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 佐藤は史上稀に見る就職氷河期をなんとか乗り越えることができた。と言っても、最終的に内定をもらえたのは1社だけだったのだが。周りには就職浪人するような同級生もいたので、ストレートで内定が出たことだけでも上々なのではないか、と佐藤は思うようにしていた。


 かくして佐藤はその内定を出してくれた1社に藁にもすがる思いで、何の迷いもなく即決で入社することにした。入社したのは東港ハウジングという中小規模の不動産会社だ。


 東港ハウジングは、東京郊外を拠点として成長を続けている。設立10年で急成長を遂げ、現在ではそのエリアでは一定の知名度を誇っている。特に空き家再生や中古物件のリノベーションを得意として「手頃なプライスで新しいバリュー」というフレーズを掲げている。その急成長の源になっているのは社風にあった。「全力で挑戦すること」を美徳とする社風が根付いていて、社員一人一人が多岐にわたる業務と裁量を持って業務に取り組んでいる。佐藤は就活の際の会社説明会で、その社風と実際に説明会に参加している先輩社員の雰囲気に魅力を感じてエントリーをするに至った。(実際には手当たり次第にエントリーしていたので、その理由は後付けで言語化した感はあるのだが、そこに少なからず魅力を感じたのは嘘ではない)


 実際に入社してみると、確かに全力で挑戦する社風は定着しているのだが、それがかなりストイックな雰囲気を生み出していた。10年程度で急成長を遂げることができたのは、その売上・利益に対するストイックさによってもたらされたものだと佐藤は感じた。そのため、ほとんどの社員が早朝から夜遅くまで業務に追われていて、自分の目標数字を達成するためにあくせくしていた。そんな環境に耐えられなくなった社員も少なくない。佐藤が就活時にいた先輩社員は、佐藤が入社した時にはすでにいなくなっていた。




 そんな環境の中で佐藤はすでに2年の月日を過ごしていた。配属は入社当初から営業部だった。2年も経つとある程度一人で仕事をこなせるようになっていたのだが、その中でも佐藤が最も嫌な、胃が痛くなる業務が社内の定例会議だった。




 毎週週明けの月曜日は営業部の定例会議が開かれている。東港ハウジングの営業部の定例会議では、目標の売上に対する進捗状況の報告、確認と、目標に対して未達の見込みなのであれば、それをどう埋めていくのかを各々が報告していくスタイルだ。営業部には12人が在籍していて、1人ずつ順々に報告していく。とんとん拍子で報告が進めば、1人あたり5分、全体で60分程度で会議が終了できるはずなのだが、いつもその会議は結局2時間以上かかっている。午前9時から会議開始となるのだが、終わるのはお昼前、場合によっては昼の12時を回っていることも少なくない。そこまで時間が延びてしまう原因は、営業部部長の川島の鬼詰めにあった。一人一人の報告に対して「そのアクションで本当に目標は達成できるのか?」という詰め方はもちろんのこと、重箱の隅をほじくるように報告の仕方についての指摘がなされるのもしばしばである。周りのメンバーはそれを黙って聞くことしかできない雰囲気であるため、果たしてこのやり取りは部の会議で行う必要があるのだろうか、個々に会話してくれないか、と佐藤は何度も思ったことがある。




 ある日の定例会議の中で、佐藤の先輩社員である小林が早く会議を、川島の叱責を終息させようと、他のメンバーが詰められている状況に割って入ったことがあった。


 「部長、よろしいでしょうか?その件ですが、私が過去の案件と似ている箇所があるので、このような手法で取り組んでみるのはいかがでしょうか?」


 すると川島は新たな敵を見つけたように小林を血走った眼で睨みつけた。


 「おい、小林。いまお前と話しんじゃねぇんだよ。黙って聞いてろ」


 川島がそう言い放ち、会議室はとんでもない空気になってしまった。




 それ以来、誰も自分の番以外は発言をしないようになった。各自PCを持ち込んで会議に臨んでいるので、他のメンバーの番の時にはPCでバレないように静かに内職に勤しむようになった。もちろん、内職を堂々とやっていると、そこに川島の雷が落ちるので、それはそれは細心の注意を払う必要があるのだ。


 東港ハウジングの始業時間は午前9時なので通常であれば10分前くらいに出社すればよいのだが、月曜日はそうはいかない。月曜の朝は営業部のメンバーは今週こそは定例会議をなんとかやり過ごせるように準備をするため、8時半には全員が揃っていて、全員が負のオーラを発していることもあり、月曜の朝一の営業部の島はかなり異様な空気になっている。




 佐藤は入社2年の歴であるのだが、他のメンバーと同様に1人で客先を周り、他の先輩社員と大差のない目標が与えられている。スキルが伴っていないので、かなりハードな目標設定になっていると佐藤は感じていたが、それを川島に伝えることはできずにいた。いや、伝えることなんて考えたこともなかった。とくにかくその数字に向かって目の前の仕事をこなすしかないと思っていた。他の会社だと大学を卒業して新卒として入社すると新人研修があって、しばらくはOJTで先輩がつきながら1人前になるまでビジネスマンとしてのいろはを学んだりするらしいのだが、東港ハウジングにはそんな丁寧な新人研修制度は存在していなかった。佐藤が入社したのは、まだ東港ハウジングが新卒採用を始めたばかりで、佐藤が新卒二期生のため、そのような制度を出来上がっていなかったのだ。二期生と言っても同期はいない。新卒一期生の先輩もいたらしいのだが、入社早々に退職したという話を先輩社員から聞かされたことがある。きっとその先輩社員はこんなにも新卒入社の社員を受け入れる体制が整っていないことに呆れてしまい退職してしまったのだろう、と佐藤は考えていた。




 佐藤が入社した際の研修といえば、入社直後に外部のビジネスマナー研修を5日と、東港ハウジングについての説明やサービスの説明の座学で2日ほどの計7日ほどで完了となった。その後は先輩の背中を見て学べという方針でそのまま野に放たれた状況であった。しかし、周りの先輩は全員毎日忙しなく仕事を動いていて、誰1人として「佐藤くん、ようこそ。よければ私と一緒に営業に行ってみないかい」というような歓迎の言葉をかけてくれることはなかった。




 形式的に入社初日に歓迎会という形で飲み会が開かれたのだが、先輩のほとんどは出張などで不在で参加率が低く、部長を含めた4人と佐藤の5人の小規模な飲み会となった。その飲み会は佐藤にとってはなかなかの衝撃だった。


 まず川島がかなり酒に強いらしく、ガンガンに部下に酒を勧めてくる。もちろんこの日の主役は佐藤だったので、川島のその矛先は真っ向から佐藤であった。最終的にはテキーラをショットグラスで飲み合うにまで至った。それだけでも衝撃ではあるのだが、それ以上に川島から飲み会序盤に告げられた言葉が衝撃だった。


 「佐藤くん、役員面接でおれが面接官だったのは覚えてるよね?」


 「はい、もちろんです。正直かなり緊張していて全然上手く受け答えができていなかったので、完全に落ちたと思っていたことを覚えています」


 「そうなんだよね。実はおれは佐藤くんを落とした方がいい、って言ったんだよね」


 佐藤は耳を疑った。どうしたら良いか分からずに「え、そうなんですか?」と若干おどけて見せたのだが、顔はひきつっていただろう。川島はそのまま続けた。


 「だって、あの面接の感じじゃ絶対仕事できないでしょ」


 川島は、笑い話として披露しているような様子だった。


 「受け答えも全然できていないし、挙動不審だったし」


 そう言って、面接のときの佐藤の挙動不審具合を誇張してジェスチャーで再現した。佐藤以外の参加メンバーも苦笑といった様子でその話を聞いていた。


 「でもこうやって入社させていただくことができたのは何かあったのでしょうか?」


 佐藤は自分の気持ちを押し殺して川島に質問をした。


 「役員面接でもう1人おじいちゃんがいたでしょ?そのおじいちゃんがどうしてもこの子は最終面接に進ませたいと言って聞かなくてね。まあ、おれ的にはどうせ最終面接で落ちるだろうし、仮に採用になったとしてもおれの下には付かないと思ったからね。そしたら、そのおじいちゃん役員は辞めちゃったからさ。しょうがなくおれの部署に配属で受け入れているわけよ。受け入れてくれているおれに感謝しなきゃだね、佐藤くん」


 川島はそう言い終わると天井を見上げるほどの高笑いをして酒を一気に飲み干した。佐藤はそれを見て愛想笑いで応対することしかできなかった。もちろん周りの先輩の誰かが助けてくれるわけはなかった。




 その歓迎会は22時頃に終了し、帰宅に至った。終電までまだ時間があったことと週末というわけではなかったので、帰りの電車は満員というほどではなかった。佐藤は入社初日の緊張からの衝撃と大量のアルコールで何もかも最悪で、我慢できずに乗り換え駅のトイレに駆け込んだ。本当は乗り換え駅の2個手前の駅の時点でものすごい吐き気を催していたが、そこで途中下車する勇気が出なかった。なんとか耐え切った安心感も相まって、トイレの個室に入った瞬間に嘔吐した。個室の鍵を閉める余裕もないまま、大便器に顔を突っ込んでいた。何度も何度も吐いた。さっきまで食べていたものや飲まされたテキーラのアルコール臭が鼻に返ってきた。そのあとしばらく嗚咽と共に涙も止まらなかった。佐藤が悶えている間にこの駅の男子トイレには何人かの大人が入ってきた。個室の鍵は閉められていなかったので、その佐藤の姿は彼らの目にも止まっていたと思われるのだが、誰1人として佐藤に声をかけることはなかった。佐藤が逆の立場であっても声をかけようとは思わないだろうが。


 それが佐藤の上京後の最初の印象深い思い出となった。






 会議室はPCのタイピング音だけが響いていた。月曜の定例会議の開始まであと10分ほどあるのだが、営業部のメンバー全員がすでに席に着いている。この会議室は会社の全体会議も行えるほど広い会議室なのだが、営業部のメンバーの殺気で部屋は満ちているようであった。長机をコの字型に配置しそれを外側から囲むように全員が会議室の中央を見て着席している。部屋の中央にはプロジェクターが鎮座していて、すでに電源がオンになっている。プロジェクターが向いている白色のスクリーンにはただただ青い光が投影されている。1番の下っ端である佐藤が会議開始の30分前にはプロジェクター、机・椅子の整列を完了させている。会議開始前の談笑などはない。とくかくこの月曜の定例会議をいかに乗り越えられるかに全員が集中しているのだ。


 会議開始の9時を回ったところで、会議室の外からドッドッドッという低く重い足音が近づいてくるのがわかる。部長の川島は日本人の標準的な身長で、割と痩せ型寄り、中年にしては身体が締まっている部類に入る。巨漢というわけではないのだが、その足音は誰よりも大きく、姿を見なくても川島が外を通っているとか、近づいてきているな、というがわかるくらいだ。ちなみに割と痩せ型というのはスーツの上からもわかるのだが、親しい取引先との会食の二次会だか三次会でキャバクラに行った際に、嬢の前でテンションの上がりきった川島が着ていたワイシャツを脱ぎ、その上半身をあらわにしていたため、佐藤はそれを把握していた。さらにそのときにわかったことなのだが、川島は肌に直にワイシャツを着るタイプであることも同時に判明した。


 川島の足音が大きいのは、おそらくその歩き方と靴に起因している。ややガニ股目に足の裏全体で地面を踏みつけるように歩いている。さらにソールの重い革靴のため、さらに特徴的な重低音になっている。


 足音が殺気に満ちている会議室に近づいてきて、会議室の扉が勢いよく外側に開く。その扉を開いた反動を利用するように川島が会議室に入室してきた。そのまま誰に目をくれることもなく、そのまま用意されている椅子に一直線に向かっていく。会議室の席は基本的にフリーデスクでどこが誰の席というのは決まっていないのだが、川島の席だけ決まっている。コの字型に配置されているテーブルのちょうど中心がその席だ。そこに川島が着席する。


