第14話 帰れない場所
――帝国暦三二〇年・春初め 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団本庁――
昼を過ぎても、本庁の空気は張り詰めたままだった。
「団長、こちらを」
「……増えてる」
「増えています」
見慣れたやり取りだった。
机の上の書類は、もはや山ではない。
壁だ。
「第二の分は?」
「第二騎士団庁で処理しきれなかった分と、団長判断が必要なものがこちらに回っています」
「第十は?」
「同じく、第十騎士団側で一次処理は行っています。ですが、最終判断が必要なものはこれからです」
「で、第七の分は?」
「当然、こちらにあります」
「……終わらないな」
レオンはペンを置いた。
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ、何も見たくなくなる。
「……人、足りない」
思わず本音が漏れた。
「戦力になる者が限られています」
エリシアは淡々と答える。
「クリスは?」
「現場で有効です」
「だろうな」
書類は無理だ。
あいつは剣を持たせれば頼りになる。だが、机の前に座らせると、途端に戦力外になる。
「他は?」
ほんのわずかな間。
「現状では、不十分です」
「詰んでるな」
「否定はできません」
否定してほしかった。
レオンは天井を見る。
当然だが、現実は変わらない。
その時だった。
本庁の入口付近が、わずかにざわつく。
「……お兄様」
場違いなほど柔らかい声がした。
振り向くと、リリアが立っていた。
きちんと整えた服装。
乱れのない所作。
けれど、その表情には隠しきれない心配がある。
「……なんでここにいる」
「お迎えに参りました」
リリアはにこりと笑った。
周囲の騎士たちが、わずかに視線を向ける。
当然だ。
団長の妹が、本庁に現れたのだから。
「このままじゃ帰れないんだろ」
「はい」
あっさり認める。
その上で、リリアは一歩近づいた。
「ここ数日、お兄様が屋敷にお戻りになっていないと伺いましたので」
やわらかく言う。
責めるでもなく、ただ事実として。
「お食事も、あまりお取りになっていないと」
穏やかな声だった。
非難はない。
けれど、逃げ場もない。
「ですから、私がこちらに参りました」
(……本気だな)
レオンは思った。
リリアは、兄を心配しているだけだ。
そこに悪意はない。
むしろ善意しかない。
だから余計に、断りづらい。
エリシアが口を開く。
「団長」
「なんだ」
「効率が向上する可能性があります」
冷静な評価だった。
リリアは騎士団の書類仕事に慣れているわけではない。
だが、屋敷の管理に関わっている分、整理や補助はできる。
茶や食事の手配。
簡単な分類。
伝言の確認。
雑務を分けられるだけでも、負担は減る。
「ただし」
エリシアの声が、わずかに硬くなる。
「私的関係者の常駐は、組織内の均衡に影響を及ぼす可能性があります」
やわらかい。
だが、明確な牽制だった。
リリアは静かに微笑む。
「問題ありません」
そして、迷いなく言った。
「私は、お兄様の妹ですから」
その言葉に、本庁の空気が少し変わる。
この場は騎士団のものだ。家族という関係は、本来前に出すべきものではない。
だが、リリアにその意識は薄い。彼女にとっては、兄を支えることが自然なのだ。
(……面倒だな)
レオンは額を押さえる。
だが同時に、分かってもいた。
(……助かる)
それも現実だった。
「条件付きだ」
ようやく言う。
「補助だけ。判断には関わるな」
「はい」
「勝手に動くな」
「承知しております」
レオンは一瞬だけ、エリシアを見る。
(……どうする)
エリシアはわずかに視線を落とした。
「業務範囲を限定すれば、運用は可能です」
許可ではない。
だが、拒否でもない。
「じゃあ、それでいこう」
レオンが決める。
リリアは嬉しそうに微笑んだ。
「よろしくお願いいたします、お兄様」
「……ああ」
続いて、リリアはエリシアへ向き直る。
「よろしくお願いいたします、エリシアさん」
「こちらこそ、お願いいたします」
エリシアは静かに頷いた。
その表情は崩れていない。
いつも通りの副官の顔だった。
けれど、胸の奥だけが少しざわつく。
(……近い)
物理的にも。
関係としても。
リリアは、レオンの家族だ。家の中にも、職場にも、当然のように入ってこられる。
エリシアにはできないことを、リリアは迷いなくできる。
(これは)
ほんのわずかに。
(良くない)
初めて、明確にそう思った。
リリアが悪いわけではない。
レオンが悪いわけでもない。
ただ、距離が近すぎる。
それだけが、ひどく落ち着かなかった。
本庁の空気が変わる。
仕事は減らない。
書類も減らない。
第二騎士団も第十騎士団も、それぞれの庁で処理はしている。
それでも、処理しきれない分は回ってくる。団長判断が必要なものも回ってくる。
そして、第七騎士団本来の仕事も消えない。だが、人の動きだけは増えた。
リリアは茶を整え、簡単な分類を引き受ける。
騎士たちは戸惑いながらも、団長の妹という存在を無視できない。
エリシアはその流れを見ながら、必要な線引きを考え続ける。
そしてレオンは、壁のような書類を前に小さく息を吐いた。
(帰れないな)
屋敷にも。
ここからも。
どこにも、逃げ場がない。
それなのに周囲は、少しずつレオンのために整っていく。
その整い方が、何より厄介だった。




