5 小部屋
雨上がりの夜、暗い車内で倉持がアクセルを踏み込んだ。
車が着いたのは、北千住の賑やかさから遠く離れた、荒川沿いの寂れた工業地帯だった。
かつて個人経営の総合病院だったという建物は、経営破綻して数年放置された後、組織の手に渡ったらしい。くすんだ外壁のタイルのあちこちが剥げ落ち、看板の文字は削られて「……クリニック」の痕跡だけが白く浮き出ている。
倉持の後について裏口から中に入ると、閉ざされた空間に古い薬品と消毒液、それと湿ったコンクリートの匂いが滞留していた。病院としての機能はとっくに失われているはずなのに、壁の奧から鼻を突く独特の匂いは抜けきっていない。
キヌは鼻をかすかに蠢かせたが、表情は変えずに2階の診察室跡へと向かった。
元診察室の重いドアを開けると、そこは簡易的な応接室に仕立て直されていた。
スチール製の診察台が部屋の隅に追いやられ、中央には応接セットが置かれている。
パイプ椅子に深く腰掛け、両手を膝の上で組んでいる女性がいた。五十代半ばほど。ふんわりとしたウェーブのかかった髪に、落ち着いた色合いのブラウス。眼鏡の奥の大きな瞳を柔らかく細め、どこか少女のような、浮世離れした雰囲気を漂わせている。
その横の椅子に、倉持が座った。ダッシュボードの上と同じ、濃紺の缶ピースが丸テーブルの上に置かれている。
「キヌ、座りなさい」
女性が鈴を転がすような、穏やかな声で言った。
彼女は組織お抱えのカウンセラー、高梨だった。
キヌは指示通り、目の前のパイプ椅子に静かに腰を下ろした。
「初仕事、お疲れ様。体調はどう? 眠れているかしら」
高梨は両手を胸の前で重ね、親身な面持ちでキヌの顔を覗き込んだ。
「はい。眠れています」
「うなされたり、渡瀬さんの顔が夢に出てきたりは?」
「いいえ」
キヌの返答は平坦だった。高梨は満足そうに頷いたが、そのままじっとキヌの顔を見つめ続け、ふっと小さく息を吐いた。
「よかった。……でもね、キヌちゃん。人間って、自分が思っている以上に傷つきやすいものなのよ。最初は『平気』だと思っていても、あとから遅れてやってくるの。まるで、冷たい雨が服の奥までじわじわ染み込んでくるみたいにね」
高梨の視線が、部屋の天井の隅へと滑っていった。
「私が昔飼っていた猫もそうだったわ。外から帰ってきたときはピンとしていたのに、夜になると急に震え出して……
あら、何のお話だったかしら。
そうそう、心の中の『静かな部屋』のお話。人間には誰しも、誰にも触れられたくない小部屋があってね、そこに血が溜まっていくと、いつか溢れて鍵が壊れてしまうの。あなたは自分の小部屋の掃除、ちゃんとしている?」
心の中の、静かな小部屋。
キヌは高梨の言葉を頭の中で反芻した。
胸の奥を覗き込もうとしてみる。だが、そこにはアパートの6畳間のような空間も、鍵のかかった扉も存在しなかった。あるのはただ、平坦で、何もない白い滑走路のような広がりだけだった。
(小部屋……?)
自分にはそんな場所は最初から作られていないのだと、キヌは気づいた。
感情を仕舞い込む部屋もなければ、血が溜まるための床もない。
キヌは理解が追いつかないまま、首をほんの少し傾げ、口を半開きのままきょとんとして高梨を見つめた。
「あら、どうしたの?」
高梨が首をかしげ返そうとした瞬間、コン、と乾いた金属音が室内に響いた。
倉持が缶ピースの蓋をテーブルに叩きつけた音だった。
「高梨さん。そのへんにしといてくれ」
倉持はポケットからライターを取り出し、フィルターのない黄色いシガレットの先端に火をつけた。シュボッと小さな音がして、薬品臭い室内に一瞬でバニラの甘い香煙が混ざり始める。
高梨は
「あら」
と呟き、少し残念そうに眼鏡の位置を直した。
「まだ途中よ、倉持さん。彼女の自我の防衛機制について、もう少し確認しておきたかったのだけれど」
「問題ねえよ。こいつの頭の中には最初から部屋なんてねえ」
倉持は短く息を吐き出し、紫煙の向こうからキヌを睨むように見た。
「仕事だ」
倉持はテーブルの上に、一冊の薄い茶封筒を滑らせた。
キヌはきょとんとした表情を消し、手を伸ばして封筒から白黒の写真を取り出した。
写っているのは、五十代半ばの小太りの男。眼鏡をかけ、高級そうなスーツを着て笑顔を浮かべている。
「名前は神谷。民政党の県議だ」
倉持がシガレットを指に挟み、灰を灰皿へトントンと落としながら説明を始める。
「表では福祉事業の顔をしてるが、裏で組織のシノギに割り込んで横取りしやがった。上の判断で消すことになった」
「場所は」
キヌが問うと、倉持はタバコをくわえ直した。
「今週末、千住大橋近くのアパートで愛人と会う。ボディーガードはつかねえ。渡瀬のときと同じだ。一人で入って、一人で終わらせろ」
高梨が
「まあ、政治家さんなのね」
と他人事のように呟き、お気に入りのハンカチで眼鏡のレンズを拭き始めた。
キヌは写真の中の男の顔を、じっと見つめた。
薬品の匂いと、甘いバニラの煙が鼻の奥で混ざり合っていく。
「わかりました」
キヌが短く答えると、倉持は缶ピースの煙を深く吸い込み、ゆっくりと天井に向けて吐き出した。