 「じゃあ、始めましょう」


 そう言って川島はノートPCを開く。川島がこの定例会のときに、朝イチの会議にもかかわらず「おはようございます」などの朝の挨拶をしているのを見たことはない。


 「営業部の数字の進捗から報告します」


 川島は自分のPCにプロジェクタを接続して、手元の数字を管理しているエクセルファイルを投影した。全員が投影されている壁に注目する。


 そこには月次の目標売上と売上実績の推移がグラフで表示されている。直近3ヶ月は目標に未達の状況が続いていて、今月も未達の見込みであることが示されている。


 「今月も未達の見込みになっているんだが、どうなってんだよ。今週も来週もおまえたちのスケジュール、スッカスカじゃないか。どういうつもりだよ。行動量が足りないんだよ。行動量が」


 川島が机を叩きながら声を大きくする。


 「毎週言ってるよな。やる気が感じられないんだよ。やる気が」


 全員を川島が睨みつける。まるで汚いものを見るような顔で全員を見回す。


 「まあ、いい。とりあえずお前らの戯言を聞いてやるよ。まずは佐藤から」


 一番端の席に座っていた佐藤が指名された。そして同時にプロジェクターには佐藤個人の直近の成績と見通しが投影される。


 「今月の目標が540万円に対して、現在350万円の見通しで190万円不足している状況です」まずは数字のみを報告する。「不足分については、先月商談を実施した**様の温度感が高い反応でしたので、そのクロージングを行ってまいります。**様が受注できれば不足分は埋められる想定となっております。以上です」


 佐藤の報告が終了した。川島は佐藤が報告している間、何も言わずに頷きもせずに投影されている壁を見つめたままだった。佐藤の報告が終わった後も、川島はぴくりともしなかった。会議室はしばらく静寂に包まれた。佐藤にとっては恐怖の時間だ。そしてしばらくして川島が口を開いた。


 「それだけか?」


 低い声で佐藤の胸を抉る周波数だった。


 「はい。私の報告は以上になります」


 佐藤は震えそうになる声を必死に抑えながら答えた。


 「そんなんだから、お前はいつまでも未達なんだよ!」


 川島の言葉がクレッシェンドすぎて、佐藤は半分くらいしか聞き取れなかったのだが、辛うじて「未達」というワードが耳に入ったので、この報告の内容の拙さを指摘されていることを把握することは難しくなかった。


 「黙ってないでなんとか言ったらどうだ!」


 「…すみません」


 「謝るのは小学生でもできるぞ。そんな報告で目標が達成できるのか。おい」


 佐藤は萎縮してしまい言葉が返せない。


 「…できないかもしれないです」


 「かも、じゃなくてできないんだよ、そんなんじゃ!」


 川島は目の前の長机を両手で突き飛ばした。机はキャスターが付いていたこともあって、勢いよく会議室の中央の空間を進んで行き、プロジェクターが乗っている小さい台にぶつかった。ぶつかった際に慣性の働きにより川島のPCは机から滑り落ちた。


 「さっきも言ったよな。行動量が足りないって。聞いてなかったのか?おい」


 川島は佐藤を睨みつけながら、落ちたPCに目もくれずに、じりっじりっと佐藤に近づいていく。


 「お前はいつになったら売上に貢献してくれるんだよ。お前が自分の給料よりも利益を稼いだ月が今まであったか?」


 川島は机を挟んで佐藤の目の前まで迫った。川島の唾が直に佐藤の顔に飛びそうな距離まで迫った。


 「このままじゃ赤字社員だよな。赤字社員はどうなるかわかるか?クビだよ、クビ。日本だとクビはできないとか言われてるけどな、このままの成績じゃクビだよ。まじで」


 それまで佐藤は下を向いて川島の怒号を受けていたが、さすがに「赤字社員」と言われ少しばかり反抗する目つきを川島に向ける。


 「お前営業向いてないから、とっとと田舎に帰った方がいいぞ。田舎で親のスネでも齧ってたほうがマシだろ。まあ、お前が能無しなところを見ていると、きっとお前の両親も能無しなんだろうがな」


 そう言って川島は大笑いしながら、能無しを強調するように佐藤の頭をもみくちゃにし続けた。


 「…」佐藤は声にならない声で何かをボソボソと言った。


 「あ?なにか言い分があるんなら言ってみろよ」


 川島は佐藤の髪を掴んだまま、下を向いている佐藤の顔を覗き込む。


 「親とか田舎のことは馬鹿にすんなって言ってんだよ!」


 佐藤はその瞬間に右ストレートで川島の左頬を思いっきり殴った。殴られることを想定していなかった川島は重心が定まっていなかったため、そのまま後ろによろめいた。川島の後ろにはプロジェクターが設置されていたので、川島は後ろ向きで躓き床に背中から倒れる。


 会議室内の殴られた川島も含めた全員が唖然とした。時が止まったようにしばらく誰も微動だにしなかった。佐藤は背中から倒れた川島を睨み続けていた。


 そんな佐藤を落ち着かせるように駆け寄る者はいなかったし、倒れた川島に「大丈夫ですか?」と駆け寄るものもいなかった。


 「いままでお世話になりました。」


 ピンと張られた水面に一石を投じたのは佐藤だった。


 「本日をもって退職させていただきます。川島部長のデスクに辞表を提出しておきますのでご確認のほどお願いいたします。それでは失礼します。」


 佐藤はそう言って45度の綺麗なお辞儀をしてそのまま会議室を後にした。


 背中で全員からの視線を感じたが、誰も佐藤に声をかけてくることはなかった。そのまま佐藤は執務室の自席の引き出しから、こんなこともあろうかとしたためておいた自筆の辞表を取り出し、川島部長のデスクに叩きつけた。佐藤は他の部署のデスク島からの視線を集めていることに気づいていたが、意に介さずに自席に戻り、会社関連のIDカードや社用携帯電話、書類などを机上に広げた。貸与品があると今後やり取りが発生してしまうのでそれは面倒だ。貸与品がないことを確認して、佐藤は執務室を出てエレベーターホールでエレベーターを呼び出す。エレベーターが到着するのが待ち遠しい。早くこの場から立ち去りたかった。エレベータの到着を示すランプを見つめていた。誰かしら営業部のメンバーが佐藤を呼び戻しにくるかと思っていたが、それよりも先に、もしくは誰も来なかったのかもしれないが、エレベーターのランプが点いた。佐藤はエレベーターに乗り込み、行き先を1階に指定した。エレベーターの扉が閉まり切る直前に会社のフロアのほうから誰かが走ってくる足音が聞こえてきたが、誰の足音だったのかが分かる前に扉が閉まった。そのまま佐藤を乗せたエレベーターの箱は、佐藤を1階まで直通で運んだ。佐藤はその箱の中で自分の行いを思い返し、手が震え出した。幼少期も含めていままで人を殴ったことがなかった。そんな自分が人を、しかも会社の上司を勢いで殴ってしまったこと、殴ることができたことに誰よりも自分が驚いていた。


 エレベーターが開き箱を出る。箱の外は、佐藤の行いなど知る由もないビジネスマンたちが行き交っていた。東港ハウジングが入っているオフィスビルは26階建てで1フロアに2社程度が入居しているため、全部で50社程度が入っているビルだ。1階にはチェーンのコーヒーショップやコンビニエンスストアや屋内喫煙室も入っているため、このビルの周辺のビジネスマンにも利用されているフロアであった。その雑多に人が行き交っている雰囲気が今の佐藤には心地よかった。その人の波に身を委ねると自然と手の震えはおさまった。そして決して振り返ることなくただひたすらに駅へと向かっていった。






 辞表を叩きつけてから数日が経ち、佐藤は自由気ままに自堕落な生活を送っていた。ほぼ取るべき単位を取り終えて週に3コマ入っている大学生のように、昼過ぎに起きて適当に飯を済ませてダラダラとネットサーフィンやゲームをしながら夜中まで過ごす。そのまま電気もつけっぱなしで寝落ちをして、気づいた時にはすでに昼になっている。というのを繰り返していた。といっても、その生活をし始めてからまだ1週間ほどしか経っていないのだが、それにすでに慣れてしまっている、順応してしまっている自分がいた。この日もいつものように昼に起きてPCの画面を眺めていた。カーテンは閉め切っているので、いま何時なのか、という感覚がなかった。そんなときにスマホが震えた。画面を見ると母からだった。母からは3ヶ月に1回くらいの頻度で定期的に電話が来る。


 「はい」無愛想に電話に出る。


 「あら、出た」


 そりゃ電話を鳴らされているんだから出るだろ、と佐藤は思った。


 「いま仕事中?」


 佐藤はPCの端に表示されている時計を見る。時刻は19時過ぎだった。


 「ああ、仕事中」


 母には会社を辞めたことは言っていないのだ。


 「あら、そう。電話してて大丈夫なの?」


 「ああ、ちょっとだけなら。どうしたの?」


 「どうしたのって元気にやってるかなと思って電話したに決まってるじゃない」


 「元気にやってるよ」


 「それはよかった。仕事は順調なの?」


 「まあ、ぼちぼち」


 「ごはんはちゃんと食べてるの?」


 「食べてるよ」


 「そう。それならよかった」


 「じゃあ、そろそろ仕事戻るから切るね?」


 「はい。じゃあ、体に気をつけてね」


 「はい。じゃあね」


 佐藤はそう言ってすぐに電話を切った。そして大きく息をついた。どこかのタイミングで親に仕事を辞めたことを言わないといけないと思っていたのだが、このタイミングで切り出すことはできなかった。きっと辞めたことを伝えたら幻滅されるだろう。ましてや、上司にキレて殴って辞表を叩きつけた、なんて言ったら、もう実家を出入り禁止になるかもしれない。佐藤は本気でそう思った。せめて転職先が決まってから、親には報告することにしようと思った。


 それにこんな生活を続けていたらいつか貯金が尽きてしまう。東港ハウジングの給料は決して良いものではなかったので、貯金もほぼない。この生活を続けられるのも、粘ってあと2週間くらいだろう。次の家賃、光熱費、ケータイ代の引き落としまでには転職をしていないとかなり危ない状況だ。


 一応辞表を叩きつけた2日後に転職サイトに登録はした。しかし、そこで職務経歴書や履歴書を書かなければいけなく、そこにかける労力が沸かずに断念してしまい、そのまま放置してしまっている。今一度自分を奮い立たせて、まずは転職するための土壌を整えなければと思った。




 それから1時間ほど佐藤はPCの画面と睨めっこをしていた。職務経歴書のフォーマットのファイルを転職サイトからダウンロードし、そのワードファイルを開いたまま時間が経過していた。一向に手が進まなかった。そこに記載できる経歴、スキル、実績が佐藤には思い当たらなかった。東港ハウジングで培ったものがないことに驚愕した。それでいて、やりたいこと、やりたい仕事も見当たらなかったし、自分に向いている仕事がなんなのかの見当もつかなかった。転職エージェントに相談する選択肢もあったのだが、エージェントに佐藤自身のスキルのなさを自ら曝け出すのに抵抗感を感じた。佐藤の転職活動は早速壁にぶち当たってしまった。佐藤はウェブブラウザで別のウインドウを開いてYouTubeの海に潜り込むことにした。




 YouTubeで特に興味もない動画を何も考えずに見続けていた。佐藤は有料プランに加入しているわけではないので、見たい(といっても心の底から見たいわけではないが)動画の冒頭や途中にテレビCMのように動画広告が流れてくる。いつもなら動画広告は煩わしい存在なので、「スキップ」アイコンが出たら、待ち侘びていたように即クリックをしている。


 いま佐藤の目の前にはその動画広告が流れている。


——急な出費も私たちがサポートします!


