第159話 条件付きの返書
――帝国暦三二一年・秋初め ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・資料室――
帝都からの返書が届いた。
皇太子アシュレイ・ヴェル=ヴェリアの名で届いたものだった。
封は、すでに開けられている。
開けたのは、メリーだった。
リリアは、その横でじっと書状を見ていた。
エリシアもいる。
三人だけ。
レオンには、まだ知らせていない。
それだけで。
この書状が、軽いものではないことは分かっていた。
「……皇帝陛下は」
リリアが小さく呟く。
「イリス様のお話を、聞いてくださったんですよね」
「はい」
メリーが頷く。
「お姉様は、直接陛下へ意思を伝えたようです」
「ただし、無条件ではありません」
その声は、静かだった。
けれど。
いつもより少し硬かった。
リリアは書状へ視線を落とす。
そこには、いくつかの条件が記されていた。
騎士団領で任官する以上、皇女としての宮廷内の立場を一部失うこと。
一年以内に、帝都と騎士団領を繋ぐ役目として成果を示すこと。
成果が認められない場合、帝都へ帰還させられること。
その場合、以後、騎士団領への任官および長期滞在は認められないこと。
正式な役職。
責任範囲。
報告経路。
そのすべてを、騎士団領側でも整えること。
読み進めるほど、リリアの顔から、少しずつ血の気が引いていった。
「……これ」
声が震える。
「失敗したら、イリス様……もう戻ってこられないんですか」
「その可能性があります」
メリーは答えた。
曖昧にしなかった。
「お姉様は、それでも条件を受け入れたようです」
リリアは、唇を結ぶ。
イリスが。
あの、いつも少し楽しそうに笑っていた人が。
そこまで背負って。
戻ろうとしている。
客人ではなく。
仲間として。
「……本当に」
リリアは書状を握る。
「本気なんですね」
「はい」
メリーの声は小さかった。
「お姉様は、本気です」
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・資料室
沈黙が落ちた。
外では、いつも通りの音がする。
誰かが廊下を歩き。
書類が運ばれ。
遠くでフィアナが何かを補給しようとして、誰かに止められている気配がある。
いつも通り。
けれど。
この部屋だけは、少し違っていた。
「帝都側は、完全に道を閉ざしたわけではありません」
エリシアが静かに言う。
「ですが、騎士団領側が正式に受け入れ体制を整えなければ、皇女殿下は戻れません」
「はい」
メリーは頷く。
「お兄様への説明も、まだできません」
「今言えば」
リリアが小さく続ける。
「止めますよね」
誰も否定しなかった。
レオンなら、きっと止める。
イリスのために。
危険を避けるために。
重荷を背負わせないために。
そう言って。
全部、なかったことにしようとする。
それは優しさかもしれない。
けれど、イリスがここまでして選んだ道を、閉ざすことにもなる。
「では、まず必要なのは」
エリシアが言う。
「騎士団領側の正式な受け入れ承認です」
リリアが顔を上げた。
「総長に、お願いするんですよね」
「お祖父様は」
メリーが少しだけ考える。
「ある程度は聞いてくださると思います」
「私には甘いので」
エリシアが静かに目を閉じた。
「それを理由にするのはどうかと思います」
「事実です」
メリーは真顔だった。
リリアは少しだけ笑いそうになった。
けれど、すぐに表情を戻す。
今は笑っていい場面ではない。
メリーも、それは分かっていた。
「ただし」
声が少し低くなる。
「お祖父様だけでは不十分です」
リリアは首を傾げる。
「不十分……?」
「はい」
メリーはエリシアを見る。
「次期総長となるグラナート団長が、認める必要があります」
空気が変わった。
エリシアの表情も、わずかに硬くなる。
グラナート・グランフェルト。
第三騎士団団長。
次期総長候補。
そして。
エリシアの父。
「……父は」
エリシアが静かに言う。
「情では動きません」
「はい」
メリーは頷く。
「なので、難しいです」
その言葉は、かなり率直だった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・資料室
リリアは、エリシアを見る。
まっすぐに。
少しだけ、迷って。
それでも。
頭を下げた。
「お願いします、エリシアさん」
一瞬、エリシアが止まる。
「リリアさん」
「グラナート団長に、話してもらえませんか」
声が震えていた。
けれど、引かなかった。
「イリス様、戻りたいんです」
「ここに戻るために、こんな条件まで受け入れて……」
「それなのに、騎士団領側で止まったら……」
言葉が詰まる。
リリアは書状を握ったまま、もう一度頭を下げる。
「お願いします」
「イリス様が、戻ってこられるようにしてください」
エリシアは、すぐには答えなかった。
その横で。
メリーも静かに頭を下げた。
「お願いします」
小さな声だった。
「お姉様のために」
「そして、お兄様のためにも」
