父が総長になる日
――帝国暦三二一年・秋初め 東ロンバルディア帝国騎士団領 総庁・会議室――
団長会議だった。
いつも通り、重い空気。
硬い椅子。
分厚い資料。
そして嫌な予感。
出席しているのは、各騎士団長と副官のみ。
第七騎士団団長としてレオン。
その後方に、第七騎士団副官としてエリシア。それが、この場での立ち位置だった。
レオンは席に着いた時点で、すでに少し嫌そうな顔をしていた。
エリシアはそれを横目で見て、静かに資料を揃える。理由は分かる、こういう場で出る話は、だいたい面倒なものだから。
今日は、確実に面倒な話だった。
会議室の空気が、いつもより硬い。
団長達の視線が、どこか慎重で。
副官達も、余計な言葉を発しない。
何かが発表される。
それだけは、全員が感じていた。
■総庁・会議室
扉が開く。
ヴァルド・エイゼンが入ってきた。老齢、だがその場の空気を一瞬で締める圧がある。
総長、東ロンバルディア帝国騎士団領の頂点、総騎士団長。
その男が席に着くと、会議室は自然と静まり返った。
「始める」
短い声だった。
いくつかの報告が続く。
南方情勢。
補給経路。
新設騎士団の運用。
中央区画の建設状況。
どれも重要だった。
だが、今日の本題ではない。
全員が、それを分かっていた。
ヴァルドは資料を閉じた。
「この秋をもって」
低い声が落ちる。
「わしは総長を退く」
空気が止まった、完全に。
誰もすぐには声を出さなかった。
予感はあった、噂もあった。
だが、正式に告げられると、重さが違う。
エリシアも、ほんのわずかに息を止めた。
総長が退く。
騎士団領が、変わる。
「後任については」
ヴァルドは続ける。
「第三騎士団団長、グラナート・グランフェルトを推す」
一瞬、視線が動いた。
団長達が。
副官達が。
そして、数人がエリシアを見た。
エリシアは表情を変えなかった。
ただ、手元の資料を持つ指に、少しだけ力が入った。
父が、総長になる。
■総庁・会議室
グラナート・グランフェルトは、静かに座っていた。
厳格。
無駄がない。
表情にも、声にも、余計な揺れはない。
突然の指名ではないのだろう。
少なくとも、本人は理解している顔だった。
「グラナートなら妥当だ」
どこかで小さな声がした。
「実績もある」
「第三をあれだけ維持している男だ」
「年齢も立場も申し分ない」
ざわめきは広がる。
反発は少なかった。
当然だった。
グラナート・グランフェルト。
厳格な成果主義。
情に流されず、結果だけを見る男。
好き嫌いは分かれる。
だが、実力を疑う者は少ない。
一方のレオンは、ほんの少しだけ、息を吐いていた。
総長ではなかった。そこだけは、明らかに安心している。それがかなり顔に出ていた。
エリシアはそれに気づき、ほんの少しだけ視線を伏せる。
レオンが総長になる可能性。少し前まで、それもあり得ると聞かされていた。だから、レオンが安心するのも分かる。
その代わりに、父がそこへ行く。
自分の父が。
騎士団領の頂点へ。
エリシアの胸の奥に、言葉にならない重さが落ちた。
■総庁・会議室
「なお」
ヴァルドの声で、会議室が再び静まる。
「総長交代に伴い、運用体制も一部改める」
その瞬間。
レオンが嫌そうな顔をした。
今度は、さらに分かりやすかった。
エリシアは見なかったことにした。
見たが、見なかったことにした。
少し離れた位置で、メリーが資料を確認している。
統括管理官補佐としての同席だった。
その表情は静かだったが、何かを知っている顔だった。
「詳細は追って通達する」
ヴァルドは短く言う。
「だが、騎士団領はこれまで通りではない」
「南方は不穏」
「帝都との調整も増える」
「新設騎士団も動き始めた」
「全体をまとめる運用が必要になる」
その言葉に、数人の視線がレオンへ向く。
レオンは見ないふりをした。
見ないふりをしたが。
おそらく気づいていた。
エリシアも、気づいた。
父が総長になる。
だが、それだけでは終わらない。
レオンにも、何かが用意されている。
騎士団領は、形を変えようとしていた。
■総庁・会議室前
会議が終わる。
団長達が席を立つ。
副官達が資料をまとめる。
ざわめきが戻ったが先ほどまでとは違う。
その中で。
「グランフェルト副官」
誰かがエリシアへ声をかけた。
エリシアは振り返る。
「はい」
「次期総長のご息女か」
言葉に、悪意はなかった。
ただの確認。
けれど、確かに、立場が変わった音がした。
エリシアは静かに頭を下げる。
「私は第七騎士団副官です」
「それ以上でも、それ以下でもありません」
声は乱れなかった。
しかし、胸の奥には、少しだけ硬いものが残った。相手は短く頷き、去っていく。
その背を見送りながら、エリシアは思う。
これから増えるのだろう。
こういう視線が。
こういう呼ばれ方が。
こういう扱われ方が。
■総庁・廊下
「エリシアさん」
リリアが小さく声をかけた。
いつの間にか、会議室の外で待っていたらしい。心配そうな顔だった。
「大丈夫ですか?」
エリシアは少しだけ目を伏せる。
「問題ありません」
いつもの答え。
けれど、少しだけ間があった。
リリアはそれに気づいた。
でも、何も言わなかった。
ただ、そっと笑う。
「無理はしないでくださいね」
「ありがとうございます」
エリシアは短く返す。
その声は、いつもより少し柔らかかった。
■総庁・廊下奥
グラナートが歩いてくる。
周囲の者が自然と道を開けた。
まだ正式就任前。
だが空気は、すでに変わり始めていた。
エリシアは姿勢を正す。
「グラナート団長」
父上、とは呼ばなかった。
この場では。
騎士団の一員として。
第七副官として。
グラナートは、娘を見る。
だが、その目は父親のものではなかった。
少なくとも、表向きは。
「立場が変わる」
低い声だった。
「周囲の目も変わる」
「はい」
「だが、お前の務めは変わらん」
「第七騎士団副官として、結果を出せ」
厳しい。
当然のように、情はない。
特別扱いもない。
でも、エリシアはその言葉に少しだけ救われた。
自分は総長の娘になるのではない。
第七騎士団副官のままでいればいい。
「承知しました」
エリシアは深く頭を下げた。
グラナートはそれ以上何も言わず、歩いていく。
その背は遠かった。
父としても。
騎士としても。
そして、これからは。
総長としても。
■総庁・廊下
エリシアは少しの間、その場に立っていた。 胸の奥に、重さがある。
誇らしさ。
不安。
寂しさ。
そして、わずかな悔しさ。
うまく言葉にできない。
「エリシア」
いつもの声がした。
振り返る。
レオンが、少し先でこちらを見ていた。
何も変わらない顔で。
いつものように。
「戻るぞ」
短いくて雑な言葉。
説明もない。
だがエリシアは少しだけ息を吐いた。
「はい」
周囲の目が変わる。
父の立場も変わる。
騎士団領も変わっていく。
それでも今、この声だけは変わらなかった。
エリシアは資料を抱え直し、レオンの後ろへ歩き出す。
父が、総長になる。
周囲の目は、きっと変わる。
自分の立つ場所も、少しずつ変わっていく。
けれど。
「エリシア」
その呼び方だけは、まだ変わらなかった。