 テレビに引っ張りだこのお笑い芸人数人がそう言って動画が締めくくられていた。広告なのに思わず最後まで見切ってしまった。消費者金融の広告だったのだが、今の佐藤には刺さりすぎた。今の稼ぎ口のない佐藤にとって、それはまるで自分に手を差し出されているように思えてしまった。ここで無条件にある程度のお金を得ることができたら。とりあえず1ヶ月分の家賃、光熱費さえ賄えればだいぶ気持ちが楽になれる。広告からそのまま広告主である消費者金融のホームページに遷移した。そこでは10秒で完了する無料診断というメニューが出されていた。どうやら、ここに生年月日や年収などの個人情報の一歩手前の情報を入力すると、概算でいくら貸してくれるのかを見積もってくれるようだ。佐藤はすぐにそこに自身の情報を入力していった。こないだ退職したばかりだったのだが、無職はさすがに審査への悪影響があると考えて、在籍し続けているテイで勤続年数などを入力していった。全ての必要な情報の入力が完了し「無料診断する」というボタンをクリックする。


 するとページ上にすぐにおおまかな金額として借入可能額が表示された。その金額は佐藤が思っていたよりも大きかった。おおよそ佐藤の1月の手取りほどの金額だった。これを借りることができれば…と喉から手が出るほど佐藤にとっては魅力的に見えた。借入の申し込みに進むためのボタンがウェブページ上には表示されている。それをクリックしてしまおうかと佐藤はマウスに手をかけていた。このまま左クリックをしてしまうかどうか佐藤は葛藤した。背に腹はかえられぬ状況なのだから。すぐに転職先を見つけてすぐに返済すればいいのだから。転職先が見つからなくても最悪アルバイトをして返済すればいいのだから。しかも今消費者金融はキャンペーン中で30日以内に返済すれば利息はゼロだという。なおのこと、すぐに返済すればなんてことないじゃないか。佐藤の中で佐藤が消費者金融への申し込みを後押してくる。それでも佐藤を踏み止まらせているのは、借入をするときに保証人が必要であるということ。その保証人として親の情報を登録しなければいけないということであった。親の情報を登録するということは、何かあったときに実家、そして親に連絡がいってしまう可能性があるということだ。佐藤はこれまで散々長男であれ、長男であれ、と言われ続けてきた。しかし親が理想としている長男を体現するのにはかなりの時間がかかった。ようやく東京に就職ができたことで親から息子として、長男として認めてもらえたのだ。そんな状況下で、消費者金融から何かしらの連絡が届いてしまったとしたら、また佐藤家の中での佐藤の株は大暴落してしまうだろう。佐藤にとってそれは絶対に避けなければいけない事態である。


 佐藤の中に2人の佐藤がいがみ合っていたのだが、いま閲覧しているブラウザを閉じる佐藤が勝利した。


 しかしだからといって佐藤の転職活動が順調になるわけもなく、モチベーションが湧くわけもなく、なんとか空白を埋めただけの張りぼての履歴書と職務経歴書を転職サイトから目についた企業に送り続け、その1週間後に「今後の佐藤様の転職活動のご健闘をお祈りしています」と文末に添えられたメールを受信し続けることになった。書類選考すら通過することはできなかったのだ。





 いよいよ佐藤の銀行口座の残高が1万円を切った。葛藤に打ち勝ったのだが、やはり消費者金融から借りてしまおうかとよぎった。メールの受信箱を開くと、先日書類を提出した企業からのメールが入っていた。受信箱は送信元と件名だけが一覧で表示されている。件名が「書類選考の結果について」というメールが目についた。もうその時点で落選であることを佐藤は把握していた。メールを開かなくても結果がわかるようになっていた。書類選考が通過した場合の件名は「1次面接について」や「1次面接の日程調整」のように、1次面接について言及している。そのため、1次面接について言及していないということは、イコール書類で落選したということの示しである。なので、そんな件名のメールはわざわざ開封せずにゴミ箱に直行させた。すでに件名の時点で深い傷を負っているので、開封してさらにその傷を深く、傷に塩を自らの手で塗るほど佐藤はマゾではない。佐藤なりの自己防衛として開封しないという選択肢をとっている。


 それにしても全財産が1万円を切るというのは相当だ。学生時代ならそんなことは日常茶飯事だが、いまは社会人。貯金を食い潰している無職というのは、本当に生産性もなく何にも貢献していなく、何かに将来を期待されているわけでもない(学生であれば何もしていなくてもなぜか未来は明るいような謎の期待を背負わされる)。何かに貢献しようと会社にエントリーはしているのだが、繰り返し拒絶されていて、生きる意味を考えざるを得ない心理状態となっていた。誰にも相談することもできずに、いや相談する勇気もなく、ひとりでに孤独、孤立してしまっていた。




 日課、いや日課というよりは手持ち無沙汰すぎて何も見ないよりはマシかと思い、ただPCのディスプレイを眺めていると言っても過言ではない、いつものようにインターネットのパトロールをしていた。まずはSNSからだ。いまや佐藤にとってはSNSこそ世間であり世論になっていた。SNSから政治、経済、スポーツ、芸能ニュースを仕入れている。しかしSNSはそれぞれのアルゴリズムでそのユーザーにとって興味のありそうなコンテンツが表示されやすくなっている。そのため、佐藤のタイムラインは、ひどく偏ったメディアと化している。今日も知らない誰かと知らない誰かの第三者の投稿に対するリプライの中でレスバトルをしている。それをまた知らない誰かたちが油を注ぎ、そこら中で当事者不在のまま、みるみるうちに火の手は広がっている。そんな自分にとって何の身にならないタイムラインを掻い摘みながらスクロールをしていた。このときの佐藤の動体視力はイチローばりと言わんばかりに高速スクロールを繰り出していたのだが、ピタッと佐藤の右手の動きが止まった。




——高額バイト募集中!日当1万円!家にいながらできる仕事です。興味がある方はぜひDMをください! 皆さんからのご応募をお待ちしております!




 怪しさ満点だが、背に腹は変えられない。迷わず、その募集元のアカウントに指定された通りDMを送ることにした。




—―バイト募集のツイートを見てDMを送りました。




すると、すぐに割と長文の返信があった。




—―この度はご応募いただき誠にありがとうございます。


  弊社は海外を拠点としてオンラインサイトを運営しています。


  海外では日本の商品が人気であるため、我々は日本の商品の仕入れに力を入れているのですが、日本語ができて、日本在住のスタッフが少なく、仕入れが間に合っていない状況です。そこで、今回SNSでスタッフの募集をかけさせていただきました。なので、もしお手伝いいただけるのであれば、その仕入れ業務に少しお力を貸していただければと思います。1日の作業時間は数十分程度でお手元のスマートホンで完結できる内容になるのですが、ご協力いただけますでしょうか?




——はい、やらせてください




 佐藤も即答で返信した。するとまた先方から返信があった。




——誠にありがとうございます。では、ここからは具体的な業務内容のやり取りをさせていただいたり、あなた様の個人情報を含むやり取りが発生しますので、弊社が指定するセキュアなアプリのインストールをお願いします。こちらがインストール先のURLです。https://chatiees.com




 今後のやり取りは別のSNSなるとのことだ。佐藤は指示されたままに、指定のアプリを自身のスマホにインストールした。インストールは1分もかからずに完了した。インストール後にChatieesのアプリを立ち上げると、海外製のアプリということもあり全て英語で表記がされていたのだが、他のSNSに似たユーザーインターフェイスだったため、すぐに使用感を掴むことができ、難なくユーザー登録を完了させた。ユーザー名は「sasasato」に設定した。そして、インストールができたことを連絡する。




——アプリのインストールができました。




——お忙しいところ早々にインストールのご対応をいただき誠にありがとうございます。 それではChatiees上で「****_bluenets」でユーザー検索をしてください。そこで表示されたユーザーが私のアカウントになりますので、フレンド申請をお願いします。そちらでフレンド申請を受け取りましたら、あとはそちらのアプリで業務の詳細をご案内させていただきます。




 早速Chatieesのホーム画面からユーザー追加を示すであろうアイコンをタップし、そこから指定されたユーザー名で検索をかけた。検索結果は1件のみだったので、すぐに該当ユーザーを見つけることができたので、そのままそのユーザー宛にフォローのリクエストをした。


 即座にChatieesからスマホにフォローが許可された旨の通知が届いた。その通知をタップするとチャット画面が表示がされた。そして早速メッセージが表示された。




——早速のフレンド申請、誠にありがとうございます。また名乗るのが遅くなり申し訳ありません。私は大山と申します。あなたのように仕事が早い方からの応募をいただけて大変光栄です。これから契約等の事務的な手続きが少しありますが、今後もよろしくお願いいたします。




 歓迎のメッセージとともに、契約手続きの案内が続いていた。


 一応アルバイトという立て付けになるらしく「業務委託契約」というタイトルの契約書への署名が必要ということだ。他にも本人確認のために写真付きの身分証と自信の顔が映るように1枚の写真に収まるようにスマホのカメラで撮影して、その画像を提出した。


 その画像を送信する際に一瞬ためらう気持ちも生じたのだが、業務委託の契約書の内容が真っ当だったことと、これが佐藤にとっての藁、蜘蛛の糸で、ここまで来てこれにすがらない手段はないということから画像の送信ボタンをタップすることとしたのだった。


 それまで大山からは1分以内には返事があったのだが、佐藤からの本人確認の画像に対する反応は1分経っても無かった。佐藤は焦った。怪しい集団に個人情報を渡してしまったのではないか、と。そして瞬時にその場合の最悪のケースを想像して、体の芯から汗が吹き出る感覚を感じた。


 しかし、その焦りは数分で解消されることになった。大山からの返事があったのは佐藤が画像を送信してから3分後だった。




——身分証のご提示もありがとうございました。こちらで事務的な手続きは完了となりましたので、早速佐藤さんに1件仕入れ代行の業務をお願いしたいと思います。




 どうやら本当に仕事の依頼はあるようだ。続けて大山から業務の詳細が送信されてきた。




——仕入れ代行先:西丸屋


  URL:https://nishimaruya.co.jp


  購入商品:ベビーカー***、チャイルドシート***、ベビーベッド、各1点ずつ


  支払い方法:クレジットカード


   クレジットカード情報①


    カード番号:****-****-****


    有効期限:MM/YY


    セキュリティコード:***


  クレジットカード情報②


    カード番号:****-****-****


    有効期限:MM/YY


    セキュリティコード:***


  クレジットカード情報③


    カード番号:****-****-****


    有効期限:MM/YY


    セキュリティコード:***




 佐藤がイメージしていた仕入れ代行とは違っていたのだが、購入の指示があった。仕入れ代行という仕事に携わったことはもちろんないので、そもそも仕入れ代行という仕事に対して明確なイメージがあったわけではないのだが。そして佐藤は心の中で「こんな内容なのであれば自分で注文すればいいのに」と思った。




——この通り購入すればいいだけですか?




——はい。この通り注文していただき、商品の到着が確認できましたら報酬の1万円をお渡しいたします。




 本当にそれだけで報酬が貰えるのかと疑わしかったのだが、カード情報は渡されているし、自身の身銭を切るリスクはないと佐藤は判断した。




——了解です。




 そう大山に返信をして指示通りに該当のURLにアクセスした。もしかしたら、そのURLが怪しいサイトという可能性も考慮してプライベートブラウザでアクセスすることにした。しかしそこに表示されたサイトは正規のサイトのようであった。そして、指示にあった商品をサイト上のカートに入れて購入手続きに進んでいく。その段になって注文の住所や支払い方法の指定はあったのだが、それ以外の氏名や電話番号などの入力が必要であることに気づいた。




——注文者氏名や住所、電話番号とかは何を入力すればいいですか?




