離れたくないので
――帝国暦三二一年・秋初め
東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁――
珍しく、静かだった。
理由は、すぐに分かった。
リリアが、少し沈んでいた。
いつものような明るい挨拶も。
柔らかい笑顔も。
消えてはいない。
けれど、少しだけ弱い。
その原因は、レオンだった。
「……異動」
小さく呟く。
中央区画の巨大施設。
新しい役職。
総庁。
最近、そんな話ばかりだった。
レオンが今の場所から離れるかもしれない。
第七騎士団本庁から。
自分達のいる場所から。
それは、まだ確定した話ではない。
けれど、否定できるほど、軽い話でもなかった。
一瞬、リリアは隣を見る。
エリシアだった。
「……エリシアさん」
「なんでしょう?」
「もし」
少し迷う。
言葉にすると、本当になってしまいそうで怖かった。
けれど、聞かずにはいられなかった。
「お兄様が異動したら」
「私は、どうなるんでしょうか?」
エリシアの手が、わずかに止まる。
リリアは、真面目だった。
かなり。
「私も、一緒に異動できるんでしょうか……?」
小さな声だった。
エリシアは、すぐには答えなかった。
軽く言える話ではない。
リリアが何を不安に思っているのか、分かってしまったから。
だが、曖昧に慰めることもできなかった。
「難しいと思います」
リリアが止まる。
「リリアさんは、第七騎士団所属の書記官です」
「基本的には、第七勤務になります」
静かな説明だった。
かなり現実的だった。
「そう……ですか」
リリアの声が、少しだけ落ちる。
エリシアは続けた。
「おそらく」
「確実に同行できるのは、一人だけです」
リリアが顔を上げる。
「副官なので、エリシアさんですか?」
そして、少しだけ寂しそうに笑った。
「羨ましいです」
素直だった。
けれど、エリシアは静かに首を振った。
「いえ」
「私も望まれない限りは、第七騎士団副官です」
「基本的には、第七へ残ります」
リリアが止まる。
「……え?」
思っていた答えと違ったらしい。
「じゃあ、誰が……?」
エリシアは答えた。
「メリエラです」
リリアが完全に固まる。
「メリーさん?」
「はい」
「彼女は本来、総庁側の人間です」
「統括管理官補佐」
「直属上司はレオン団長です」
静かな説明だった。
「現在は、レオン団長が第七にいるので、ここへ来ていますが」
「レオン団長が異動すれば」
「おそらく、メリエラも異動します」
リリアは黙った。
そして。
「……いいですね」
思わず、漏れていた。
「お兄様と、一緒にいられて」
エリシアも、少しだけ黙った。
自分も、本当はそう思っている。
レオンが異動するなら。
隣に立つのは、自分でありたい。
そう思ってしまう自分がいる。
けれど、それを口にすることはできなかった。
自分は第七騎士団付き副官だ。
望まれない限り、動く理由はない。
その現実は、リリアだけではなく。
エリシアにも、少しだけ重かった。
■第七騎士団 本庁・事務室
その後。
リリアはメリーを見つけた。
書類を整理していた小柄な少女が、顔を上げる。
「リリアさん?」
「メリーさん」
「はい」
次の瞬間。
リリアは真剣な顔で言った。
「私も統括管理部に入れませんか?」
メリーが止まった。
「……はい?」
かなり予想外だった。
リリアは両手を胸の前で握る。
「お兄様と一緒に異動できるなら……」
「その……入りたいです」
本気だった、かなり。
メリーは珍しく困った。
本当に困った。
「え、えっと……」
「人事権は私には……」
「でも、メリーさんはお兄様と一緒に行けるんですよね?」
「可能性としては高いです」
「いいですね……」
リリアは、また小さく言った。
その声には、隠しきれない羨ましさがあった。
メリーは少しだけ目を伏せる。
自分は、レオンの直属補佐だから動ける。
だが、それはリリアにとって、簡単に得られる立場ではない。
「リリアさん」
メリーは静かに言う。
「統括管理官補佐は、通常の書記官とは職務が違います」
「かなり面倒です」
「難しいです」
「お兄様に振り回されます」
「それでもです」
即答だった。
メリーが少しだけ目を丸くする。
リリアは、自分でも驚いたように口元を押さえた。
でも、撤回はしなかった。
「お兄様がどこかへ行ってしまうなら」
「今のままでは、離れてしまいますから」
その言葉に、事務室の空気が少しだけ静かになった。
少し離れた場所。
ココが静かに止まっていた。
