↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼怒  作者: 加藤岡拇指
3/6

3 粒餡

日差しが少し傾きかけた商店街を、キヌは静かに歩いた。


シャッターの降りた店舗が並ぶ通りの中に、小さく蒸気を上げている和菓子屋があった。ガラス戸の向こうに、鉄板の前に立つ老人の背中が見える。


キヌは足をとめ、ガラス越しに鉄板の上で丸く焼き上がる大判焼きを見つめた。 引き戸を開けると、使い古された木製のレジスターと、甘いあんこの匂いが店内に満ちていた。


「大判焼き、ひとつ」

「粒餡でいいかい?」

「はい」


百五十円を差し出すと、店主は紙袋に包んだ大判焼きを手渡してくれた。薄い褐色の紙越しにも、ずっしりとした重みと強い熱が掌に伝わってくる。


キヌは商店街を抜け、線路をくぐり、荒川の土手へと階段を登った。


広く開けた河川敷には、冷たい秋の風が吹き抜けている。遠くで電車の走る重い鉄の音が響き、ゆっくりと夕暮れが広がっていた。


枯れ草の混じる斜面に直接腰を下ろす。買ったばかりの深緑のトレーナーの裾を軽く引き上げ、膝を抱えるように座った。


紙袋を開け、大判焼きを取り出す。 表面の生地は柔らかく、あたたかい。端を少し噛み切ると、中から熱いあんこが覗いた。


甘い。ただ甘かった。 その甘さを舌の上で確かめながら、キヌはぼんやりと川面を見つめた。


組織のこと。自分のこと。


幼い頃から与えられてきたのは、名前と、必要最小限の衣食住と、人を傷つけるための手順だけだった。「黒紡」と呼ばれるその場所には、命令以外の会話がほとんど存在しなかった。怒りも、暴力も、かえって淡々としていた。感情を挟む隙間がないからこそ、キヌはそこで育ち、ただ命じられるままに刀を握るようになった。


それが自分のすべてであり、他と比較する発想すらキヌにはない。


ふと、昨夜の車内の風景が浮かぶ。


暗闇の中で静かにくすぶっていた、倉持の缶ピース。 あの濃厚で、焦げたバニラの香煙。


倉持は組織の中でも異質だった。 命令を伝えるときも、死体を片付けるときも、いつもうっとうしそうにタバコを吸っていた。キヌに何かを教え込むわけでもなく、ただ

「無駄な真似はするな」

「自分の後始末は自分でしろ」

とだけ吐き捨てる。


あの男が何を考えているのか、キヌにはわからない。なぜ組織にいて、なぜあんなに重く甘い煙を吐き出し続けているのか。


キヌは大判焼きをもう一口噛んだ。 あんこの温かさと甘さが口の中に広がり、昨夜の男の胸に刃を突き立てたときの、あのヌラリとした手応えと血の熱を一瞬だけ呼び起こす。


熱いものは、すぐに冷める。 血の温度も、手に持ったこの大判焼きも、時間を置けば同じように温度を失う。


「……あまい」


小さく呟き、残りを口に放り込んだ。


指先に少しだけついたあんこを拭うこともせず、キヌは膝の上に両手を置き、静かに暮れていく荒川の景色を眺め続けた。 深緑のトレーナーの生地は、吹きつける風をしっかりと遮っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。