——もうそこまで進んでいるのですね。さすがです。


  指示にない注文に必要な情報については佐藤さんご自身の情報を入力してください。




——そしたらぼくの家に商品が届いてしまいますけど、それでいいのですか?




——はい。大丈夫です。昨今オンラインストア側は転売ヤーを嫌がる傾向にあります。


  会社の情報で注文してしまうと転売ヤーと疑われてしまいなかなか商品を発送してくれないことが多いのです。個人からの注文であれば、そのような疑いはかけられません。


  なので佐藤さんのような方に注文、仕入れの代行をお願いしているのです。




 たしかに悪質な転売ヤーが世の中にはいて、その転売ヤーが値段を釣り上げてしまい、本当にその商品が欲しい人に適正価格で届かない、購入できない、というようなニュースは見たことがあった。そういった転売ヤーの影響により、オンラインストア側でのチェックが厳しくなっているのだろう、と佐藤は想像を働かせた。


 佐藤は注文作業を続行した。このサイトでの買い物は初めてだったのだが、日頃からいくつかのオンラインストアを使っているし、このサイトも他と同じようなユーザーインターフェイスのため滞りなく注文完了を示すページに辿り着くことができた。作業時間はおよそ10分ほどであった。ページ上には「ご注文ありがとうございました。買い忘れはないですか?同じ商品を購入した人はこんな商品を購入しています。」と表示され、関連商品が並んでいた。佐藤はそれらが視界には入っていたが、それらを認識することはなく、Chatieesを立ち上げた。




——注文が完了しました。




 佐藤がそう送信するとすぐに大山から返信があった。




——やはり佐藤さんは仕事が早いですね。ありがとうございます。


  念のために注文完了のメールが届いていると思いますので、そのメールのキャプチャを送っていただけますでしょうか?




 佐藤は自身のメールボックスを開くと、大山の言う通り西丸屋から「【西丸屋オンラインストア】ご注文ありがとうございます」という件名のメールが届いていた。そのメールの内容をキャプチャし、大山に送信した。そしてまた大山からすぐさまメッセージが返ってきた。




——注文が完了されたことを確認いたしました。早々にご対応いただき誠にありがとうございます。おそらく明日佐藤さんのご自宅に商品が届くと思いますので、届きましたらまたご連絡ください。もう一仕事ありますので、その内容をお送りいたします。その一仕事が完了しましたら、報酬のお支払いをさせていただきます。




 さすがにこれだけで報酬がもらえるわけないか、と佐藤は妙に納得をした。が、続け様に大山からメッセージが届いた。




——また、弊社では新規で業務を行っていただいた方にはお祝い金を本報酬とは別にお渡しています。こちらはお祝いなのでギフト券になるのですが、ぜひ受け取っていただければと存じます。




 そのメッセージと共にURLが添付されていた。そのURLにアクセスしてみると、それは大手オンラインストアのギフトコードらしきものが表示された。佐藤はその足で表示された英数が羅列されたコードをコピーして、大手オンラインストアのマイページのギフトコード登録メニューに貼り付けた。そして「登録する」ボタンをタップした。すると、自身のアカウントに5,000円分のポイントがチャージされたのだった。お祝い金と聞いていたので、あって1,000円、なくて500円くらいだろうと佐藤は予想をしていたのだが、まさかの金額だった。これは大山に何か伝えた方がよいだろうと思い、Chatieesのアプリを開くとすでに大山からメッセージが届いていた。




——本日の業務は以上になります。引き続きよろしくお願いいたします。




そして大山のアカウントはすでにオフライン状態であることをアイコンが示していた。それを確認した佐藤はそっとアプリを閉じることにした。




 いま全財産が1万円を切っている佐藤にとってはこの5,000円のギフトコードは砂漠のオアシスであった。ここ最近は全財産がゼロという崖に向かって邁進していたため、とくにかく節制していた。食事は基本的に1日1食。コンビニは高価すぎるため、ドラッグストアで安売りされているカップ麺。もしくは辛うじて備蓄していた米を炊き、白米にいつ買ったか覚えていない塩をまぶして、塩むすびにして空腹を満たしていた。いつ買ったか不明な塩なので、使って良いのか不安だったのだが、調べてみたところ塩には賞味期限がないということが判明したので、安心しておむすびを食らった。ただ、この白米もいつ買ったか覚えていなかったのだが、そこは食欲が優先され虫が沸いていないから、ということと、加熱するから仮に菌があっても殺菌されるという二つの理由で自己納得し迷うことなく炊飯器をセットするに至った。


 食事だけでなく日用雑貨類も枯渇していた。こんなときに限って、シャンプーやらボディーソープ、歯磨き粉が無くなりそうになっていた。いや、すでに無くなっていて、人によっては新しいものに買い替えるタイミングを迎えているものばかりだった。シャンプーとボディーソープに至っては、水で薄めて使っている状態がすでに1週間程度続いていた。


 そんな生活状況だったので、いかにこの5,000円を有効的に使うのかに頭を悩ませた。佐藤はオンラインストアの中をさまよった。商品をカートに入れたり削除したりを繰り返しているうちに日が沈んでいっていた。




 翌日、佐藤は家のチャイムの音で目覚めた。実際にはまだ目覚めるには至っていなく、意識が眠りから徐々にまどろみに移行を始めた。まだチャイムが鳴らされている自覚はない状態だったのだが、何度目かのチャイムの音でそれがチャイムの音であり、訪問者がいること、そしてそこから昨日注文した商品を受け取らなければ、という順番で意識がつながっていき、佐藤ははっきりと目覚めるに至った。ここで不在のまま再配達になってしまうと業務の完了が遅くなってしまい、報酬をもらえるのが遅くなってしまうことに気付き、一気に脳が立ち上がった。そのまま一直線に玄関に向かい、訪問者への声掛けもなく勢いよくドアを開けた。まだ配達員が立ち去っていませんように、と祈りながら。


 ドアを開けると配達員が立ち去ろうと準備をしているところだった。おそらく不在票に何か書いているところだった。


 佐藤は寝癖のついた頭を垂らしてドアを開けるのが遅くなってしまったことを詫びた。配達員は「お届け物が大きいので、トラックに荷物を置いてきているので取りに行ってきます」と言って、トラックの方に小走りで向かっていった。そして大きな段ボール2つを抱えてやってきて佐藤に渡した。佐藤は重量に耐えられるように腰に力を入れて受け取ったのだが、そこまで重量はなかった。配達員は「もう1つあるのでちょっと待ってくださいね」と言って大人の背丈ほどある段ボールを両手に抱えてやってきた。おそらく中にはベビーベットが入っているのだろうと佐藤は思った。その受け渡しが完了し、佐藤が配達員から差し出された紙に受領のサインを走り書きですると、配達員は忙しそうに小走りで去っていった。佐藤はドアを閉め、Chatieesを立ち上げた。




——おはようございます。商品を受け取ることができました。それとギフトコード、ありがとうございました。ありがたく使わせていただきます。




 大山に報告のメッセージを入れた。さすがに大山からの返信がくるまでに時間がかかるかと思っていたが、3分以内に大山からの返信があった。




——佐藤さん、おはようございます。ご丁寧にギフト券のお礼までしていただきありがとうございます。喜んでいただけたようで何よりです。また、商品も無事に受け取っていただき感謝いたします。それでは、昨日お伝えしたようにここから佐藤さんには一仕事お願いしたいと思います。それは、いま受け取った商品を次の住所に宅配便で送るというお仕事になります。また配送業者は佐川急便で配送料金は着払いでお願いします。


  【送り先住所:神奈川県××市△△町*丁目*番地*号 **4693FXK762】




——わかりました。仕事はそれだけですか?




——はい。それだけです。今回は大型の商品なので運ぶのが大変かと思いますが、よろしくお願いします。配送手続きが完了しましたら、また教えてください。その際に送り状の添付を忘れずにお願いします。




 確かに荷物を運ぶのは大変だが、徒歩3分ほどで佐川急便の配送に対応しているコンビニがあるので佐藤はそこまで苦に感じなかった。しかし大きめの段ボール2つと100センチ以上の背丈のある段ボール1つを人力のみで運ぶのは、さすがに無理なので少しの工夫が必要となった。佐藤は学生時代に愛用していたママチャリを上京する際に一応持ってきていた。働き出すようになってからほぼ使わなくなっていたのだったが、今回久々に活躍することとなった。まず前輪のカゴ部分に段ボールを1つ積み(カゴに入るサイズの段ボールではないため、カゴに乗る格好となった)、サドルから後輪の荷物置きにかけてベビーベットの背丈のある段ボールを横たわらせ、その上にもう1つの段ボールを乗せる。そして左手でハンドルを握りながら、右手で後ろ側の段ボールを上から押さえてバランスをとる。これでママチャリは台車を代替となった。そうして佐藤はバランスをとりながら商品たちの機嫌を伺いながら、ママチャリを押し進めて、無事目的のコンビニに到着した。幸い、平日の午前中だったので店内に客は少なかったため、配送手続きでレジを占領しても問題なさそうであった。


 荷物をママチャリから店内レジに運び終え、送り状の伝票に必要事項を記載していく。それを受け取ったスタッフは手際良くレジを操作していき、手続きは完了となった。帰り際に送り状の写しを渡され、佐藤は文字を書いた面が内側になるように半分に折ってポケットに保管した。そして台車の役目を終えたママチャリにまたがり、自宅へと漕ぎ進めた。


 物量的に面倒かと思われた仕事もおおよそ15分程度で全てが完了した。自宅に着いた佐藤は送り状の写真を撮り、それを大山に送信した。




——配送が完了しましたので、送り状の写真を送ります。




 いつも通り大山からはすぐに返事が返ってきた。




——早速のご対応、誠にありがとうございます。この送り状をもちまして、今回の業務は完了となります。


  それでは、報酬のお支払い手続きを進めさせていただければと思います。弊社からの報酬のお支払いは現金ではなく、仮想通貨でのお支払いになります。そのため、仮想通貨が受け取れる口座が必要になるのですが、そういった口座はお持ちでしょうか?もし口座をお持ちでないようでしたら、佐藤さんの任意の仮想通貨サービスで構いませんので、ご自身の口座の開設をお願いします。




——仮想通貨ですか?できれば、現金でお願いしたいのですが…




——申し訳ありません。あいにく現金、もう少し言うと日本円でのお支払いができない社内システムになっております。弊社がグローバルで事業をしていますため、日本円の取扱いをしておらず、このような形を取らせていただいております。なかなかご理解いただきにくいかもしれないのですが、日本円換算で1万円以上の額を仮想通貨でお支払いさせていただきますので、ご了承いただけないでしょうか?




