↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼怒  作者: 加藤岡拇指
4/6

4 晩御飯

キヌの部屋の冷蔵庫には、水と、組織から支給されているビタミン剤のボトル、それから途中のコンビニで無造作に買い込んだチョコバーやグミの袋がいくつか転がっているだけだった。自炊という概念を、キヌは持ち合わせていない。


日が落ち、学園通り旭町商店街の街灯がぽつぽつと灯り始める頃、キヌは部屋を出た。

買ったばかりの深緑のトレーナーは、すっかり肌に馴染んでいる。


目的の店は、商店街の主通りから折れ、古い民家が連なる路地の角にあった。

縄のれんがかかった小さな居酒屋兼定食屋『みよし』。

表のプラスチック看板は蛍光灯が切れて久しく、擦り切れた暖簾に染め抜かれた文字だけがかすかに読み取れる。


倉持から「飯はあそこに行け」と携帯に短くアドレスだけが送られてきて以来、キヌは何度もこの暖簾をくぐっていた。


ガラガラ、と引き戸を開けると、使い古された醤油と出汁、それと古い木造特有の匂いが鼻をついた。


「いらっしゃい」


カウンターの奥から、低い声がした。

使い古された白い調理服を着た店主——常連たちから「マスター」と呼ばれる老人が、出刃包丁の手を止めずにちらりとキヌを見た。


その妻で、小柄な「ママ」が、慣れた手つきで冷やしトマトの皿をカウンターへ運んでいるところだった。


「お一人? カウンターどうぞ」


ママが穏やかな声で言い、お茶とおしぼりを置く。


もう何度も通っているはずなのに、ママもマスターも、キヌを見る目はいつも「ふらりと入ってきた一回限りの一瞬の客」に対するそれだった。常連らしい親しげな会釈もなければ、顔を覚えているような素振りもない。キヌの存在感が薄いせいなのか、あるいは意図的な客あしらいなのか、キヌには分からなかったし、尋ねようとも思わなかった。


キヌは端の席に腰を下ろし、壁に貼られた手書きの品書きを見上げた。


「豚の生姜焼き定食。ご飯、大盛りで」


キヌが平坦な声で注文すると、ママは初めて見る客に対するように、少し驚いた顔をして微笑んだ。


「はいよ、生姜焼き大盛りね。あとは?」

「……アジフライ。煮込み。ポテトサラダ。あと、だし巻き玉子と、ハムカツ」


ママの手がピタリと止まり、マスターがちらりとキヌの線の細い身体に視線を送った。キヌの体重は四十キロ台半ばしかない。


「……お姉ちゃん、全部一気に出して大丈夫かい?」

「はい」

「あいよ。残しちゃダメだよ」


マスターが再び包丁を動かし始めた。トントントン、とリズム良くまな板を叩く音が狭い店内に響く。


二人の動きには、無駄がない。包丁の角度も、客の視線を外す間合いも、長年身につけた「何か」を感じさせた。マスターの右耳の後ろにある古い刃物の傷跡も、キヌにとってはただの風景の一部だった。


奥のテーブル席では、現場帰りらしい作業着の男たちが二人、大衆酒場の酎ハイを傾けながらテレビのニュースに文句を言っていた。


「おいマスター、また中日のピッチャー打たれたぞ」

「最初から期待してねえよ」


マスターは手元を動かしたまま、短く答える。


「ママさん、ハイボールおかわり! あと枝豆ね」

「はいはい、ちょっと待ってね」


店内を流れる、どこにでもある雑多な時間。


キヌはその会話の輪に加わることもなく、ただ出されたお茶を両手で包み込み、静かに湯気を眺めていた。


「はい、お待たせ。生姜焼き定食ね」


どんぶりに山盛られた白飯と、濃いタレの匂いをさせる生姜焼き、具だくさんの豚汁が運ばれてきた。続いて、揚げる音を立てていたハムカツとアジフライ、小鉢に入ったポテトサラダ、湯気を立てる煮込み、大きなだし巻き玉子が次々とカウンターを埋め尽くす。

机の上が一瞬で宴会のような惨状になった。


キヌは「いただきます」と小さく呟き、割り箸を割った。


そこからは、ひたすら食べる作業だった。


茶碗を持ち上げ、山盛りのご飯を口に運ぶ。生姜焼きの濃い肉汁が染みた千切りキャベツを押し込み、間髪入れずにアジフライをかじる。サクッ、と心地よい音が鳴り、熱い白い身が口の中でほぐれる。


一見すると大食いタレントのようだが、キヌの食べ方には魅せる要素も、味わう幸福感の過剰な演出もない。

精密機械が燃料を補給するように、一定の速度で、迷いなく食べ物を口へ流し込んでいく。


「いやあ、気持ちいい食べっぷりだねえ」


隣の席に座っていた、会社帰りらしいスーツ姿の常連の客が、瓶ビールをコップに注ぎながら感心したように声をかけてきた。


「お姉ちゃん、細いのにどこに入ってくのそれ?」


キヌは口の中のハムカツを飲み込み、ゆっくりと男を見た。


「……胃です」


「ハハッ、そりゃそうだ! ママさん、このお姉ちゃんに烏龍茶あげて。俺のおごりで」

「はいはい、お兄さん太っ腹ね」


ママがグラスに入った烏龍茶を置く。


キヌは「ありがとうございます」とだけ言い、頭を少し下げて、すぐに目の前の煮込みに視線を戻した。七味唐辛子をふりかけ、大根とモツをレンゲですくって口に運ぶ。


男はそれ以上深く踏み込んでこなかった。この店に集まる人間は皆、他人の素性に深入りしない間合いを知っている。男はテレビの野球中継に視線の角度を戻し、独り言のように愚痴をこぼし始めた。


キヌは常連の男の発する雑音と、テレビの音、厨房の油が跳ねる音を背景に聞きながら、黙々と箸を動かし続けた。


だし巻き玉子の甘い出汁。


ポテトサラダの粗つぶしの芋の食感。


豚汁の熱い汁。


胃のあたりがずっしりと重くなり、体温が上がっていくのがわかる。


殺しの訓練を受けていた頃、食事はただの「維持管理」だった。だが、この店で食べる大量の飯は、少しだけ身体の奥を重たく、静かにしてくれた。


十五分後。


カウンターの上には、一切の残飯もなく、きれいに空になった皿とどんぶりが整然と並んでいた。

キヌは紙ナプキンで口元を拭い、息をひとつ吐いた。


「ごちそうさまでした」


「はい、お粗末様。たくさん食べてくれてありがとうね」


ママが感心したように、初めての客を見送る笑顔で空の皿を下げていく。

計算をしてもらうと、二千四百円だった。キヌは千円札を三枚出し、お釣りを受け取った。


「また寄ってくださいね」


マスターが背中越しに、よそ行きのアタッチメントのような声をかけてくる。常連と軽口を叩いていたときとは違う、距離のある丁寧な声だった。


「はい」


キヌは引き戸を開け、冷たい夜の空気が流れる路地へと出た。


学園通りの方から、遠く電車の踏切の音が聞こえる。

腹の底にある確かな重みを感じながら、キヌは静かな足取りで、荒川の土手近くにある自分の部屋へと歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。