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信用の重さ

――帝国暦三二一年・秋初め 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 本庁・中庭――


 風が、少し変わっていた。

 夏の熱は、まだ完全には消えていない。

 けれど。


 頬を撫でる空気には、もう秋の色が混じっている。

 中庭の木々が、静かに揺れていた。

 イリスは椅子に腰掛け、空を見上げる。

 帝都の庭園とは違う。

 整いすぎていない、少し雑で、少し騒がしくて、けれど、不思議と落ち着く場所だった。


 その向かいに、レオンが腰を下ろす。

 手には、数枚の資料。

 いつものように無表情で。

 いつものように、少し疲れている。

 だが、以前よりは、少しだけ顔色が良かった。


「珍しいですね」

 イリスは少し笑う。

「まだ明るいうちに来るなんて」

「……少し仕事が減った」

 低い声だった。


 それ自体は、良いことのはずだった。

 だが、レオンの顔はまったく明るくない。

「良かったじゃないですか」

「そうでもない」

「どうしてです?」

 レオンは空を見る。

 ほんの少しだけ、嫌そうな顔をした。


「また増えそうだ」

 イリスは目を瞬かせる。

「……また?」

「総長が秋で退く」

 静かな声だった。


 あまりにも普通に言われたので、一瞬、意味が遅れて届いた。

 総長が退く、ヴァルド・エイゼンが。

 東ロンバルディア帝国騎士団領の頂点が。


「次は、おそらくグラナートだ」

 イリスは少しだけ息を止める。

 グラナート・グランフェルト。

 第三騎士団団長。

 そして、エリシアの父。

 それは、ただの人事ではない。

 騎士団領そのものの空気が変わる話だった。


「それ」

 イリスは声を落とす。

「機密では?」

 一瞬、レオンは少し考えた。


「そうかもしれない」

「そうかもしれない、ではなく」

 イリスは思わず苦笑する。

「多分、かなりそうです」

「なら、扱いには気をつけろ」

「私がですか?」

「そうだ」

 当然のように言う。


 イリスは、そこで言葉を失った。

 自分は皇女だ、帝都側の人間だ。

 本来なら、騎士団領の大きな変化は帝都へ伝えるべき立場にある。

 兄へ。

 皇太子アシュレイへ。

 必要なら、皇帝へ。

 そういう場所に生まれた。

 そういう立場で、ここにいる。

 それなのに、レオンは、疑わなかった。

「……私に話して良かったんですか?」

 小さく聞く。

 レオンは資料へ目を落としたまま、普通に答えた。


「イリスを信用している」


 静かだった。

 何の飾りもない。

 疑いも、迷いもない。

「最低限の相手にしか話さないだろう」


 風の音が遠くなる。

 イリスは、胸の奥が少しだけ苦しくなった。

 嬉しい、そう思った。

 だが同時に困った。

 かなり。

 信用されるというのは、こんなにも重いのかと思った。

「……ずるいですね」

 小さく呟く。


「何がだ」

「そうやって、何でもない顔で信用するところです」

 レオンは少し考える。

「信用できない相手に話しても意味がない」

「そういう問題じゃないんですよ」

「違うのか」

「違います」

 イリスは笑った。

 少し困ったように。

 少しだけ、嬉しそうに。


「信用された側にも、覚悟が必要なんです」

 レオンは黙る。

 その言葉の意味を考えているようだった。

 けれど、答えは出なかったらしい。

「そうか」

 短く言った。


 イリスはそれを見て、また笑いそうになる。

 本当に、この人はずるい。


 ■第七騎士団 本庁・中庭

 レオンは資料をめくる。

「あと、新しい役職も増えそうだ」

「嫌そうですね」

「嫌だ」

 即答だった。

 イリスは思わず吹き出した。


「出世ですよ?」

「仕事が増える」

「前より余裕はあるのでしょう?」

「最近、少し帰れるようになった」

「良かったじゃないですか」

「だから警戒している」

 本気だった。

 イリスは肩を震わせる。


 この人は、仕事が減ると次の災厄を疑う。

 たぶん、それはかなり正しい。

 そして、可哀想だった。


「ちなみに、その新しい役職というのは?」

「知らない」

「知らないのに嫌なんですか?」

「新しい役職という時点で嫌だ」

「なるほど」

 妙に説得力があった。

 イリスは笑う。

 だが、その笑みはすぐに少しだけ薄くなる。


 総長交代。

 グラナート。

 新しい役職。

 中央区画の巨大な建物。

 騎士団領は、確かに変わり始めている。

 その中心に、レオンがいる。

 本人は嫌がっている、心底。

 けれど、この場所はもう彼抜きでは回らなくなり始めていた。

 それが分かる。

 分かってしまう。


 ■第七騎士団 本庁・中庭

「レオン」

「なんだ」

「もし」

 イリスは少しだけ迷う。

 そして、言葉を選んだ。


「帝都へ行く道があるとして」

「そちらの方が、今より楽になるとして」

「それでも、ここに残りますか?」

 レオンは少しだけ眉を寄せた。

「帝都へ?」

「仮の話です」


「帝都は面倒だ」

「即答ですね」

「貴族が多い」

「否定はできません」

「手続きも多い」

「それも否定できません」

「それに」


 レオンは中庭の向こうを見る。

 騎士達が行き交う。

 書類を抱えた書記官が歩く。

 遠くでリリアの声が聞こえた気がした。

「ここを放置すると、また壊れる」


 イリスは、少しだけ目を細める。

「責任感ですね」

「違う」

「違うんですか?」

「壊れると直すのが面倒だ」

 イリスは笑った。

 ひどい言い方だった。


 だがそれだけではない。

 レオンは、この場所を見捨てられない。

 本人がどれだけ嫌がっても。

 仕事が増えると文句を言っても。

 逃げたいと言っても、壊れそうなものを見れば、直してしまう。

 だから、皆が集まる。

 だから、信用される。

 だから、信用してしまう。


「……困った人ですね」

「俺がか?」

「はい」

「そうか」

 レオンはあまり気にしていないようだった。

 イリスはまた笑う。

 だが、その胸の奥には、まだ先ほどの言葉が残っていた。


 信用している。

 ただ、それだけ。

 けれど、その言葉は、軽くなかった。


 秋の風が、もう一度吹いた。

 イリスは空を見る。

 帝都へ伝えるべきか。

 黙っているべきか。

 皇女としての自分。

 この場所にいたい自分。

 その二つが、少しずつ重なり合って、分けられなくなっていく。


 レオンは、何も知らない。

 きっと、そこまでは考えていない。

 だからこそ、その信用は、重かった。

「レオン様」

「なんだ」

「私、最低限の相手でいられるようにしますね」

 レオンは少しだけ不思議そうに見る。

「今もそうだろう」

「そういうところです」

「何がだ」

「ずるいところです」

 イリスは笑った。


 今度は、少しだけ本当に。

 レオンは分かっていない顔をしていた。

 それでいいと思った。

 今は、まだこの場所にいる間だけは。

 帝都のことも。

 皇女としての重さも。

 少しだけ忘れていたかった。


 けれど、信用された言葉だけは。

 忘れられそうになかった。

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