 確かに日本以外の事業が中心なのであれば、そういった報酬の受け渡し方法もありそうだし、仮想通貨のものによっては価値が上がり続けているものもあるので、佐藤はそれを受け入れることにした。




——了解です。では口座の開設ができたら、また連絡します。




——ご了承いただきまして誠にありがとうございます。それでは恐れ入りますが、口座開設のお手続きのほどお願いいたします。




佐藤は早速ウェブで「仮想通貨 口座開設」で検索して、一番上に表示された仮想通貨サービスで口座を開設することにした。手続きは若干手間はかかったものの、当日のお昼過ぎには口座の開設が完了した。




——口座の開設が完了しました。




——お手続きいただきありがとうございます。それではこちらのURLより仮想通貨をお受け取りください。1万円プラスアルファ分のビットコインになります。必要に応じていつでも仮想通貨サービス側で日本円に換えることができますので、詳細はサービス側でご確認ください。




 そのメッセージとともにURLが送られてきたので、ページを開くと先ほど開設した仮想通貨の口座の残高に反映された。そのビットコインの相場を確認すると1万4千円ほどの価値のある額であることがわかった。しかし、佐藤はまだ報酬を得た実感は沸いていなかった。いかんせん、仮想通貨に触れたことがなかったため、それが果たして本当に自分の働いた(といっても労働という労働はしていないに等しいが)ことに対する報酬なのかどうかが曖昧な感覚だった。そんな感覚に浸っていると、大山からメッセージが届いた。




——改めまして、この度は業務を遂行いただき誠にありがとうございました。特に佐藤さんはお仕事が早くて大変助かりました。また佐藤さんがお仕事をやられたい、というお気持ちになられましたら、いつでもご相談ください。では、失礼いたします。




 割と最後はあっさりしているんだな、という感想を感じたのも束の間、早くこのビットコインを換金して日本円で報酬を感じたい。佐藤は早速受け取った全てのビットコインを日本円での出金手続きを行なった。出金手続きが完了すると、口座開設時に登録した佐藤の銀行口座に現金の振り込みがなされるという説明がサイト上でなされていた。


 自身のネットバンクのアプリにログインして残高を確認した。が、残高は変わらず寂しく心許ない数字を表示していた。そこに1万円程度が追加されたところで頼りない残高ではあるものの、このときの佐藤にとってそれは恵みの雨に違いなかった。


 残高確認ページを何度かリロードするものの、何も変わらなかった。


 仮想通貨サービスは正規のサービスでそのサービス上で出金手続きを行なったのだから、確実に佐藤の口座に振り込みがされるはずなのだが、だんだんとリロードしても数字が変わらない状況に苛立ちを感じ始めていた。自分の所有物をA地点からB地点に移動させているだけなのに、なぜこんなにも時間がかかるのだ、と。


 苛立ちを感じながら定期的にリロードを繰り返す行為を1時間ほど続けていたら、あるとき急に銀行口座の残高が勢いよくカウントアップされた。1万円を割っていた残高が2万円強まで回復したのだった。


 ここでようやく佐藤はこの仕事で報酬がもらえたことに対する嬉しさを感じた。そして、何よりも本当に助かったと、これで生きながらえると、心の中で叫んだ。


 そしてすぐさま家を飛び出し、午前中に商品の配送手続きをしたコンビニに向かった。コンビニに入店しATMに直行。久しぶりに現金を引き出す。そして、コンビニで使う人が少ない買い物かごを手に取り、とにかく今食べたいもの、飲みたいものをかごに投げ入れていく。買い忘れたものはないか、否、他に食べたいもの、飲みたいものはないか、とコンビニを最後にもう一周回って、レジで会計をした。佐藤史上、コンビニではなかなかない長尺のレジのスキャン時間を経て会計金額は3千円越えであった。これくらいの金額はいまの佐藤にとっては許容範囲であるといわんばかりに、レジに先ほどATMから引き出したばかりの1万円札を差し出し会計を済ませた。パンパンになったコンビニのビニール袋をゆらゆらさせながら自宅へと向かった。


 帰宅するや否や、購入したあらゆる食べ物を貪った。おにぎり、弁当、サンドイッチ、菓子パン、ポテトチップ、アメリカンドック…。それを久しぶりのアルコールで流し込みながら、しばらく空いてしまっていた胃に流し込んでいった。




 佐藤はあっという間に食べ切った。それと同時に満足感と幸福感と、それから虚しさが押し寄せてきた。ひとりっきりの部屋で大の字になった。部屋にはいま食べ散らかした弁当の容器やポテチの袋やおにぎりのフィルムなどが散乱していた。それが床に広がっているところに佐藤も寝転がっていた。何を考えるでもなく、佐藤は天井を見つめていた。


スマホの通知音が鳴った。佐藤は起き上がらずにスマホを置いたであろう辺りを手探った。運良くスマホを手に取ることができたので、画面を見るとChatieesの通知だった。




——佐藤さん、本日はありがとうございました。夜分遅くに申し訳ありません。少し急ぎで仕入れなければいけない商品がありまして、佐藤さんのお力をぜひお借りしたいと思いご連絡させていただきました。他の人にはなかなか頼みにくいのですが、今回の佐藤さんの仕事っぷりに非常に感銘を受けまして、佐藤さんであれば納期に間に合わせることができるかと思い今回の依頼をさせていただきました。もし佐藤さんがよろしければ、ご協力いただきたいのですが、ご都合いかがでしょうか?




——ぜひ私にやらせてください




 佐藤は間髪入れずにそう返事を返した。同時に佐藤には沼に入っていくような音が聞こえた。






 佐藤は大山からの指示通りに1日あたり10〜15分程度の作業を行い、2日に1回の頻度で仮想通貨で1万円相当の報酬を受け取る生活にすっかり慣れてしまっていた。もはや転職活動のことは1秒たりとも考えることはなくなっていた。すっかり味を占めてしまっていたこともあるが、大山から「仕事が早い」とか「さすが」とかを毎日褒められることに達成感ややりがいを少なくとも感じていた。東建ハウジング時代には感じることができなかった類の感情であった。なので自然と佐藤はこの仕事と呼べるかどうかわからない仕事に対して継続的なモチベーションを保つことができていたのだ。


 ただでさえ怪しさのある仕事内容ではあるのだが、何度か仕事を受けている中で違和感を感じる点も出てきていた。


 例えば、毎回佐藤宅に送付されてきた商品を転送しているのだが、その転送先が神奈川の倉庫だけではなく、茨城や埼玉、ときには大阪の倉庫を指定されることがあった。また、倉庫ではなさそうな住所を指定されることも稀にあった。そこも興味本位でストリートビューで確認してみると明らかに一軒家、民家であろう建造物が建っていた。


 他にもある。いつも仕事の依頼の際に支払いに使うカード情報が数種類送られてくるのだが、何日か連続で同じカードを使うときがあった。しかし、昨日まで使うことができていたカードが使えないといことがあった。また、そもそも指定されていたカードが使えないものだったということもあった。それを大山に伝えると、その都度新しいカード情報が何種類か送られてきて最終的には仕事を完了することができていた。


 それらは仕事をこなす上ではそこまで問題では無かったため、佐藤は大山に何も聞かずに指示通り言われたことを遂行し続けていた。


 そして受け取った報酬は宵越しの銭はほぼ持たぬ状態で、コンビニ、ファミレス、ファストフードでの外食の食費やオンラインゲームの課金に浪費されていった。東建ハウジングを退職してから最初の家賃等の引き落としは何とか生きながらえることができたのだったが、このタイミングでアパートの更新費用の支払いが迫っていた。その費用の存在すら忘れてしまっていたため、その分を手元に残していなかった。アパートの管理会社からの通知の封書でそれに気付かされた。もちろん引っ越しなどできる状況では無いので、更新費用を支払わなければいけないのだが、その支払い期日まで1週間と迫っていた。それまでに少なくとも10万円は稼がないといけない。このまま2日に1回のペースで1万円をチマチマ稼いでいても間に合わない。





 その日もいつものように仕事が終わり、大山から仮想通貨が送られてきた。そして「明日もよろしくお願いします」という一文で締められていた。


 いつもであれば、佐藤はその一文に対して返事はせずにChatieesのアプリを閉じるのだが、この日は意を決して佐藤からやり取りを切り出すことにした。




——もう少し稼がせてもらうことはできますか?




 この一文を送るのに躊躇いもあったのだが、佐藤はもう大山に頼る選択肢しか思いつかなかった。




——一応理由を聞かせてもらってもよろしいでしょうか?




 ここは何かを隠しても仕方がないと思い、佐藤は自分の状況をありのまま伝えた。すると、大山からすぐにメッセージが返ってきた。




——そういった状況なのですね。承知しました。


  佐藤さんにはいつも助けてもらっています。前にも言ったかもしれませんが、佐藤さんのようにスピーディに、そしてアクチュアリーに仕事ができる人はなかなかいないんですよ。なので、そんな佐藤さんからの頼みであれば受けさせてもらいます。




 どうやら大山は快諾してくれたようだった。




——ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。あまり褒められたことがないので。




——佐藤さんほどの人材を褒めないだなんて、それは節穴ですね。私だったら重宝しますよ。




 初めて会話らしい会話をしているかもしれない、と佐藤は思った。




——実は私からも佐藤さんにお任せする仕事を増やそうかと提案しようとしていたところなんですよ。なのですごいタイミングだなと思ってしまいました。




 そして大山は続けた。




——ただ仕事が増えるということは、その分佐藤さんの責任が増えるということになりますけど、その覚悟はありますか?




 その直前の大山からのメッセージとのコントラストが強すぎて佐藤は寒気と圧を感じた。


 何秒かそのメッセージを凝視した。


 そして佐藤は文字を打ち始めた。




——はい。大丈夫です。




 そう返事をした。




——佐藤さんならそう言ってくれると信じてました。嬉しいです。




 そう返ってきた大山のメッセージを眺めた。


 佐藤は、いつの間にか自分の口の中が乾いていることに気付き、ペットボトルに残っていた水を一気に飲み干した。






 早速大山から新しい仕事の指示があった。




——今回佐藤さんにやっていただく仕事は今までのものよりも稼働量が多いということと、佐藤さんの状況も鑑みて報酬を設定させていただきます。


  この仕事の報酬は15万円分になります。ぜひ最後までよろしくお願いします。




——了解です。よろしくお願いします。




 15万円もあれば更新費用は賄えるし、足も出る。どんな内容かはわからないが、今までの仕事の報酬の十五倍なので、相当大変なのだろうか。佐藤は固唾を呑んだ。




——では、まず佐藤さんには、佐藤さんの自宅の近くで空き家を探してください。




——空き家ですか?




 全容は全く見えないが、若干肩透かしをくらった気分になっていた。




——はい。空き家です。ただし空き家といってもいくつかの条件があります。


  次の条件を全て満たす空き家を探して欲しいのです。


  ・一軒家ではなくアパートの空室


  ・宅配ボックスのないアパート


  ・共同エントランスのない(部屋の前まで鍵がなくても行ける)アパート


  ・大通りに面していない=平日の昼間は人通りが少ない


  ・一人暮らし向け間取りのアパート


  ・築年数が古すぎない(築10年〜30年くらいが目安)


  ・団地ではない


  ・面している道路は車がすれ違うことができる幅がある




 佐藤は色々と聞きたいことがあったが、まずはその方法を聞くことにした。




——空き家を見つけるためにはどうしたらいいのですか?




——まずは佐藤さん自身が歩いて条件に合うアパートを探してください。




 続いてその判別方法を質問した。




——空室があるかどうかはどう判断すればいいのですか?




