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## 夫の名前だけを、彼女は呟いた。心を抑えて、彼女は我慢をした。

 朝。

 わたしは洗面所の鏡を見ながら、笑顔の練習をする。

 もう少しで、澄耶やお母さんが起きて来る時間だ。2人が起きて来る前に、笑顔を作っておかないと。

 ——2人は、わたしが守らないといけないんだから。

 鏡の奥のわたしの目は、なぜかひどく暗かった。


「澄耶、おはよう」

「あ、おはよう姉ちゃん」

 寝ぼけまなこをこすりながら、少しぽや~っとした寝起きの表情で澄耶が挨拶を返す。

 ……。

「……んも~っ、可愛い~っ♡」

 がばっと彼を抱き締めると、澄耶はぶわっと顔を赤く染め上げた。

「っちょ、姉ちゃん離れてよ……っ! 俺もう小6だよ……っ⁉」

「駄目ー、離さないー」

 私がさらに強く抱き締めると、澄耶は黙り込んだ。

「……姉ちゃんのバカ……」

 ぼそっと呟いた彼に、わたしはにっといたずらっぽく笑う。

「そんな可愛いこと言っても離しませーん」

「……」

 観念したのか、突然澄耶が体の力を抜く。

 おっと、とわたしは彼の体を支えて、ふふっと微笑んだ。


「おはよう、お母さん」

「……有弘さん……?」

 わたしは、お母さんの質問にぎこちなく微笑む。

「違うよ。わたしだよ、春耶だよ」

「……ああ、春ちゃん」

 少し、お母さんの顔が翳ったような気がした。

 ……違う。

 “気”じゃない。

 本当に、そうなんだ。

 だって。あの日からお母さんが求めているのは、お父さんだけなのだから。

 わたしや、澄耶は……求められて、いないのだから。

 

 わたしの父は、超有名な大俳優・本多有弘(ほんだありひろ)だ。

 父は、幼い頃からあまり家にいなかった。

 実の娘であるわたしにも、実の息子である澄耶にも興味を示さず、冷たく接していた。

 お母さんはそんなお父さんに心酔していたけど、わたしたちのことも愛してくれていた。

 ……でも、多分お母さんは、わたしたちよりもお父さんの方を愛していたんだろう。

 わたしが10歳、澄耶が6歳の時にお父さんが事故で亡くなってから、お母さんは心を壊して、家事などはわたしがやることになった。

 お母さんは、いつも澄耶を有弘さんと呼ぶ。

 最初は、お母さんも可哀想だな、と思っていた。

 でも、今は違う。お母さんが可哀想だなんて、思ってない。

 お母さんは、絶対分かってる。澄耶は、お父さんじゃないってことを。


 でも。

 そんなことを思っていても、わたしはお母さんを切り捨てられない。

 家事、介護、バイト、学校。

 これらをうまくやってこれたのは、澄耶の存在が大きい。

 わたしのお手伝いを進んでやってくれて、思春期の年齢のはずなのに全くその気配を見せない。

 料理スキルは多分わたしと五分五分で、最近は料理は澄耶にほとんど任せている。

 全部大変だけど、わたしは澄耶がいるから頑張れるんだ。


「お母さん、口開けて」

 微かにお母さんが口を開けて、わたしがその口の中におかゆを流し込む。

「……ぁ……有弘、さん……」

「、お母さん。ここにはお父さんはいないよ」

「有弘、さぁん……」

 わたしの言葉も聞かず、お母さんは虚空に手を伸ばす。

 ……ああ、もう……っ。

 お母さんへのいら立ちが、止まらない。

「……お母さん。そこにはお父さんはいないよ。ほら、食べよう」

 でも。

 それを、お母さんに言うわけにはいかない。

 わたしが……家族を、壊すわけにはいかないんだ。

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