エリシアは目を伏せる。
二人に頼まれる。
それは、決して軽くなかった。
だが、父に頼むということの意味も、よく分かっている。
グラナートは、娘が頼んだからといって動く人ではない。
むしろ、娘が頼むからこそ、余計に厳しく見る可能性がある。
情では動かない。
感傷では認めない。
必要だと判断しなければ、絶対に首を縦には振らない。
「……二人とも」
エリシアは静かに言った。
「父は、お願いでは動きません」
リリアが顔を上げる。
メリーも、じっと見る。
「ですが」
「必要性があれば、聞きます」
リリアの目が、わずかに揺れた。
「必要性……」
「はい」
エリシアは頷く。
「皇女殿下が騎士団領に必要である理由を、示してください」
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・資料室
三人は、書状を前に座った。
ただ頼むだけでは足りない。
泣きつくだけでは届かない。
グラナートに必要なのは、理由だった。
役割。
効果。
責任。
そして、結果。
「まず」
メリーが紙を取り出す。
「帝都と騎士団領の連絡役が必要です」
エリシアが頷く。
「南方情勢が不穏な今、帝都との連携は重要です」
「はい」
メリーは書き留める。
「お姉様は一年近く騎士団領に滞在し、内部の実情を理解しています」
リリアが続ける。
「それに、イリス様は皆のことも分かっています」
「お兄様のことも」
「……言葉が足りないところも」
エリシアが静かに頷く。
「それは重要です」
「重要なんですね……」
「かなり重要です」
リリアは少しだけ複雑な顔をした。
メリーはさらに書く。
「客人扱いを続けるより、正式な役職と責任を与えた方が、行動範囲も命令系統も明確になります」
「安全管理上も説明がつく」
エリシアが補足する。
「皇太子殿下を通じた定期報告経路もあります」
「帝都側も完全に手を離すわけではない」
「つまり」
メリーは顔を上げる。
「お姉様は、帝都と騎士団領の双方を繋げる位置に立てます」
リリアは小さく頷く。
「ただ戻ってきたいだけじゃなくて」
「ちゃんと、必要な人なんですね」
「はい」
メリーは静かに答える。
「お姉様は、必要です」
その声は。
少しだけ、いつもより柔らかかった。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・資料室
理由は、少しずつ形になっていった。
帝都との連絡調整。
新体制移行への補佐。
皇族としての信用。
騎士団領内部への理解。
レオンの周辺で、不足している帝都視点。
客人ではなく、役職者として責任を負わせることの利点。
そして、一年という期限。
成果が出なければ帰還するという条件。
厳しいが、逆に言えば、騎士団領側にも説明しやすい。
無制限の受け入れではない。
試験的な任官。
明確な責任。
明確な評価期間。
グラナートが嫌う曖昧さを、少しでも減らす。
「……これなら」
エリシアは文案を見る。
「父も、聞く余地はあると思います」
リリアの顔が少し明るくなる。
「本当ですか?」
「聞く余地です」
エリシアは訂正した。
「認めるかは別です」
「はい……」
「父は、必要ないものを必要とは言いません」
厳しい言葉だった。
だが。
嘘ではない。
それでも。
リリアはもう一度、深く頭を下げた。
「それでも、お願いします」
「エリシアさんしか、頼めません」
メリーも続く。
「お願いします」
「お姉様のために」
エリシアは、二人を見る。
リリア。
メリー。
二人とも、必死だった。
そして。
その必死さが、自分にも分かってしまう。
イリスが戻ってきた時の顔を。
リリアが「おかえりなさい」と言う場面を。
メリーが、少しだけ泣きそうな顔で「お姉様」と呼ぶ場面を。
想像できてしまう。
だから、エリシアは静かに息を吐いた。
「分かりました」
リリアが顔を上げる。
「私から、グラナート団長へ話します」
リリアの目が潤んだ。
「ありがとうございます……!」
「ただし」
エリシアは釘を刺す。
「通るとは限りません」
「父は、情では動きません」
「必要性が足りなければ、却下されます」
「それでも」
リリアは頷いた。
「お願いします」
メリーも静かに頭を下げた。
「お願いします」
エリシアは文案を手に取る。
軽い紙だった。
けれど、そこにはイリスの帰る道が乗っていた。
■ヴェリア帝国・東ロンバルディア 帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・廊下
資料室を出ると、廊下はいつも通りだった。
遠くで誰かが書類を運んでいる。
フィアナが「補給」と呟いている。
ココがリリアの姿を探している。
レオンの声も、どこかから聞こえた。
いつもの第七。
イリスが帰りたがっている場所。
イリスが、代償を払ってでも戻ろうとしている場所。
エリシアは、文案を抱え直した。
次に開くべき扉は、父のところにある。
帝都からの道は、細く開いた。
けれど、その道を騎士団領へ繋ぐには。
もう一つ、硬い扉を開かなければならなかった。




