4 晩御飯
キヌの部屋の冷蔵庫には、水と、組織から支給されているビタミン剤のボトル、それから途中のコンビニで無造作に買い込んだチョコバーやグミの袋がいくつか転がっているだけだった。自炊という概念を、キヌは持ち合わせていない。
日が落ち、学園通り旭町商店街の街灯がぽつぽつと灯り始める頃、キヌは部屋を出た。
買ったばかりの深緑のトレーナーは、すっかり肌に馴染んでいる。
目的の店は、商店街の主通りから折れ、古い民家が連なる路地の角にあった。
縄のれんがかかった小さな居酒屋兼定食屋『みよし』。
表のプラスチック看板は蛍光灯が切れて久しく、擦り切れた暖簾に染め抜かれた文字だけがかすかに読み取れる。
倉持から「飯はあそこに行け」と携帯に短くアドレスだけが送られてきて以来、キヌは何度もこの暖簾をくぐっていた。
ガラガラ、と引き戸を開けると、使い古された醤油と出汁、それと古い木造特有の匂いが鼻をついた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、低い声がした。
使い古された白い調理服を着た店主——常連たちから「マスター」と呼ばれる老人が、出刃包丁の手を止めずにちらりとキヌを見た。
その妻で、小柄な「ママ」が、慣れた手つきで冷やしトマトの皿をカウンターへ運んでいるところだった。
「お一人? カウンターどうぞ」
ママが穏やかな声で言い、お茶とおしぼりを置く。
もう何度も通っているはずなのに、ママもマスターも、キヌを見る目はいつも「ふらりと入ってきた一回限りの一瞬の客」に対するそれだった。常連らしい親しげな会釈もなければ、顔を覚えているような素振りもない。キヌの存在感が薄いせいなのか、あるいは意図的な客あしらいなのか、キヌには分からなかったし、尋ねようとも思わなかった。
キヌは端の席に腰を下ろし、壁に貼られた手書きの品書きを見上げた。
「豚の生姜焼き定食。ご飯、大盛りで」
キヌが平坦な声で注文すると、ママは初めて見る客に対するように、少し驚いた顔をして微笑んだ。
「はいよ、生姜焼き大盛りね。あとは?」
「……アジフライ。煮込み。ポテトサラダ。あと、だし巻き玉子と、ハムカツ」
ママの手がピタリと止まり、マスターがちらりとキヌの線の細い身体に視線を送った。キヌの体重は四十キロ台半ばしかない。
「……お姉ちゃん、全部一気に出して大丈夫かい?」
「はい」
「あいよ。残しちゃダメだよ」
マスターが再び包丁を動かし始めた。トントントン、とリズム良くまな板を叩く音が狭い店内に響く。
二人の動きには、無駄がない。包丁の角度も、客の視線を外す間合いも、長年身につけた「何か」を感じさせた。マスターの右耳の後ろにある古い刃物の傷跡も、キヌにとってはただの風景の一部だった。
奥のテーブル席では、現場帰りらしい作業着の男たちが二人、大衆酒場の酎ハイを傾けながらテレビのニュースに文句を言っていた。
「おいマスター、また中日のピッチャー打たれたぞ」
「最初から期待してねえよ」
マスターは手元を動かしたまま、短く答える。
「ママさん、ハイボールおかわり! あと枝豆ね」
「はいはい、ちょっと待ってね」
店内を流れる、どこにでもある雑多な時間。
キヌはその会話の輪に加わることもなく、ただ出されたお茶を両手で包み込み、静かに湯気を眺めていた。
「はい、お待たせ。生姜焼き定食ね」
どんぶりに山盛られた白飯と、濃いタレの匂いをさせる生姜焼き、具だくさんの豚汁が運ばれてきた。続いて、揚げる音を立てていたハムカツとアジフライ、小鉢に入ったポテトサラダ、湯気を立てる煮込み、大きなだし巻き玉子が次々とカウンターを埋め尽くす。
机の上が一瞬で宴会のような惨状になった。
キヌは「いただきます」と小さく呟き、割り箸を割った。
そこからは、ひたすら食べる作業だった。
茶碗を持ち上げ、山盛りのご飯を口に運ぶ。生姜焼きの濃い肉汁が染みた千切りキャベツを押し込み、間髪入れずにアジフライをかじる。サクッ、と心地よい音が鳴り、熱い白い身が口の中でほぐれる。
一見すると大食いタレントのようだが、キヌの食べ方には魅せる要素も、味わう幸福感の過剰な演出もない。
精密機械が燃料を補給するように、一定の速度で、迷いなく食べ物を口へ流し込んでいく。
「いやあ、気持ちいい食べっぷりだねえ」
隣の席に座っていた、会社帰りらしいスーツ姿の常連の客が、瓶ビールをコップに注ぎながら感心したように声をかけてきた。
「お姉ちゃん、細いのにどこに入ってくのそれ?」
キヌは口の中のハムカツを飲み込み、ゆっくりと男を見た。
「……胃です」
「ハハッ、そりゃそうだ! ママさん、このお姉ちゃんに烏龍茶あげて。俺のおごりで」
「はいはい、お兄さん太っ腹ね」
ママがグラスに入った烏龍茶を置く。
キヌは「ありがとうございます」とだけ言い、頭を少し下げて、すぐに目の前の煮込みに視線を戻した。七味唐辛子をふりかけ、大根とモツをレンゲですくって口に運ぶ。
男はそれ以上深く踏み込んでこなかった。この店に集まる人間は皆、他人の素性に深入りしない間合いを知っている。男はテレビの野球中継に視線の角度を戻し、独り言のように愚痴をこぼし始めた。
キヌは常連の男の発する雑音と、テレビの音、厨房の油が跳ねる音を背景に聞きながら、黙々と箸を動かし続けた。
だし巻き玉子の甘い出汁。
ポテトサラダの粗つぶしの芋の食感。
豚汁の熱い汁。
胃のあたりがずっしりと重くなり、体温が上がっていくのがわかる。
殺しの訓練を受けていた頃、食事はただの「維持管理」だった。だが、この店で食べる大量の飯は、少しだけ身体の奥を重たく、静かにしてくれた。
十五分後。
カウンターの上には、一切の残飯もなく、きれいに空になった皿とどんぶりが整然と並んでいた。
キヌは紙ナプキンで口元を拭い、息をひとつ吐いた。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様。たくさん食べてくれてありがとうね」
ママが感心したように、初めての客を見送る笑顔で空の皿を下げていく。
計算をしてもらうと、二千四百円だった。キヌは千円札を三枚出し、お釣りを受け取った。
「また寄ってくださいね」
マスターが背中越しに、よそ行きのアタッチメントのような声をかけてくる。常連と軽口を叩いていたときとは違う、距離のある丁寧な声だった。
「はい」
キヌは引き戸を開け、冷たい夜の空気が流れる路地へと出た。
学園通りの方から、遠く電車の踏切の音が聞こえる。
腹の底にある確かな重みを感じながら、キヌは静かな足取りで、荒川の土手近くにある自分の部屋へと歩き出した。