「……リリアさんも異動」
かなり嫌そうだった。
いや、ほぼ敵を見る目だった。
その横で、フィアナも止まる。
「補給対象が移動します……?」
言い方はおかしい。
だが、本人は深刻だった。
「リリアさんが異動するなら」
ココは静かに言う。
「今のうちに、お世話しておかないと」
フィアナも頷く。
「補給も必要です……」
「今のうちにしておかないと……」
かなり危なかった。
リリアが慌てる。
「あ、あの、まだ異動するとは決まっていませんから」
「決まってからでは遅いです」
ココは真顔だった。
「お世話は日々の積み重ねです」
「どういう意味ですか……?」
「補給も日々の積み重ねです……」
「フィアナさんまで……」
リリアは困っていた、かなり。
その横で、メリーは少しだけ考えている。
「……なるほど」
「メリーさん?」
「リリアさんの統括管理部入りは現実的ではありませんが」
「レオン様が移動する可能性を考えると、周辺人員の整理は必要ですね」
「今、それを考えますか?」
「必要です」
メリーは仕事の顔に戻っていた。
かなり早かった。
■第七騎士団 本庁・廊下
リリアは少しの間、廊下に立っていた。
窓の外には、中央区画の建設現場が見える。
まだ完成していない。
何のための建物かも、分からない。
けれど、あれが完成した時。
何かが変わるのだろう。
レオンがどこかへ行くかもしれない。
メリーは一緒に行けるかもしれない。
エリシアでさえ、望まれなければ残る。
そして自分は。
第七騎士団付きの書記官だ。
「……第七は好きです」
小さく呟く。
嘘ではなかった。
第七騎士団本庁。
リリアを受け入れてくれた場所。
親衛隊が見守ってくれる場所。
クリスが軽口を言う場所。
エリシアが厳しくも優しく見てくれる場所。
メリーがいて。
フィアナがいて。
ココがいて。
騒がしくて、少し変で。
でも、温かい場所。
好きだ。
とても。
けれど。
「……お兄様がいない第七は」
そこまで言って、リリアは口を閉じた。
言葉にするのが怖かった。
■第七騎士団 本庁・執務室
一方。
レオンは何も知らなかった。
かなり平和に、書類を見ていた。
平和と言っていいのかは分からない。
少なくとも本人は、嫌そうな顔をしている。
「……また増えている」
書類が、いつの間にか。
増えている。
エリシアが横から確認する。
「中央区画関連ですね」
「知らん」
「知らないでは済みません」
「済ませたい」
「却下します」
いつものやり取りだった。
そこへ、リリアが入ってくる。
「お兄様」
「なんだ」
レオンが顔を上げる。
いつも通り。
何も知らない顔だった。
リリアは少しだけ迷った。
聞きたいことはたくさんある。
どこかへ行くのか。
自分は置いていかれるのか。
一緒に行けるのか。
けれど、言えなかった。
「……お茶を、お持ちしました」
「助かる」
短い言葉。
それだけで、少しだけ胸が痛くなる。
リリアは机へ茶を置く。
いつも通りの距離。
いつも通りの声。
いつも通りの第七。
でも、いつまでいつも通りなのかは分からなかった。
■第七騎士団 本庁・事務室
その日の夕方。
ココはリリアの近くにいた。
かなり近くにフィアナもいた。
こちらも近い。
「リリアさん」
「はい?」
「本日のお世話量を増やします」
「お世話量?」
「移動する可能性があるためです」
「まだしませんよ?」
「可能性への備えです」
ココは真剣だった。
フィアナも静かに頷く。
「補給も増やします……」
「増やさなくて大丈夫です」
「今のうちです……」
「今のうちって何ですか……」
リリアは困っていた。
だが、少しだけ笑っていた。
寂しさは消えない。
不安も消えない。
それでも、誰かが、自分を離したくないと思ってくれている。
そのことは、少しだけ嬉しかった。
メリーは遠くからその様子を見ている。
そして、小さく呟いた。
「……リリアさんが統括管理部へ来ると」
「さらに混乱しますね」
かなり冷静だった。
エリシアが隣で頷く。
「間違いなく」
「ですが」
メリーは少しだけ視線を伏せる。
「気持ちは分かります」
エリシアも、何も言わなかった。
分かっていた。
離れたくない。
それは、リリアだけの気持ちではなかった。
ただ、それを一番素直に言えるのが、リリアで、エリシアは少し羨ましかった。
その日、リリアは統括管理部に入りたいと言い出した。
もちろん、それはすぐに無理だった。けれど、第七騎士団ではその後しばらく。リリアへのお世話と補給が、少しだけ増えた。




