1 初仕事
雨の音が、古いコンクリートの壁を絶え間なく叩いている。
キヌは階段の踊り場で足を止め、自分の右手の甲をじっと見つめた。 水滴がひとつ、袖口から落ちて皮膚を伝う。彼女はそれを反対の手で拭うでもなく、ただ落ちきるまで見届けると、ポケットに手を入れた。
柄に黒い布が巻かれた短刀。指先でその布の目触りを確かめる。ざらついている。爪の先で少し強くなぞる。
「……雨、強いね」
出がけ、暗い車内で倉持がそう呟いたとき、車内には甘ったるい匂いが満ちていた。 倉持が愛飲しているのは、濃い紺色の缶に入ったピースだ。両切りで、火をつける前に缶の蓋を開けるだけで、濃厚なバニラの香りが車内に広がった。その甘い匂いに混じって、焦げた葉の苦い煙が漂っていた。 キヌは返事をしなかった。倉持も答えを求めてはいなかった。
3階の奥の部屋。合鍵を鍵穴に差し込むと、カチリと軽い金属音が鳴る。 ドアノブを回す手の力加減は、訓練通り。音を立てずに二センチだけ開け、隙間から中を覗く。
廊下の明かりの中に、背中を向けた男の影。ボディーガードだ。パイプ椅子に浅く腰掛け、スマホの画面を眺めている。画面の青白い光が、男の顎を定期的に照らしていた。
キヌは滑り込んだ。
足音はない。男が首を傾げ、気配に気づいて振り返りかけた時には、すでにキヌの左手が男の顎を押し上げていた。 右手の短刀が、喉の軟骨の隙間へ迷いなく滑り込む。
男の目が見開かれる。スマホが手から落ち、フローリングの床で乾いた音を立てた。 男の両腕が暴れ、キヌの肩を強く掴む。濡れた上着の生地が引きちぎれそうなほど強く引っ張られる。 キヌは眉ひとつ動かさず、ただ足の踏み込みを深くして、男の体重をそのまま床へ逃がした。
ドサリ、と倒れる音。 男の足が二度、三度と床を叩き、やがて動かなくなった。
キヌは自分の肩を見た。上着の布地が少し破れ、男の手形のような皺がついている。彼女はその皺を手で一回、二回と叩いて伸ばした。
奥の部屋から声がした。
「おい、どうした? 何の音だ?」
渡瀬だった。ドアが開き、身を乗り出した渡瀬と、廊下に立つキヌの目が合う。渡瀬の視線が、床の男と、キヌの右手にある黒い刃物へ落ちる。
「ひっ……」
渡瀬は後ずさりし、部屋の奥へ逃げようとした。脚が机の角に当たり、上のウイスキーグラスが床に落ちて割れる。
キヌは割れたガラスを踏まないよう、ゆっくりと歩幅を整えて部屋に入った。
「誰だ……誰にっ?! 金!? そこ、そこの金庫……!」
渡瀬は背中を壁に押しつけ、手当たり次第に脇の書架から本を引き抜いてキヌへ投げつけた。厚表紙の書類ファイルがキヌの胸に当たる。キヌは避けない。ただ歩みを止めない。
「頼む、待ってくれ! 」
渡瀬が膝から崩れ落ち、両手を合わせた。指が激しく震えている。
キヌは渡瀬の前で立ち止まった。短刀を持ち替え、刃先を少し下に向ける。 渡瀬の顔から汗と涙が垂れ、畳の上にシミを作っていくのを、静かに見下ろす。
「……寒くないんですか」
キヌが口を開いた。声は小さく、ひどく平坦だった。
「え……?」
「窓、開いてます」
渡瀬が呆然と横を見た瞬間、キヌは一歩踏み込み、刃を左胸の肋骨の間に突き立てた。
渡瀬の口から短い息が漏れる。キヌは短刀をねじり、引き抜いた。 大量の温かい液体が吹き出し、キヌの顔と、着ていた白いブラウスの首元を濡らした。
渡瀬の体が横倒しになり、何度か痙攣したあと、完全に静まり返る。
部屋の中には、窓から吹き込む雨の音と、壁の掛け時計が刻む規則的なチクタクという音だけが残った。
キヌはしばらくその場に立ち尽くしていた。 やがて、胸元に散った赤黒いシミに視線の角度を落とす。指先で触れると、まだ温かい。
彼女は洗面所へ向かった。 蛇口をひねり、勢いよく水を出す。石鹸を手に取り、何度も、何度も手を洗った。爪の間の赤みが落ちるまで、皮膚が赤くなるほど擦り合わせた。
鏡を見る。 水滴と血が混ざったものが頬を伝っている。タオルを探したが、かかっているタオルはどれも生乾きの匂いがした。 キヌはそのまま洗面所を出て、玄関へ向かった。
雑居ビルの外に出ると、冷たい雨が顔に当たり、頬の汚れを流した。
路上に停められた黒い軽自動車のドアを開ける。 閉ざされた車内には、ずっしりとしたバニラの香味が滞留していた。ダッシュボードの上には、濃紺の金属缶が置かれている。蓋は外され、中のアルミ箔からフィルターのない黄色いタバコが顔をのぞかせていた。
シートに腰を下ろすと、充満した甘い煙が鼻の奥をくすぐる。
倉持は指に挟んだ缶ピースの灰を、サイドブレーキ脇のポータブル灰皿にトントンと落とした。バックミラー越しにキヌを見る。雨粒と血の混ざった服を見ても、顔色ひとつ変えない。
「終わったか」
「はい」
キヌはシートベルトを引き出し、カチリと金属音を立てて留めた。
倉持がエンジンをかける。ワイパーが一定の静かなリズムでフロントガラスの雨を拭い始めた。
「服、洗っても落ちないぞ」
倉持が短くなったピースの吸い殻を灰皿に押し付け、揉み消した。立ち上る煙が途切れ、代わりに缶から漂うタバコ葉の甘い香りが再び前に出てくる。
キヌは濡れて体に張り付いたブラウスの裾を指先でつまみ、じっと見つめた。生臭い血の匂いと、車内に充満するバニラの香味が混ざり合って、舌の奥がわずかに痺れるような気がした。
「……倉持さんのタバコ、あまいですね」
「ピースだからな。甘くて重い」
倉持は缶から次のタバコを取り出そうとはせず、そのままギアを入れてアクセルを踏み込んだ。
「買い替えます、服」
「そうしろ」
車がゆっくりと動き出し、夜の雨の街へと消えていった。