——いくつか空室かどうかを推測できるポイントがあります。


  例えばカーテンの有無、郵便受けが塞がれているか、エアコンの室外機の有無、ガスメーター、電気メーターの状況を確認する、などがあります。しかし、それらはあくまで空室の可能性が高いことを示す指標になりますので、最終的にはそのアパートの管理会社もしくは不動産会社に電話して確認してください。




——了解です。では探してみます。




——ありがとうございます。


  まずこの空室を探す、というのが今回の仕事のファーストステップになりますので、空室が見つかったら連絡してください。では、よろしくお願いします。




 佐藤は大山からのメッセージを確認して、外出する準備を始めることにした。






 佐藤は最寄駅を中心に空き家の捜索に出かけることにした。


 久しぶりに歩き回っている。東建ハウジング時代はこうして日々足を棒にしながら歩き回っていた。当時は書類が入った重い鞄を片手に、夕方になると半ば引きずっている感覚でひたすらに都内を歩いていた。そして、しまいには上司から社用の携帯電話に進捗確認の電話がかかってきて、今日は契約を取るまで会社に戻ってくるな、というよくドラマで見る罵声を浴びせられて泣く泣く日が沈んでも歩き続けていたこともあった。


 歩いているとそんな嫌な思い出が自然と蘇ってしまう。


 そんな思い出を振り払うように空き家探しに集中することにした。


 最寄駅周辺なので、佐藤の馴染みのある地区ではあるのだが、家と会社の往復がほとんどだったため、家から出る時は駅を一直線に目指していたし、駅に着いたときには家を一直線に目指していたため、こんなに周りを見ながら自分を住んでいる地域を歩いたことはなかった。この街の違った表情を垣間見ることができた。佐藤はそんな穏やかな感情も抱いていたのだが、いま自分が置かれている状況、自分ややっていることの不透明さが押し寄せてきて、時折吐き気すら覚えながら足を進めた。そう、いま佐藤は前に足を進めることしかできない。




 佐藤が歩き出したのは昼前だったが、いまは日が傾きつつあった。その間、佐藤は歩きっぱなしだった。空腹を感じる余裕すらなく、食欲が沸くような安心感も感じる隙間がこの数時間なかった。条件に合致するアパートがなかなか見つからず、途中からは見つけることができないのでは、そして仕事を完遂することができずに自身にとって最悪の未来をも想像し、佐藤は焦りを感じていた。


 最初は見ず知らずのアパートをまじまじと眺め、そこが空き家かどうか確認していく作業する様はどう見ても不審者そのものなのではと思ってしまい、抵抗を感じていたのだが、その焦りによりそんな抵抗を感じる自尊心は捨てられ、通りかかったアパートを1棟1棟食い入るように観察して、空き家かどうか推測していくようになっていた。


 そうして捜索していく中でようやく1件条件に合致するアパートを発見した。ベランダ側からみるとカーテンがかかっていなく、部屋の中は何もないし、人が住んでいる気配を感じることはなかった。


 さて、ここからこの部屋が空き家なのかどうかの最終確認を行なっていく。


 幸い、そのアパートには通りに面しているところに管理不動産会社の入居者募集中の看板が掲げられていたので、看板に記されている電話番号にかけてみることにした。


 「はい。お電話ありがとうございます。◯◯不動産です」


 「看板を見て電話しているのですが、空いている部屋があるかどうか確認することはできますか?」


 「もちろんです。ご希望の物件の名称はわかりますか?」


 「はい。東京都大田区**にあるサクラパレスです」


 佐藤はいま目の前にある建物の壁面に掲げられている名称を読み上げた。


 「承知いたしました。いま確認いたしますので、少々お待ちください」


 そう言って電話口の男性スタッフは電話を保留にせずに、電話をつないだまま、おそらく手元の端末で調べ始めたようだった。時折「えーっと」や「よいしょ」という声が聞こえてきた。それはひとりごとなのか、佐藤に作業をしているのをアピールするなのか、はたまた彼の癖なのかは不明だが、佐藤は東建ハウジングでそんな電話対応をしていたら怒号が飛んでくるだろうな、と思いながら彼の声に耳を傾けていた。


 「お待たせいたしました。こちらのサクラパレスですが、空き部屋がございます。203号室が現在空いております」


 「そうですか。ちなみに家賃はどれくらいですか?」佐藤はこの電話の不信感を消すために無駄な質問をした。


 「こちらは賃料が7万6千円になります。それに共益費が毎月3千円かかりますので、毎月お支払いいただくのは7万9千円になります。一度内見していただくこともできますが、いかがでしょうか?」


 「ありがとうございます。内見は一旦大丈夫です。ちょっと検討させていただきます」


 「承知いたしました。私は西田と申しますので、また何かありましたらご連絡ください」


 お互い「失礼します」と言い合って電話を切った。


 これで空き部屋があることが確認できたので、佐藤は日が暮れる前にそのアパートの外観やベランダから見た部屋の状況を何枚か写真に収めた。日が暮れてしまうと詳細が写真に映らなくなってしまい、大山への報告が遅くなってしまうため、急いでシャッターを切っていった。


 その場でChatieesのアプリを開き、条件に合う物件が見つかったこと、そしてその物件に空き部屋があることが確認できたことを大山に報告することにした。


 大山からの返事はすぐだった。




——さすが佐藤さんですね。こんなに早く物件を見つけてくれるとは、さすがです。


  いままでこの仕事をやってもらった人は物件を探し出すのに1週間ほどかかったり、途中でリタイアしたりする人がほとんどでした。


それと比較すると佐藤さんは見つけるのは早いし、しかもこの物件は条件にも合致していますし、100点の物件ですね。




——とんでもないです。個人的にはだいぶ時間がかかってしまった印象でした。




——そうやって謙遜するところも佐藤さんらしくていいですね。


  いずれにしても、早々にありがとうございます。この物件でいきましょう。




 この物件はとりあえず合格ラインを超えているらしいことがわかったので、佐藤はその場を離れることにした。大山とのチャットのやり取りをしながら、自宅に向かって足を進めた。




——早速ですが、佐藤さんに見つけていただいた物件を使ったお仕事をお願いしたいと思います。ここからは今までの仕事と同じになりますが注文量が多くなります。


  仕入れ代行先①:ニシダデンキ


   URL:https://nishida-denki.co.jp


   購入商品:MacBook、AirPods、iPad Pro、各1点ずつ


  仕入れ代行先②:カメラのやました


   URL:https://yamashita-camera.co.jp


   購入商品:ニコンZ50Ⅱダブルズームキット、ニコンNIKOR Z 24-120mm f/4 S、各1点ずつ


  仕入れ代行先③:サトスポ


   URL:https://sports-satou.co.jp


   購入商品:ガーミン Approach S70 47mm スマートウォッチ 1点


  仕入れ代行先④:上州電気店


   URL:https://joshudeki.com


   購入商品:BOSE QuietComfort Ultra Headphones 1点


  仕入れ代行先⑤:ヌヴィーロ


   URL:https://nuvilo.co.jp


   購入商品:パフュームキット(ディフューザー リキッド&グラスベース&ビネガーバスエッセンス) 3点


  支払い方法:クレジットカード


   クレジットカード情報①


    カード番号:****-****-****


    有効期限:MM/YY


    セキュリティコード:***


   クレジットカード情報②


    カード番号:****-****-****


    有効期限:MM/YY


    セキュリティコード:***


   クレジットカード情報③


    カード番号:****-****-****


    有効期限:MM/YY


    セキュリティコード:***




 いままでは1回の仕事につき、1つのサイトでの注文するという内容だったのだが、今回は5つの別々のサイトでの注文するという内容だった。


 大山からのメッセージは続いた。




——配送先は、今回佐藤さんに見つけてもらった空き部屋を指定するようにしてください。佐藤さんに確認していただいた通り、この部屋に人は住んでいませんので、受け取ることができません。なので、オンラインストア側で玄関先への置き配が指定できるようであれば、それを指定するようにしてください。置き配の指定ができない場合は、住所の末尾に「玄関前に置いてください」という文言を付け加えるようにしてください。そして配送日時を明日の12時〜14時を指定してください。




 いままでの指示内容とは異なるものだった。佐藤は何から質問しようか迷った結果、次のメッセージを送った。




——これは商品を受け取らなくていいんですか?




 すかさず大山から返信があった。




——そこは佐藤さんが気にすることではないです。いつも通り注文が完了しましたら、報告してください。佐藤さんの仕事はそれで以上になります。




 いままでになく文面から大山の圧を佐藤は感じていた。




——了解しました。注文完了後に報告します。




——よろしくお願い致します。明日には弊社側での確認が完了しますので、明日中には報酬15万円分をお送りさせていただきます。




 大山から送られてくる文面、単語は、いつもと変わらないものだったのだが、緊張感を感じた。アプリのチャット画面を通じて張り詰めた空気が佐藤に流れてきているようであった。その空気に背中を押されるように、佐藤は指示通り5つのオンラインストアでの注文を始めた。意味はないが佐藤は、いち早く完了させたい衝動にかられ、まばたきも忘れてオンラインストアを操作していた。




 いつもより多い仕事量ではあったのだが、5つのサイトでの注文は15分程度で全ての注文が完了した。いつの間にか呼吸すらも上手くできなくなっていたようで、最後の注文が完了すると佐藤は上手く息が吸えずに過呼吸になった。そのまま床に倒れ込み、自由に動かせる足をばたつかせた。そうしているうちに、ようやく少しずつ喉が開いていき、空気が行き交えるようになっていった。佐藤は暗い部屋で四つん這いになりながら、全身で必死に呼吸をしていた。やがて行き交う空気量は通常時に戻っていった。




 落ち着きを取り戻しつつある体を起こして、Chatieesのアプリで大山とのチャット画面を立ち上げる。そして、仕事が完了したことを報告する。




——ただいま全ての注文が完了しました。




 そのメッセージとともに、注文完了メールのキャプチャも添付して送信した。




——佐藤さん、ありがとうございます。いつも仕事が早くて助かります。


  今回の注文はいつもよりも単価も高いですし、量も多めなので、もしかしたら、オンラインストア側が転売ヤーと疑ってくる可能性があります。佐藤さんに本人確認のための電話が入るかもしれません。その電話で本人確認ができないと、商品を発送してくれないので、知らない番号から着信があっても、必ず出るようにしてください。そして電話口で自分が注文したことを伝えてください。もし転売目的かどうかを問われたとしても、個人の注文であることを伝えるようにしてください。よろしくお願い致します。




——会社の名前は出さなくていいんですか?




——はい。業者だと認識されると色々と面倒なので個人で注文したと伝えるようにしてください。では、よろしくお願いします。




 そのメッセージで、この日の大山とのやりとりは終了した。


 佐藤はいつの間にか汗だくになっていたようで、鼻先から滴った大粒の汗が今やり取りをしていたスマホの画面に落ちていった。その画面をただただ見つめていた。いま滴った雫は汗なのか涙なのか佐藤には分からなくなっていた。


 すると、スマホが震え出した。静かに佐藤の手の上でスマホが震えていた。


 佐藤はその振動を感じてから画面が着信を示しているのに気がついた。発信先は電話帳に登録されていない番号からだった。03から始まる番号であるため、何かしらの固定電話からの発信であった。そして佐藤は先ほどの大山からのメッセージを思い出して、着信が切れる前に出なければと思い、急いで通話ボタンをタップした。


 「…はい」佐藤は掠れた声で第一声を発した。


 「ヌヴィーロカスタマーサポートの藤田と申します。佐藤様の電話番号でお間違いないでしょうか?」


 電話口は女性だった。先ほど佐藤が注文した先からの電話だ。


 「はい。佐藤です」


 「お忙しいところ申し訳ありません。確認させていただきたいことがありお電話をさせいただきました。いま少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」


 「少しであれば」佐藤はぶっきらぼうにそう答えた。否、そう聞こえるように意識して答えた。


 「ありがとうございます。昨今オンラインストアでの不正注文が相次いでおりますため、変申し訳ないのですが、このような形でお客様にお電話で確認をさせていただいております。ご理解いただけますと幸いです」


 「はあ…」佐藤はこのあと聞かれる質問の想定はできているのだが、それが伝わらないように演じた。


 「大変失礼な質問になってしまい申し訳ないのですが、先ほど佐藤様から弊社のオンラインストアでパフュームセットのご注文をいただいているのですが、こちらは佐藤様がご自身でご注文されたものでお間違いないでしょうか?」


 電話口の女性は電話越しでもわかるほど腰が低いことがわかった。そして佐藤は大山からの指示通り回答するように徹することに集中した。


 「はい。注文しました」


 「左様でございますか。それは失礼いたしました。ちなみにですが、こちらは佐藤様のご本人様のご利用でのご注文になりますでしょうか?」


 佐藤はこの質問にはどの回答が正解なのかが分からず、一瞬回答に迷った。


 「…」


 その間に電話口の女性が気付いたのか、質問を変えてきた。


 「質問が悪くて申し訳ありません。また、大変失礼な質問になってしまうのですが、転売等の目的でのご注文ではないでしょうか?念のために確認させていただけますでしょうか?」


