近すぎる距離(改訂版)
――帝国暦三二〇年・春初め
ヴァイス邸 屋敷――
その日の夕刻。
「団長」
「なんだ」
「本日の処理は、あと少しです」
「終わらせるか」
「はい」
数刻後。
最後の書類に印を押す。
「……終わった」
「はい」
エリシアもペンを置く。
ほんのわずかに、肩の力が抜ける。
静寂。
久しぶりに、仕事のない時間。
「……なあ」
「なんでしょう」
「このまま戻るの、面倒だな」
素直な本音。
「送ります」
「いや」
少しだけの間。
「うちで飯、食っていくか」
(……なんで誘った)
言った本人が一瞬だけ考える。
エリシアは、ぴたりと止まる。
「……屋敷で、ですか」
「嫌ならいい」
(……行きたい)
「いえ、問題ありません」
言葉は整っている。
けれど、ほんのわずかに遅れた。
「そうか」
レオンは気にせず立ち上がる。
ヴァイス邸食堂。
落ち着いた灯り。
整えられた食卓。
使用人が一瞬だけ視線を上げる。
すぐに下げる。
理由は明確だった。
副官を私的に連れてくることは、ほとんどない。
「どうぞ」
レオンが席を示す。
向かいで距離はある。
だが――
(近い)
エリシアは思う。
ここは執務室ではない。
“彼の家”だ。
「……落ち着かないな」
「団長の屋敷です」
「だからだ」
料理が運ばれる。
温かい。
「……いただきます」
「いただきます」
声が揃う。
しばらく無言。
食器の音だけが静かに響く。
(何を話せばいい)
エリシアは迷う。
指示も、報告もない。
ただの食事。
(こういう時間を、知らない)
「どうだ」
レオンがぽつりと聞く。
「味は」
「問題ありません」
「そうじゃなくて」
少しだけ笑う。
「うまいかどうか」
一瞬の間。
「……美味しいです」
ほんの少しだけ、声が柔らかくなる。
「だろ」
それだけ。
(……これだけでいいの?)
特別な何かがあると思っていた。
けれど――
(これでいい)
この静けさ。
この距離。
「……レオン」
ふと、こぼれる。
レオンが顔を上げる。
「ん?」
自然な返事。
(……今、呼んだ)
「……いえ」
視線を逸らす。
頬が、ほんのわずかに熱い。
「なんだよ」
「何でもありません」
けれど、先ほどより柔らかい。
(……悪くない)
レオンは思う。
(こういう時間、増やしてもいいかもな)
その時、扉が静かに開く。
「……失礼いたします」
セレナが入ってくる。
その後ろに、リリア。
空気が変わる。
「まあ」
セレナが微笑む。
「御一緒でしたのね」
すべて理解した目。
リリアはその場で止まる。
視線が、二人へ向く。
(……そういうこと)
胸の奥が、わずかに揺れる。
「仕事の延長だ」
レオンが言う。
ほんの少しだけ早口。
セレナは頷く。
「勿論、ですが」
「こうしてお食事まで共にされるとなると」
やわらかく静かに。
「周囲の見方も、変わってまいりますわね」
落ちる言葉。
エリシアは背筋を伸ばす。
「軽率でした」
即座に言う。
レオンがわずかに眉を寄せる。
「そんなことないだろ」
「いえ」
首を振る。
「配慮が不足しておりました」
(……そう言うんですね)
リリアは思う。
正しい。
とても正しい。
だからこそ。
(……少しだけ)
(嫌、ですわね)
言葉にはしない。
「本日はこれで失礼いたします」
エリシアが立ち上がる。
「送る」
「不要です」
きっぱり。
一瞬、視線が重なる。
(……今は、この距離でいい)
その意思。
「……そうか」
扉が閉まる。
静寂のなか、食卓にはまだ温もりが残っている。
だが、さっきまでの空気はもう戻らない。




