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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: サザルト
第1章 騎士団長編

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第12話 近すぎる距離

 ――帝国暦三二〇年・春初め 東ロンバルディア帝国騎士団領 第七騎士団 執務室――


 その日の夕刻。


「団長」


「なんだ」


「本日の処理は、あと少しです」


「終わらせるか」


「はい」


 そこから数刻。


 最後の書類に印を押したところで、レオンはようやくペンを置いた。


「……終わった」


「はい。本日分は完了です」


 エリシアもペンを置く。ほんのわずかに、肩の力が抜けたように見えた。


 執務室に、久しぶりの静けさが落ちる。


 仕事のない時間。

 それだけで、少し不思議だった。


「……なあ」


「なんでしょう」


「このまま戻るの、面倒だな」


「送ります」


「いや」


 レオンは少しだけ考える。考えた、というより、思いついただけだった。


「うちで飯、食っていくか」


 言ってから、自分でも少し不思議に思った。


(……なんで誘ったんだ、俺)


 深い理由はない。

 ただ、仕事が終わった。


 夕食の時間だった。


 エリシアも疲れているように見えた。

 だから、そう言っただけだ。


 エリシアの手が、ぴたりと止まる。


「……屋敷で、ですか」


「嫌ならいい」


「いえ」


 返事まで、わずかに間があった。


「問題ありません」


 言葉は整っている。

 けれど、いつもより少しだけ遅い。


「そうか」


 レオンは特に気にせず立ち上がった。


 ■ヴァイス家屋敷


 ヴァイス家の食堂は、いつも通り整っていた。


 落ち着いた灯り。

 磨かれた食器。

 温かな料理の香り。


 使用人が一瞬だけエリシアへ視線を向け、すぐに下げる。


 理由は明らかだった。レオンが副官を私的に屋敷へ連れてくることなどは、ほとんどない。


「どうぞ」


 レオンが席を示す。


 向かいの席。

 距離はある。


 けれど、エリシアには近すぎた。


(ここは、執務室ではない)


 団長の机の前ではない。

 騎士団の食堂でもない。


 ここは、レオンハルト・ヴァイスの家だった。


「……落ち着かないな」


 レオンがぽつりと言う。


「団長の屋敷です」


「だからだ」


 エリシアは少しだけ目を伏せた。

 その答えは、妙に納得できた。


 料理が運ばれる。


「いただきます」


「いただきます」


 声が重なった。


 しばらく、食器の音だけが静かに響く。


 何を話せばいいのか、エリシアには分からなかった。報告もない。


 指示もない。

 確認事項もない。


 ただの食事。


 そういう時間を、エリシアはあまり知らない。


「どうだ」


 レオンが聞いた。


「味は」


「問題ありません」


「そうじゃなくて」


 レオンが少しだけ笑う。


「うまいかどうか」


 一瞬、エリシアは返答に詰まった。


 それから、静かに言う。


「……美味しいです」


 声が、少しだけ柔らかくなる。


「だろ」


 レオンは満足そうにうなずいた。

 それだけだった。


 特別な話があるわけではない。

 気の利いた言葉があるわけでもない。


 けれど、エリシアは不思議と嫌ではなかった。


(……これでいいのですね)


 ただ一緒に食事をする。

 同じ食卓に座る。


 それだけで、いつもの距離とは違って見える。


「……レオン」


 ふと、名前がこぼれた。


 レオンが顔を上げる。


「ん?」


 自然な返事だった。


 その自然さに、エリシアの方が遅れて動揺する。


「……いえ」


「なんだよ」


「何でもありません」


 視線を逸らす。


 頬が、ほんのわずかに熱い。


 レオンは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。


(……悪くないな)


 レオンは思う。


 仕事でもない。

 訓練でもない。

 ただ飯を食っているだけ。


 こういう時間が少しくらいあってもいいのかもしれない。


 そう思った時だった。


 扉が静かに開く。


「……失礼いたします」


 セレナが入ってきた。


 その後ろには、リリアもいる。


 食堂の空気が、わずかに変わった。


「まあ」


 セレナが柔らかく微笑む。


「御一緒でしたのね」


 穏やかな声だった。だが、その目はすべてを見ているようだった。


 リリアは、その場で足を止めた。


 視線が、レオンとエリシアの間を行き来する。


(……お兄様と、エリシア様が)


 別におかしなことではない。

 エリシアは副官だ。


 仕事で遅くなれば、食事を共にすることもあるのかもしれない。そう考えれば、何も不自然ではない。


 それなのに。


(……なぜでしょう)


 胸の奥が、少しだけ落ち着かない。


 リリアには、その理由が分からなかった。


「仕事の延長だ」


 レオンが言った。

 少しだけ早口だった。


 セレナは静かにうなずく。


「ええ。もちろんですわ」


 それから、エリシアへ視線を向ける。


「ですが、こうしてお屋敷でお食事まで共にされるとなると、周囲の見方も少し変わってまいります」


 責める声ではない。

 ただ、事実を穏やかに置く声だった。


 エリシアはすぐに背筋を伸ばした。


「軽率でした」


 即座に言う。


 レオンがわずかに眉を寄せる。


「そんなこともないだろ」


「いえ。配慮が不足しておりました」


 エリシアの声は、もう副官のものに戻っていた。正しく、乱れない声。


 リリアはそれを聞いて、さらに少しだけ落ち着かなくなる。


 エリシアは正しい。

 とても正しい。


 だからこそ、何か言うこともできない。


「本日はこれで失礼いたします」


 エリシアが立ち上がる。


「送る」


「不要です」


 きっぱりとした返事だった。


 一瞬、視線が重なる。

 エリシアの目は、静かだった。


 今は、この距離でよい。

 そう告げているように見えた。


「……そうか」


 レオンはそれ以上、引き止めなかった。


 扉が閉まる。


 静寂の中、食卓にはまだ温もりが残っていた。だが、さっきまでの空気はもう戻らない。


 レオンはしばらく扉を見ていた。


 何かを間違えたのかもしれない。

 けれど、何を間違えたのかは分からない。


 分からないまま、食堂の灯りだけが静かに揺れていた。


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