 「はい」


 色々な言葉を発してしまうと、変に疑われる可能性も上がってしまうことと、こちらのボロが出てしまうリスクが上がってしまうということを鑑みて、佐藤はできるだけ短い返答を意識した。


 「承知いたしました。大変失礼な質問をしてしまい申し訳ありませんでした。予定通り発送手続きに入らせていただきますので、商品がお手元に届くまでしばらくお待ち願います」


 そう言っている電話口の女性が深く頭を下げている感じを電話越しで佐藤は感じていた。


 「はい。よろしくお願いします」


 そう言って相手の言葉を待つことなく、急いで電話を切った。


 そして、また部屋は佐藤を静寂で包んだ。




 これまで佐藤は大山とのやり取りのみで仕事を遂行してきたのだが、今回初めて第三者が関わっている、いや、第三者を巻き込んでいることを認識した。電話で会話したことによって第三者を巻き込んでいることを実感した。文字通り肌身でそれを感じてしまった。


 いままでは半ばゲーム感覚で、非現実的で、バーチャルな中で完結できていた気でいた。なので、こんな感覚になることはなかった。


 この仕事をやるようになって初めて肉声で誰かと関わった。そこに温度があった。人肌の温度を。感情を感じた。大山とのチャットのやり取りでは感じることができなかったものを受けた。




 自分のやっていることの危うさを佐藤は改めて考えるに至った。なんとか自分を正当化してこの仕事で生きながらえていたのだが、これは疑いのようのない危うさだと思い至った。


 そもそもになるが、やっていることに対して報酬が良すぎる。今回の仕事に関しては高単価な商品が対象のため、それなりの報酬を貰えてもいいのかもしれないが、いままではアパレルやコスメなどの商品単価としては1万円程度。せいぜい高くても5万円程度だった。そんな単価のものを、そのままクレジットカードで購入して自分が転送する。その送料も負担している。それを海外で転売するようなことを大山は言っていたが、そこからさらに海外に転送するにはさらに輸送費がかかる。それを海外で転売したところで、手元にどれほどの利益が残るのだろうか?自分に毎回1万円ほどの報酬を払えるほどの利益が残るのだろうか?日本限定の商品とかであれば、それほどの利益を生み出すことはできるかもしれないのだが、佐藤が注文した商品には限定品というのはそこまで多くなかった。むしろ少なかった。


 さらになぜ毎回違うクレジットカードが指定されるのか?


 しかも指定されたカードが使えないことも多々あった。1つの法人で複数のカードを保持していることは不思議ではないが、いままで佐藤に送られてきたカードは有に50枚を超えていた。ひょっとしたら100枚弱はあったのではないか。それほどのカードを保有していることはあるのか?


 自分が関わってきたことの怪しさ、危なさ、取り返しのつかないであろう状況であることを感じた佐藤は吐き気を覚えてトイレに駆け込んだ。






 佐藤は結局一睡もすることはできなかった。絶望と後悔とやるせなさに苛まれ続けた。今回の報酬を受け取ったら、もうこの仕事をやめよう。足を洗おうと決めた。真っ当に転職活動を再開して、新天地を早々に見つけようと、そう心に決めた。


 その転職活動を再開するにあたり、佐藤はひとつだけ確認しておきたいことがあった。


 それは昨日注文した商品の受け取りの模様をこの目で確認したい、ということだった。


 そもそも配送されるかどうかもあるのだが、配送された商品の顛末をこの目で見届けることで自身の正当性を強化することができ、心おきなく転職活動に臨めるのではないかと考えていた。仮にそれを目の当たりにすることによって、自身の関わっていることの重大さ、重みを感じることにつながってしまう可能性もあるのだが、自分の目で見ないと、この行き場のない不安やフラストレーションがどこかで破裂、爆発、飛び散ってしまいそうであった。そのため、どういう結末になるかを佐藤は、見届けることを選択した。一睡もしていないのだが、眠気は1ミリもなかった。


 佐藤は事の顛末を見届けて無事に何事もないことを確認して、夕方ごろからベッドでぐっすりと眠りにつける近い将来を思い描いた。




 配達指定時刻が12時からだったが、だいぶ早く現地に到着した。空き部屋があるアパートの周辺を見て回るが、昨日と何も変わらず、玄関先にも何も置かれていないままだった。このままアパートの間近で突っ立っているのも変質者と間違われてしまう(いや、少なくとも正常者ではないので変質者であるには違いないが)ため、近くにカフェに入ることにした。そのカフェは店内からその空き部屋が見える場所に立地していた。入店すると、昼前ということもあり、客はまばらだった。エプロンを着用した店員が出迎えてくれて、空いている席に自由に座るように促してくれた。


 佐藤は空き部屋を見ることができる窓際の席を陣取ることにした。佐藤が着席すると店員が冷水とおしぼりを持ってきてくれた。


 「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」そう言って店員は所定の位置に戻っていった。


 昔ながらの純喫茶で地元密着型といった店内の雰囲気であった。おそらく店主、マスターとその奥さんで営んでいるのだろう。いま佐藤を接客してくれた店員は若そうな風貌であることからきっとアルバイトだ。着用しているエプロンを着ているというよりは、着せられている感が強い。


 佐藤はテーブルに置かれているラミネート加工がくたくたになっているメニュー表を手に取り、一通りのメニューに目を通す。そういえば、昨日の昼飯以降、食が喉を通っていないことを思い出した。あと30分ほどで12時になるが、相変わらず食欲はない。何も注文しないのはおかしいので、とりあえずドリンクだけ注文することにした。


 店員を呼び、アイスコーヒ―を1つ頼んだ。


 アイスコーヒ―はすでに作られているものだったらしく、1分もかからないうちにテーブルに運ばれてきた。


 「ごゆっくりどうぞ」


 そう言って店員は、また所定の位置に戻っていった。昼前の時間ということもあり、まだそんなに仕事がないのか、ひたすらにグラスを拭く作業を再開していた。


 佐藤は一口アイスコーヒ―に口をつけて窓の外に目をやった。


 部屋の様子は変わらず、何も動きはなかった。まるで静止画を見ているかのように変化はなかった。これから何か起こるのかもしれないと。佐藤は一瞬たりとも見逃すまいと目線をやっていた。しかし、しばらく何も起きることはなかった。




 しばらくすると少しずつ店内が賑わってくるようになった。


 やはり地元民に愛されているお店のようで、そこに住んでいるであろう女性グループや、この周辺で働いているのであろう人たちが続々と入店していき、テーブルを埋めていっていた。そんな中、佐藤は窓際の2人席のテーブルでポツネンとアイスコーヒーだけをちびちびと飲みながら、本を読むわけでもPCを広げて作業するわけでもなく、ほぼ寝巻きのような身なりで座っているだけなのであった。


 実際にそういった視線を感じたわけではないのだが、店員がランチ頼まない客なのかな、という煙たがれるのではないか、という懸念と若干の申し訳なさを感じてしまったため、佐藤はなくなくランチメニューを注文することにした。


 引き続き佐藤の食欲は回復していなかったのだが、店内が色々な洋食の匂いで充満してきたため、少しだけ佐藤の食欲は刺激されつつあった。しかし、どれも今の佐藤の喉を通りそうではなかったので、一番安いサンドイッチランチを頼んだ。これで佐藤のお店に対する若干の申し訳なさは軽減された。窓の外を見つめる時間を再開する。


 すでに時間は12時を回っている。そろそろ配達があってもおかしくない時間になっている。


 こうやって外を見つめている間にも何度か佐藤を未曾有の恐怖心に飲み込まれそうになった。目に見えない怪物が佐藤の目の前に現れ、佐藤を丸呑みできそうな大きな口を開けて佐藤の目の前に迫ってくる感覚を覚えた。佐藤はその度に「大丈夫、大丈夫」と心の中で繰り返しながら、周りにその所作がバレないように深呼吸をして、辛うじてその感覚から回避していた。


 そうやってまた怪物からのプレッシャーから回避していたところで、店員がサンドイッチを配膳してくれた。かなりボリューミーなもので、果たして自分は完食することができるのかと佐藤は心配になった。とりあえず右手でレタスとトマトとハムが挟まっているサンドイッチを手に取り、窓の外に目を向けた。


 すると、アパート沿いの通りに1台、いかにも配送会社のトラックが停車するところであった。トラックの運転手は機敏な動きで運転席から飛び出し、車輪止めを前輪に噛ませてトラックの後ろ側に駆け足で向かっていった。きっと今日も配送の予定でビッチリ埋まっていて、1分1秒も無駄にしたくないのであろう。


 時間的に佐藤が注文した商品の配達でやってきた可能性が高い。佐藤はトラックを正面から見るような位置から眺めていたため、トラックの荷台側の様子を見ることはできない。おそらく荷台で荷物の確認をしているのであろう。1分ほど経ったところで、配達員が3つの段ボールをかかえてトラックの陰から姿を現した。そのままアパートの階段を登っていき、例の空き部屋の前で立ち止まった。玄関先にその段ボールを置き、配達員は手元の端末で何か操作をしているようであった。




 佐藤は何かが起こるのではと、見つめていた。その配達員だけに視界が一極集中していて、それ以外のものは視界に入らない状態になっていた。


 しかし、配達員はそのまま部屋の前をあとにして手際よくトラックの車輪止めを回収し、エンジンをかけて忙しく走り去っていた。


 トラックが無事走り去っていくことを見届けた佐藤は、ゆっくりと自分の手元に目線を送った。すると佐藤が手に取っていたサンドイッチはいつの間にかサンドイッチの様相を保つことができずにトマトもレタスもハムもパンもバラバラになっていた。あわてて、佐藤はそのバラバラになった元サンドイッチを平らげて証拠隠滅を図った。一口目よりはサンドイッチの味を多少は感じ取ることができた。


 とりあえずさっきのトラックおよび配達員は何事もなく通常業務に戻っていったことを受けて、佐藤は少し心に落ち着きが生まれた。注文したオンラインストアの中には、置き配に対応していないところもいくつかあったので、きっと配送住所に「玄関前に置いておいてください」という追記通り、玄関に置いてもらえたのだろう。




 どの注文がいま届けられたのかはわからないが、これで全てではなさそうだ。別々のオンラインストアで注文しているので、最低でも5つの段ボールが必要だ。いま届けられたのは3つのみである。


 いずれの注文であったとしても、いま確実に人が住んでいない部屋の前にそれなりの単価のモノが入った3つの段ボールが無防備に外気に晒されている。置き配が浸透した現代においては、もはや何の変哲もない、違和感のない景観なのだが、中身を知っている佐藤からするとそれは異様な光景であった。




 佐藤はその後も窓の外に目線をやりながら、チビチビとサンドイッチランチを食べ続けた。さすがに残すのは申し訳なさを感じたので、時間をかけながら食べ終えた。佐藤がサンドイッチを食べ終わることには、ランチタイムはすでに終わっていて、店内は閑散としていた。佐藤以外の客は2組ほどだった。いずれもランチ後のカフェタイムを味わうように過ごしていた。朝刊を隅々まで読み込んでいたり、読み込まれた文庫本に没頭しているような客がぽつんぽつんと店内に点在していた。


 かれこれ佐藤が入店してから2時間以上は経過している。それだけ長居する客も珍しくはないはずだが、佐藤は妙な居心地の悪さを感じたので、コーヒーのおかわりを注文した。何の気なしに2杯目はホットコーヒーにすることにした。アルバイトらしき店員は退勤したらしく、この店のオーナーの奥さんらしき女性が注文を取りにきてくれた。


