷いた。
「はい」
即答だった。
母が口元を押さえる。
少し笑っていた。
エリシアは、頭が痛くなりそうだった。
「メリエラ」
「はい」
「それは、かなり無茶です」
「承知しています」
「レオンが知れば、間違いなく嫌な顔をします」
メリーは少しだけ考えた。
「お兄様は、いつも嫌な顔をしています」
「そういう問題ではありません」
「ですが、今回も嫌な顔で済む可能性があります」
「済まない可能性もあります」
「その時は、謝ります」
かなり真面目だった。
グラナートは、三人を見る。
「私は協力する」
低い声だった。
「皇女殿下の有用性も理解した」
「受け入れの筋もある」
「だが、これは正式な手続きをねじ曲げるに近い」
「通すなら、ヴァルド総長の意思が必要だ」
「はい」
メリーは頷く。
「私が、お祖父様に頼みます」
リリアも、すぐに顔を上げた。
「私も行きます」
「リリアさん」
エリシアが驚く。
リリアは少しだけ震えていた。
けれど、目は逸らさない。
「イリスさんのためです」
「それに」
「お兄様に知られないようにするなら、ちゃんとお願いしないといけません」
言っていることは、かなり危ない。
だが、真剣だった。
エリシアはため息を吐きそうになった。
それでも、止めなかった。
止められなかった。
「では」
エリシアは静かに言う。
「私も同行します」
リリアがほっとしたように見る。
「エリシアさん」
「ここまで来た以上、途中で放り出すわけにはいきません」
その言葉に、母が嬉しそうに笑った。
「やっぱりお友達ね」
「母上」
「いいのよ。お友達は大事にしないと」
エリシアは、何も言えなくなった。
グラナートはそれを見て、ほんの少しだけ目を伏せる。
呆れているのか。
何かを思っているのか。
分からなかった。
「父上」
エリシアが姿勢を正す。
「ご協力、感謝いたします」
「礼は早い」
グラナートは短く返す。
「まだ何も通っていない」
「はい」
「そして」
グラナートは、少しだけ声を低くした。
「次に説得すべき相手は、私より面倒だ」
エリシアは否定できなかった。
リリアも。
メリーも。
誰も否定できなかった。
ヴァルド・エイゼン。
騎士団領の総長。
そして。
最後の抜け道を開けるかもしれない男。
■グランフェルト家邸・玄関
帰り際。
母は三人を見送った。
「また来てね」
明るい声だった。
「エリシアのお友達なら、いつでも歓迎するわ」
「母上」
「ふふ」
リリアは少し照れながら頭を下げる。
「ありがとうございます」
メリーも静かに礼をした。
「本日は突然の訪問、失礼いたしました」
「いいのよ。とても楽しかったわ」
「楽しい内容ではなかったと思いますが」
「エリシアのお友達に会えたもの」
母は本当に嬉しそうだった。
エリシアはもう何も言えなかった。
屋敷を出る。
秋の風が少し冷たい。
リリアは空を見上げた。
「……次は」
小さく呟く。
「ヴァルド総長ですね」
メリーが頷いた。
「はい」
「お祖父様に、最後の面倒事をお願いしに行きます」
言い方はひどい。
だが、間違ってはいなかった。
エリシアは静かに目を閉じる。
帝都の扉。
グラナートの扉。
その二つは、細く開いた。
そして次に残った扉は。
一番古く。
一番狡く。
たぶん、一番楽しそうに開く扉だった。




