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鬼怒  作者: 加藤岡拇指
2/6

2 服を

キヌの部屋には、生活の匂いがほとんどなかった。


北千住の駅から少し離れた、荒川の土手近くにある築四十年のアパート。二階の角部屋。 外観はくすんだグレーの吹付け壁だが、室内は数年前に手が入っていて、真新しいグレーの塩ビフロアと白いクロスが張り巡らされていた。余計な装飾のない、無機質で平坦な空間。


六畳の洋室に、フローリングへ直に敷いた薄いシングルマットレスと、小さめのローテーブルがひとつ。オープンクローゼットのパイプハンガーには、黒いパーカと替えのズボンが数着だけかかっている。


窓際の白い壁に、直射日光が冷たく反射していた。 昨夜着ていた白いブラウスは、システムキッチン下のプラスチックバケツに浸け置かれていた。水は赤く濁り、血の塊が底に小さく沈んでいる。


キヌはバケツの前にしゃがみ込み、薄っぺらいゴム手袋をはめてブラウスを揉み洗った。 胸元のシミは、紫がかった黒ずみとなって生地に残り、何度固形石鹸を擦り付けても落ちなかった。


彼女は手を止め、水を流した。 湿った布からは、かすかに鉄の匂いと、昨夜の車内に満ちていたあのバニラの匂いが混ざって立ち上ってきた。


バケツをすすぎ、ブラウスを固く絞って小さなベランダの物干し竿に掛ける。 風が吹くと、濡れた布が湿った音を立てて揺れた。


「……落ちない」


キヌは黒いパーカを羽織り、ジッパーを首元まで引き上げた。

外はすっきりと晴れていたが、秋の終わりの風が冷たい。 アパートを出て、線路沿いから学園通り旭町商店街へ折れる。


昼下がりの商店街は静かだった。かつて店舗だったらしい建物の多くはシャッターを下ろしており、古びた看板の文字が日差しの中でかすかに色あせている。すれ違うのは、買い出し袋を提げた一人暮らし風のお年寄りや、ペダルを重そうに漕ぐ自転車が時折通り過ぎる程度だ。惣菜屋の揚げ物の匂いも、どこか湿って薄い。


キヌはその静かな舗装路の端を、擦り切れたスニーカーの音を殺しながら歩いた。


目的の場所は、商店街から一本脇に入った路地の奥にある小さな古着屋だった。 看板もなく、ガラス窓の奥にハンガーにかかった服が雑然と並んでいる。キヌは以前、倉持に車で送ってもらった際、この店の前を通ったのを覚えていた。


ドアを開けると、頭上の小さなベルがカラリと鳴った。

店内には、古着特有の防虫剤と乾燥した布の匂いが漂っている。昨夜の甘ったるいバニラとも、洗面所の鉄の匂いとも違う、乾いた古い匂いだった。


奥のレジカウンターで、薄手のニットを着た店員の女性が文庫本を読んでいた。キヌが入ってきても顔を上げず、ページをめくる音だけが響く。


キヌはラックに並んだ服を、端から一枚ずつ指先で手繰っていった。


選ぶ基準は決まっている。 生地が厚いこと。動きを妨げないこと。そして、血がついても目立たない色であること。


白や淡いベージュのハンガーは素通りする。 黒、濃いグレー、暗いネイビー。 キヌの指が、ある一着のトレーナーの上で止まった。くすんだ深緑色(セージグリーン)のスウェットシャツ。胸元に小さな刺繍があるだけの、無造作なデザインだった。


手に取り、持ち上げてみる。ずっしりと重い。


「それ、アメリカの古着だよ」


いつの間にか、店員が文庫本を閉じてカウンター越しにキヌを見ていた。


「かなり頑丈。生地が厚いから、寒くなっても平気だと思う」


キヌは深緑の生地を指先で強くつまんだ。爪を立ててみる。布地はびくともしない。


「……洗ったら、縮みますか」

「もう何度も洗われてるやつだから、これ以上は縮まないよ」


店員はそう言って、また文庫本に目を落とした。押し付けるでもなく、興味を失ったようにページを開く。


キヌはトレーナーを抱え、もう一着、黒の綿パンツをラックから引き抜いた。どちらも、誰かが使い古して手放した服だ。誰のどんな生活が染み付いているのか、キヌには興味がなかった。ただ、頑丈で、暗い色合いであればそれでよかった。


レジに二着を置く。


「三千八百円ね」


ポケットから千円札を四枚出し、トレーの上に並べる。 店員がお釣りを渡しながら、キヌの胸元にちらりと視線を向けた。キヌが羽織っている黒いパーカの首元に、微かに昨夜の匂いが残っているのかもしれなかった。


「袋、要る?」

「いいえ。そのまま着ていきます」

「了解」


キヌはパーカを脱ぎ、その場で買ったばかりの深緑のトレーナーを頭からかぶった。 新品の服のような匂いはしない。固く、乾いた綿の感触が、肌に直接伝わってくる。大きめのサイズだったため、袖が少し余り、手の甲を覆った。


脱いだパーカとパンツを丸めて抱え、店を出る。


ベルが再びカラリと鳴った。


日差しの薄い路地に出ると、新しい服の襟元に顔をうずめた。 そこには血の匂いも、バニラの匂いもなかった。ただの、名前も知らない誰かが着古した、冷たい布の匂いだけがあった。


キヌは両手をトレーナーのダボついたポケットに突っ込み、静かな商店街を抜けて荒川の土手を目指して歩き出した。

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