6 準備
北千住のアパートの部屋は、夜の静けさに包まれていた。
キヌはグレーの塩ビフロアの上に、一枚の清潔なタオルを広げた。
その上に、組織から支給された道具を順序よく並べていく。
短刀が一本。柄には黒い布が固く巻きつけられている。
予備の細い鋼鉄の糸。
薄手の透明なゴム手袋が二双。
そして、顔を覆うための黒いネックウォーマーと、濃いグレーのニット帽。
キヌは畳んだタオルの脇に膝をつき、短刀を取り上げた。
鞘から静かに引き抜くと、鈍い光を放つ刃身が覗く。指先で刃の背をなぞり、刃こぼれや油の浮きがないかを確かめる。
『刃は道具だ。自分の体の一部だと思おうとするな』
準備の際、訓練所で倉持が言っていた言葉が、頭の中で再生される。
『道具に感情を持たせるな。短刀はただの鉄だ。お前はそれを指定された角度で肉に刺し込み、引き抜くためのテコに過ぎない。角度が一度ずれれば肋骨に当たる。力加減を間違えれば刃が引っかかって抜けなくなる。余計なことを考える暇があったら、角度だけを覚えろ』
キヌは短刀を鞘に戻し、静かな音を立てて収めた。
次にゴム手袋を手に取る。手首から空気を抜きながら、指先まで隙間なく密着させる。爪の間に血が入らないようにするためであり、現場に痕跡を残さないためでもある。
『髪の毛一本、皮膚の一片でも落とすな。仕事の完璧さは、殺した瞬間じゃなく、去った後の現場の綺麗さで決まる』
倉持の声はいつも低く、缶ピースのバニラ臭を帯びていた。教官らしい情熱など一切なく、ただ作業手順のチェックリストを読み上げるような冷たさだった。だからこそ、キヌの頭には素直に染み込んでいた。
買ったばかりの深緑のトレーナーを脱ぎ、黒い長袖のインナーシャツに着替える。
その上から、内側に短刀を固定できる特殊なホルダーがついた黒のアノラックパーカーを羽織った。ジッパーを一番上まで引き上げると、あごの下までぴったりと覆われる。
鏡はない。必要がなかった。
キヌは自分の姿を確認する代わりに、全身の関節をゆっくりと動かした。肩、肘、手首、膝、足首。服の擦れる音、生地の突っ張りがないか。
ダボついた服は足音や気配を殺すのに邪魔になり、細すぎる服は動脈を切ったときの血を吸って重くなる。
今着ている服のフィット感は、完璧だった。
テーブルの上に置かれた茶封筒から、神谷の写真を取り出す。
眼鏡をかけた小太りの男の顔を、もう一度だけ網膜に焼き付けるようにじっと見つめる。
そして写真を四つ折りにし、ポケットの奥へ押し込んだ。現場で確認したあと、始末するためだ。
時計を見る。午後十一時十五分。
千住大橋近くの愛人のアパートへ神谷が入る予定の時間は、深夜十二時。
キヌは部屋の電気を消した。
暗闇の中で一瞬だけ静止し、呼吸を整える。胸の鼓動は早まることも、遅くなることもなく、一定のリズムを刻んでいる。
道具をバッグに収め、足音を立てずに玄関へ向かう。
ドアを開けると、荒川の方角から吹きつける夜の冷たい風が、キヌの頬を撫でた。
言葉もなく、キヌは夜の闇の中へと踏み出した。




