戻る理由
――帝国暦三二一年・秋初め 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団庁舎・イリス私室――
静かな夜だった。
机の上に、一通の書状が置かれている。
まだ、封はされていない。
宛先は帝都。
書くべきことは、分かっている。
けれど、筆は止まったままだった。
イリスは、その紙を長い間見つめていた。
窓の外には、第七騎士団本庁の灯りが見える。
夜になっても、まだ消えない光。
そこにいる人達の姿が、目に浮かぶ。
レオンは、きっとまだ書類を見ている。
エリシアは、その横で静かに修正を入れている。
リリアは、お茶を運っているかもしれない。
メリーは、何も言わずに面倒な資料を片づけているだろう。
その光を見ているだけで。
胸の奥が、少し苦しくなった。
■イリス私室
「騎士団領で任官する……ですか」
小さく呟く。
昨日、メリーから告げられた提案だった。
客人ではなく、騎士団領に所属する者として、正式な職務を持つ。
命令系統に入り、責任を負い、役割を果たす。
ただ滞在するだけではない。
ただ眺めるだけでもない。
騎士団領の中で生きる。
それは、イリスにとって大きすぎる選択だった。
「……本当に、引き返せませんね」
苦笑する。
もし受ければ、もう、ただの客人ではいられない。
帝都へ帰れば済む皇女ではなくなる。
騎士団領の人間として見られる。
でも、きっとレオンはもう自分を、客人とは呼べなくなる。
そう思った瞬間、怖さと一緒に、小さな熱が胸に灯った。嬉しい、そう思ってしまった。
ただ、そのことが少しだけ怖かった。少しだけ。
問題は山ほどあった。
帝都。
皇族。
任官許可。
政治的な説明。
皇帝への報告。
皇太子への相談。
そして、騎士団領側の正式な受け入れ。
どれ一つ、軽くない。
東ロンバルディア帝国騎士団領は、帝国の中でも特殊な軍事領域だ。
そこに皇女が所属する。
しかもお客様ではなく、職務を持つ者として。
前例があるのかすら怪しい。
「……兄様、絶対に嫌な顔をしますね」
イリスは小さく笑った。
同母兄であるアシュレイの顔が浮かぶ。
驚きと沈黙、そしてため息。
それから、おそらくは理由を聞かせろ、と言うだろう。
帝都は、簡単には許さない。
皇帝も、貴族達も、官僚達も。
それでも、あの場所へ、本当に入れるかもしれない。
客人ではなく、仲間として。
その可能性を、もう手放せなくなっていた。
■イリス私室
扉が小さく鳴った。
「失礼します」
入ってきたのは、メリーだった。
いつものように静かで。
いつものように小柄で。
けれど、今夜は少しだけ表情が柔らかい。
「進みましたか?」
「全然です」
イリスは苦笑した。
「迷っています」
「当然です」
メリーは静かに頷く。
「これは、おそらくお姉様の人生を決める話ですので」
イリスは黙った。
人生を決める。
少し大げさな言い方にも聞こえる。
でも、間違っていない。
皇女としての立場。
帝都での居場所。
騎士団領での未来。
レオンとの距離。
リリアやエリシア、メリーとの関係。
そのすべてが、今の選択で変わる。
「……メリーは」
イリスは静かに聞いた。
「怖くなかったんですか?」
「レオンの近くへ来ること」
メリーは少しだけ考えた。
それから、ほんのわずかに笑う。
「怖かったですよ」
「今でも」
小さな声だった。
イリスは、少しだけ目を丸くする。
メリーは続けた。
「お兄様の近くにいると、色々なものが見えます」
「見えなくてもいいものも、見えます」
「仕事も増えます」
「責任も増えます」
「たまに、どうしてこうなったのかと思います」
「たまになんですね」
「かなり頻繁に」
イリスは思わず笑った。
メリーも、少しだけ目を伏せる。
「ですが」
「後悔はしていません」
その言葉は、静かだった。
けれど、迷いがなかった。
「お兄様の近くは、大変です」
「とても」
「ですが」
「居心地は、良いので」
それは、メリーの本音だった。
イリスには分かった。
取り繕った言葉ではない。
誰かに言わされた言葉でもない。
自分で選んで、その場所にいる人の言葉だった。
静かな時間が流れた。
イリスは、もう一度書状を見る。
まだ何も決まっていない。
帝都が許すかも分からない。
騎士団領が受け入れられるかも分からない。
レオンがどう思うかも分からない。
分からないことばかりだった。
それでも、ここで何もしなければ、客人のままだ。
いつか帝都へ戻り。
騎士団領は、思い出になる。
それだけは、もう、嫌だった。
「……一度」
イリスはゆっくりと言った。
「帝都へ戻ります」
メリーは静かに頷く。
「許可確認と、事情説明ですね」
「はい」
「全部、正式にしたいんです」
イリスは少しだけ笑う。
「逃げたくないので」
「お客様のままも」
「嫌なので」
その言葉に、メリーはほんの少しだけ表情を緩めた。
「では」
「秘密裏に準備を進めます」
「理由も伏せます」
「お願いします」
イリスは頷いた。
「レオンには?」
「まだ言えません」
メリーは即答した。
イリスは小さく笑う。
「ですよね」
「言えば彼は必ず止めます」
「でしょうね」
「お兄様は、そういう方です」
「困った方ですね」
「はい」
二人は少しだけ笑った。
けれど、その笑いはすぐに静かになる。
これは冗談だけでは済まない話だった。
まだ、決めきれてはいない。
だが、もう、見ているだけには戻れなかった。
■イリス私室書斎
イリスは筆を取った。
ゆっくりと、書状を書き始める。
帝都へ戻ること。
皇族として確認すべきことがあること。
詳細は、直接説明したいこと。
あまり多くは書けない。
けれど、嘘にはしない。
筆先が紙の上を滑る。
一文字ずつ。
自分の逃げ道を、少しずつ消していくようだった。
怖い、でも。
不思議と、手は止まらなかった。
書き終えた時、イリスはしばらくその書状を見ていた。
「……戻るために、戻るんですね」
小さく呟く。
帝都へ帰る。
けれど、それは終わりではない。
騎士団領へ戻るための帰還だった。
それが、少しおかしかった。
少しだけ、嬉しかった。
兄への手紙は即日帝都へと向かった。
■二日後
東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団庁舎・正門――
イリスは帝都へ旅立った。
従者。
護衛。
最低限の人数だけを連れて。
表向きの理由は、皇族としての定期帰還。
帝都への報告と挨拶。
そんな程度の、どこにでもある説明だった。
不自然ではない。
だからこそ、誰も深くは尋ねなかった。
レオンも、ただ短く言った。
「気をつけろ」
イリスは少しだけ笑った。
「はい」
その一言だけで、胸が痛んだ。
言いたいことはあった。
けれど、言えなかった。
まだ、この旅の本当の理由を知る者は少ない。
イリス。
メリー。
エリシア。
リリア。
その四人だけだった。
たぶん、シエラでさえ知らない。
馬車が動き出す。
窓の外、第七騎士団庁舎が少しずつ遠ざかっていく。イリスは、その建物を見えなくなるまで、ずっと見つめた。
帝都へ戻る。けれど、帰りたい場所はもう別にあった。
だからこれは、別れではない。
戻るための出発だった。




