表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
148/156

ひとつだけ空いた席

――帝国暦三二一年・秋初め 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁――


 いつも通りだった。

 騒がしく、忙しく。

 誰かが廊下を走り。

 誰かが叱られ。

 誰かが、どこかで笑っている。

「声が大きいです」

「すまん!!」


 ニルの声が廊下に響いた。

 エリシアが静かに目を細める。

 少し離れた場所では、カイルが書類を抱えたまま頭を下げていた。

「ありがとうございます!」

「感謝しないでください」

「申し訳ありません、ありがとうございます!」

「増えています」


 カイルは叱られている。

 それなのに、少し嬉しそうだった。

 クリスが遠い目をする。


「いつも通りだな……」

 そう、いつも通りだった。

 リリアの明るい声があり。

 メリーの静かな足音があり。

 フィアナが何かを補給しようとして、ココがリリアの周囲を警戒している。


 いつもの第七。

 いつもの本庁。

 ただ、どこかに、ひとつだけ。

 音が足りなかった。


 ■第七騎士団 本庁・事務室


 リリアはお茶を用意していた。

 人数分。


 いつものように。

 カップを並べる。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 そして。

 もう一つ。

 そこで、手が止まった。

「……あ」


 余分だった。

 イリスの分。

 リリアはカップを見つめる。

 白い湯気が、ゆっくりと上がっている。

 そこに座る人はいない。


「リリアさん?」

 ココがすぐに気づいた。

「大丈夫ですか?」

「はい」

 リリアは小さく笑う。

「少し、癖で」

 それだけ言って、カップを下げようとする。


 フィアナがそれを見て、ぽつりと呟いた。

「……補給対象が、一人減っています」

「補給対象ではありません」

 ココが即座に訂正する。

 フィアナは少し目を伏せる。

「でも、少し寂しいです……」

 その言葉に、リリアは手を止めた。


 そして、静かに頷く。

「はい」

「少し、寂しいですね」

 カップは、しばらくそのまま置かれていた。


 ■第七騎士団 本庁・執務室


 レオンは資料を見ていた。

 南方報告。

 人員配置。

 新体制に関する、妙に曖昧な書類。

 中央区画の建設進捗。

 どれも嫌な匂いがした。

 レオンは一枚の資料をめくり、ふと目を止める。

「……これは」

 小さく呟いた。

「イリスなら面白がったな」


 執務室が静かになる。

 クリスが顔を上げた。

「寂しいのか?」

「違う」

 即答だった。


 ただ、返事が遅かった。

「相談相手が減っただけだ」

「それを寂しいって言うんだよ」

 クリスは呆れる。

 レオンは少し考えた。

「そうなのか?」

「そこからかよ」


 クリスは天井を見た。

 エリシアは何も言わない。

 資料を持つ手を、少しだけ止めていた。

 団長が自分から誰かの不在を口にするのは、珍しい。


 しかもそれを、本人は寂しさだと分かっていない。

 エリシアは静かに視線を落とす。

 団長らしい。

 そして。

 少しだけ、困った人だった。


 ■第七騎士団 本庁・資料室

 

 メリーは書類を整理していた。

 帝都方面の連絡記録。


 伝令経路。

 護衛手配。

 日程確認。

 何度も見たものばかり。

 確認済み。

 整理済み。

 問題なし。

 そう判断できるはずなのに、手が止まる。

「……お姉様なら」

 小さく呟いて。

 すぐに口を閉じた。


 近くにいたリリアが、そっと顔を向ける。

「寂しいですか?」

 メリーは、少しだけ迷った。

 いつもなら、問題ありません、と答えるところだった。

 でも、この日は違った。

「……少し」

 珍しく、素直だった。


「イリス様は」

 リリアが言う。

「いるだけで、少し空気が明るくなりますよね」

「はい」

 メリーは頷く。


「お姉様は、たまにとても面倒ですが」


「一緒にいると、少し楽しいです」

 リリアは小さく笑った。

「分かります」

「私も、そう思います」

 メリーは書類へ視線を戻す。

 けれど、その手はいつもより少し遅い。

 正確さは変わらない。

 ただ、静けさだけが少し増えていた。


 ■第七騎士団庁舎・廊下


 イリスの部屋の前は静かだった。

 扉は閉じている。

 片付けられてはいない。

 花瓶も、椅子も、小さな机も。

 戻ってくることを前提に、そのまま残されている。


 リリアは扉の前で立ち止まった。

「……戻ってきますよね」

 小さな声だった。

 隣にいたエリシアが答える。

「イリス殿下は、戻るつもりで出られたはずです」

 静かな声。


 リリアは少し安心したように頷く。

「はい」

「イリス様は、そういう方です」


 その横で、メリーは何も言わなかった。

 ただ、ほんの少しだけ目を伏せる。

 理由を知っているから。

 戻るために、帝都へ向かったことを。

 客人ではなくなるために、あの人が動き始めたことを。

 言えない、まだ言えない。

 だからメリーは、閉じた扉を見つめるだけだった。


 ■第七騎士団 本庁・執務室


 夕方。

 仕事はまだ続いていた。

 いつも通り。

 レオンは資料から顔を上げ、ふと窓の外を見る。

 帝都の方角だった。


 クリスがそれに気づく。

「気になるなら、手紙でも書けばいいだろ」 


 レオンは少し考えた。

「……何を書けばいい」

 真顔だった。


 クリスは頭を抱える。

「そこからかよ」

「用件がない」

「用件なしで書けよ」

「難しいな」

「何がだよ」

 いつも通りの会話だった。


 けれど、その場に、楽しそうに笑う声はなかった。

 イリスなら、きっと面白がった。

 団長は手紙も合理的に書くのですか、と。

 そう言って笑ったかもしれない。

 レオンは、しばらく窓の外を見ていた。


「……戻る予定は、まだ分からないのか」

 小さな声だった。

 エリシアが静かに答える。

「帝都側の確認中です」

「そうか」

 それ以上は聞かなかった。


 メリーも何も言わない。

 リリアは、少しだけ胸が痛くなった。

 知っている。

 でも言えない。

 それがこんなに苦しいことだとは、思わなかった。


 ■第七騎士団 本庁・夜

 

 夜になっても、いくつかの灯りは消えなかった。

 書類は減らず。

 人は動き続ける。

 声もある。

 足音もある。

 第七騎士団は、今日も騒がしい。


 それでも、どこか静かだった。

 リリアは最後に、事務室の片隅を見た。

 そこには、いつもイリスが座っていた席がある。


 今は空いている。

 誰も座っていない。

 片付けられてもいない。

 ただ、空いている。


「……おかえりなさいって」

 リリアは小さく呟いた。

「ちゃんと言いたいです」


 誰に向けた言葉でもなかった。

 メリーが近くで、そっと頷く。

「はい」

「必ず」

 その言葉は、静かだった。

 約束のようでもあった。

 いつも通りだった。


 けれど、いつも通りの中に。

 ひとつだけ席が空いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