↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼怒  作者: 加藤岡拇指
5/6

5 小部屋

雨上がりの夜、暗い車内で倉持がアクセルを踏み込んだ。


車が着いたのは、北千住の賑やかさから遠く離れた、荒川沿いの寂れた工業地帯だった。

かつて個人経営の総合病院だったという建物は、経営破綻して数年放置された後、組織の手に渡ったらしい。くすんだ外壁のタイルのあちこちが剥げ落ち、看板の文字は削られて「……クリニック」の痕跡だけが白く浮き出ている。


倉持の後について裏口から中に入ると、閉ざされた空間に古い薬品と消毒液、それと湿ったコンクリートの匂いが滞留していた。病院としての機能はとっくに失われているはずなのに、壁の奧から鼻を突く独特の匂いは抜けきっていない。


キヌは鼻をかすかに蠢かせたが、表情は変えずに2階の診察室跡へと向かった。

元診察室の重いドアを開けると、そこは簡易的な応接室に仕立て直されていた。

スチール製の診察台が部屋の隅に追いやられ、中央には応接セットが置かれている。


パイプ椅子に深く腰掛け、両手を膝の上で組んでいる女性がいた。五十代半ばほど。ふんわりとしたウェーブのかかった髪に、落ち着いた色合いのブラウス。眼鏡の奥の大きな瞳を柔らかく細め、どこか少女のような、浮世離れした雰囲気を漂わせている。


その横の椅子に、倉持が座った。ダッシュボードの上と同じ、濃紺の缶ピースが丸テーブルの上に置かれている。


「キヌ、座りなさい」


女性が鈴を転がすような、穏やかな声で言った。

彼女は組織お抱えのカウンセラー、高梨だった。

キヌは指示通り、目の前のパイプ椅子に静かに腰を下ろした。


「初仕事、お疲れ様。体調はどう? 眠れているかしら」


高梨は両手を胸の前で重ね、親身な面持ちでキヌの顔を覗き込んだ。


「はい。眠れています」

「うなされたり、渡瀬さんの顔が夢に出てきたりは?」

「いいえ」


キヌの返答は平坦だった。高梨は満足そうに頷いたが、そのままじっとキヌの顔を見つめ続け、ふっと小さく息を吐いた。


「よかった。……でもね、キヌちゃん。人間って、自分が思っている以上に傷つきやすいものなのよ。最初は『平気』だと思っていても、あとから遅れてやってくるの。まるで、冷たい雨が服の奥までじわじわ染み込んでくるみたいにね」


高梨の視線が、部屋の天井の隅へと滑っていった。


「私が昔飼っていた猫もそうだったわ。外から帰ってきたときはピンとしていたのに、夜になると急に震え出して……

あら、何のお話だったかしら。

そうそう、心の中の『静かな部屋』のお話。人間には誰しも、誰にも触れられたくない小部屋があってね、そこに血が溜まっていくと、いつか溢れて鍵が壊れてしまうの。あなたは自分の小部屋の掃除、ちゃんとしている?」


心の中の、静かな小部屋。

キヌは高梨の言葉を頭の中で反芻した。


胸の奥を覗き込もうとしてみる。だが、そこにはアパートの6畳間のような空間も、鍵のかかった扉も存在しなかった。あるのはただ、平坦で、何もない白い滑走路のような広がりだけだった。


(小部屋……?)


自分にはそんな場所は最初から作られていないのだと、キヌは気づいた。

感情を仕舞い込む部屋もなければ、血が溜まるための床もない。

キヌは理解が追いつかないまま、首をほんの少し傾げ、口を半開きのままきょとんとして高梨を見つめた。


「あら、どうしたの?」


高梨が首をかしげ返そうとした瞬間、コン、と乾いた金属音が室内に響いた。


倉持が缶ピースの蓋をテーブルに叩きつけた音だった。


「高梨さん。そのへんにしといてくれ」


倉持はポケットからライターを取り出し、フィルターのない黄色いシガレットの先端に火をつけた。シュボッと小さな音がして、薬品臭い室内に一瞬でバニラの甘い香煙が混ざり始める。


高梨は

「あら」

と呟き、少し残念そうに眼鏡の位置を直した。


「まだ途中よ、倉持さん。彼女の自我の防衛機制について、もう少し確認しておきたかったのだけれど」

「問題ねえよ。こいつの頭の中には最初から部屋なんてねえ」


倉持は短く息を吐き出し、紫煙の向こうからキヌを睨むように見た。


「仕事だ」


倉持はテーブルの上に、一冊の薄い茶封筒を滑らせた。


キヌはきょとんとした表情を消し、手を伸ばして封筒から白黒の写真を取り出した。

写っているのは、五十代半ばの小太りの男。眼鏡をかけ、高級そうなスーツを着て笑顔を浮かべている。


「名前は神谷(カミヤ)。民政党の県議だ」


倉持がシガレットを指に挟み、灰を灰皿へトントンと落としながら説明を始める。


「表では福祉事業の顔をしてるが、裏で組織のシノギに割り込んで横取りしやがった。上の判断で消すことになった」

「場所は」


キヌが問うと、倉持はタバコをくわえ直した。


「今週末、千住大橋近くのアパートで愛人と会う。ボディーガードはつかねえ。渡瀬のときと同じだ。一人で入って、一人で終わらせろ」


高梨が

「まあ、政治家さんなのね」

と他人事のように呟き、お気に入りのハンカチで眼鏡のレンズを拭き始めた。


キヌは写真の中の男の顔を、じっと見つめた。

薬品の匂いと、甘いバニラの煙が鼻の奥で混ざり合っていく。


「わかりました」


キヌが短く答えると、倉持は缶ピースの煙を深く吸い込み、ゆっくりと天井に向けて吐き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。