 「コーヒーは豆が選べるんですけど、どうされますか?」


 店員はそう言って、メニュー表に記載されているコーヒー豆一覧の箇所を案内した。


 メニュー表には、コロンビア、パプアニューギニア、ブラジル、ガテマラ、ブレンド、と記載されていた。産地だけでなく、それぞれの味の特徴が丁寧にわかりやすく紹介されていた。


 「ブレンドでお願いします」


 佐藤は吟味したい気持ちもあったのだが、そんな心の余裕はなかったので無難(無難かどうかは定かではないが)なブレンドを注文した。


 「はーい、少々お待ちください」


 どうやらアイスコーヒーとは違って提供まで時間がかかりそうな雰囲気を感じた。


 佐藤は少しだけほっとした。長居していて、何をするわけでもなく外を眺め続けている佐藤に対して不信感や煙たそうな印象は抱いていない模様であった。少なくとも佐藤はその店員の接客態度からそう感じ取った。






 店内の時計は13時45分を指そうとしていた。


 指定した配達時刻は12〜14時。あと15分の間に更なる配達が行われる予定ではある。


 佐藤はいよいよ自分の仕事の明暗がはっきりするのではないかと思い、武者震いなのか、全身が震える感覚があった。その震えに呼応するかのように、例のアパート沿いの道に配送会社のトラックが到着した。このトラックの運転手も先ほどのそれと同様に手際よくトラックを降り車輪止めを噛ませて、荷台に方に向かっていく。そして、大小の大きさの異なる段ボールをいくつか抱えてアパートの階段を昇っていく。佐藤からの距離ではいくつの段ボールを運んでいるのかを確認することができない。


 そのまま配達員は例の部屋の前に着き、立ち止まった。抱えていた段ボールを先着の段ボールの上には重ねずに置いた。すると、配達員は先着の段ボールたちを確認しているようだった。しばらく確認したのちに、そのまま立ち去るかと思われたが、なかなかその場を立ち去ろうとしない。


 配達員は例の部屋のチャイムを押した。もちろんそれに対する反応はないはずなのだが、佐藤の鼓動は速くなっていた。何かが起こるのかもしれないと佐藤の頭の中を想像が錯綜した。佐藤の心配をよそに例の部屋が反応することはなかった。


 そのまま配達員が立ち去るのかと思ったが、配達員は何かを操作して耳に当てている様子だった。電話をかけているようであった。


 佐藤は自分の携帯電話が鳴るのではないかと自分の携帯電話のディスプレイと配達員に交互に視線を送った。自身の携帯電話が鳴ることはなかった。


 配達員を見ると誰かと電話がつながったようで、何かを話しているように見受けられた。何を話しているのだろうか。このまま玄関先に置いていいのかどうかを確認しているのだろうか。何か問題があったのだろうか。もしかして警察に通報されているのではなかろうか。もしそうだとしたら、このまま警察が来てしまったら、そこにある段ボールには佐藤が宛名になっているであろう伝票が貼られているはず。もしそうだとしたら、警察から佐藤宛に電話が入って事情聴取されたりしないだろうか。最悪そのまま—。佐藤の脳は思考を巡らせていた。


 配達員は話が終わったようで電話を切った。そして、再度部屋のチャイムを鳴らした。


 しかし、それは再放送のように同じシーンが繰り返されるだけであった。


 そして、配達員は何か手元の端末で操作を行い、段ボールを玄関先に置いたまま立ち去っていった。配達員は例の部屋の前に戻ってくることはなかった。何事もなかったかのように通常業務に戻っていったようだった。トラックに乗り込み、勢いよく配送トラックは走り去っていった。


 これで配達が完了したのだろうか。


 「お待たせしました」


 窓の外の世界に齧り付いていた佐藤は急に話しかけられ飛び上がってしまった。飛び上がった拍子にテーブルを揺らしてしまったが、かろうじてテーブルに残されていたほぼ溶けかけた氷と水と若干のコーヒーが混ざっているアイスコーヒーのグラスはゆらゆらと倒れかけたのだが、なんとか倒れずに再度直立に姿勢を戻すことができていた。


 「っ…失礼しました。大丈夫ですか?」


 注文していたホットコーヒーを持ってきてくれていたのだが、佐藤の挙動に佐藤以上に店員側も驚いていたようだった。いや、怪訝に感じたのかもしれない。


 「あ、すみません。ぼうっとしていたもので。大丈夫です。すみません」佐藤は弁明するために早口で答えた。


 「そうですか。それは失礼しました。ホットコーヒ―になります」


 店員はそう言って静かにコースターに乗せられたコーヒーカップをテーブルに置き、佐藤の右手側にコーヒーカップの取っ手がくるようにコースターを回した。


 「では、ごゆっくり」


 「ありがとうございます」


 コーヒーカップからは湯気がゆらゆらと昇っていた。佐藤はコーヒーカップに口をつけて、少しコーヒーをすする。どうやら佐藤の口そして身体はカラカラだったようで、熱々の液体が口、喉、食道を通って胃に到達するプロセスをその温度で感じることができた。


 その刺激を感じることにより、佐藤は自意識が徐々に回復していくことができた。


 そして、再度例の部屋に積み上げられた段ボールたちを見つめながら、この事態をなぞっていくことにした。




 さきほどの配達で佐藤が注文した商品は全て届いたのだろうか。


 例の部屋のチャイムは確実に鳴らされたが誰も出なかった。


 未だに段ボールは積まれたまま。


 いままでの仕事は商品を大山の手元に渡るようなルートを辿っているはず。


 では、今回の仕事はどのようにして大山の手元に届くのだろうか。


 これがどう仕入れ代行とやらにつながるのだろうか。


 最悪のケースとして、配達された際に何か無理やり荷物を奪い取るような行為が行われるのではないかと想像していたのだが、それはなかった。


 いずれの配送トラックも荷物を置いて走り去っていった。


 大山は「佐藤さんは気にすることではない」と言っていたが。


 やはり何か大山に連絡した方がいいのだろうか。






 それから佐藤は何の行動に移すこともできずに30分ほど例の部屋の方に視線を向けているだけだった。


 すると、先ほど配達トラックが止まっていた位置に1台のバンが止まった。白塗りのバンで配達に使われているような軽のバンだった。そのバンの後部座席から2人の男が出てきた。佐藤からは、遠目ではあるのだが、それが日本人ではなさそうな出立ちであることがわかった。服は2人とも黒で統一されている。運転手は車から降りることなく運転席に座ったままのようであった。


 車から降りた2人組の男は迷わず例のアパートの外階段を勢いよく昇っていった。そのまま例の空き部屋の方に向かって行き、積まれた段ボールを物色している。何かを話しているようだったが、その会話はおそらく3往復程度で終了した。そして、すべての段ボールを2人で抱えて急ぐ様子でバンの方に向かっていった。手際よくバンのトランクに段ボールを積み込んでいった。積み込みが完了すると、男たちは後部座席に乗り込む。後部座席はスライド式のドアだったのだが、そのドアが閉まり切る前に走り出して、どこかに去っていった。


 いま空き部屋の玄関前は何事もなかったかのように整然としていた。いや、この数時間で元の状態に戻っただけだ。


 彼らのその一連の動作があまりにスムーズで円滑で何の滞りもなく行われていたため、佐藤は唖然と見つめることしかできなかった。


 車が走り去っていたあとに、あれは動画に収めた方がよかったのではないかと思ったのだが、もちろんそれはもう時すでに遅しの状況であった。


 しかし、もしかすると彼らは大山とは関係のない第三者の可能性がないわけではない。これはひとつ大山に報告するべきではないかと佐藤は考えた。一方で大山に言われた指示、何も気にしないでください、という言付けもあったため、やはり報告すべきではない、知らんふりをしておくのが身のためだという考えも佐藤の中で巡った。それはまさに葛藤。


 このまま知らんふりをして健全な生活に戻ってしまえばいいのだ。そして転職先を見つけて、今度はまともなホワイト企業に入社して、ビジネスマンとしてこの東京という地で日本のトップの地で稼ぐのだ。稼いで稼いで田舎の両親たちにも恩返しをして、長男として家族に貢献するのだ。真っ当に誇れる仕事をするのだ。


 佐藤はそう思ったのだが、今回関わっている仕事の正当化、自分の正当化をしないと心の曇りが取れない。これから真っ当な人生をリスタートするには、正当化をする必要があると。ではないと、真正面を向いて歩くことができない。そう佐藤は思ってしまった。


 佐藤がそう自分で思い巡っていることを自認するときには、すでに大山にメッセージを送っていた。




——気にするな、という指示をいただいていたのに申し訳ありません。


  例のアパートの空き部屋の玄関先に届けられた荷物についてですが、日本人ではなさそうな何人かのグループが持ち去っていくのを見てしまいました。第三者が持ち去ってしまったのではないかと思い、念の為にご連絡しました。




 大山にメッセージを送ったあとに佐藤はやはりこれで本当によかったのだろうかと自問自答をした。が、その自問自答が完結する前に佐藤の携帯電話が鳴った。非通知からの着信だった。恐る恐る佐藤はその電話に出た。


 「…はい」


 「佐藤さん、メッセージいただきありがとうございます。本当に佐藤さんは仕事熱心ですね。感心しています」


 大山だった。初めて大山の肉声を耳にした。大山の声はあまりに冷たく温度がなく、佐藤の耳に一気に圧力がかかった。


 「ただ、今回の佐藤さんの行動自体は感心できるものではありませんね。残念ですが。ちなみにですが、佐藤さんが見たグループは弊社のメンバーですので、ご心配は不要です。佐藤さんに注文いただいた荷物を受け取りに伺ったまでです」


 「…そうなんですか。しかし…」


 静かなカフェの中で佐藤の電話は迷惑になるかもしれないと思い、電話に耳を押し当てたまま一旦佐藤は店の外に出た。


 佐藤は緊張のあまり次の言葉を見つけることができなかった。ストレートなワードしか思いつかなかった。


 「これは…仕入れ代行なんですよね?ちゃんとした仕事なんですよね?大山さんの会社は実在していて、真っ当な仕事っていうことでいいんですよね?」


 そのワードでしか質問することができなかった。これで佐藤は正当化できると。自分の正義は保たれると。このあとの大山からの回答で安堵できるはず、と佐藤は祈った。祈って大山からの回答を待った。


 「佐藤さん—」大山の柔らかいトーンでそう呼ばれた。そして大山は佐藤を諭すように続けた。「佐藤さんにやっていただいた仕事は真っ当な仕事ですよ。仕入れ代行という名の。第三者のカードを使って商品を仕入れて、それを転売することで利益を出す、そんなビジネスモデルです」


 「…第三者のカード…ですか?」佐藤にとってはあまりに聞きなれないワードであった。


 「そうですよ。佐藤さんがいつも注文する時に入力していたクレジットカードは、誰かの、赤の他人の、見ず知らずの人の、カードです。なんの関わりもない人たちのカードを使って佐藤さんは注文を繰り返していたのです」


 「…っ!」


 佐藤の頭の中は一気にホワイトアウトした。何も事態を整理することができない。まさに愕然とし唖然とし茫然と立ち尽くしていた。


 それを大山は手に取るように把握しているかのように話を続けた。


 「佐藤さん、あなたがやっていること、そして私がやっていることは、完全なる犯罪です」大山は何も悪びれる様子もなくそう言った。確かにそう言った。まるでさも当たり前の、公然の事実であるかのように。


 「さあ、佐藤さん、どうしますか?」


 佐藤の脳に直接大山の冷たい声が響いた。


 「警察に通報しますか?」


 「…」佐藤の喉は、声帯は動くことができない。


 「通報できないですよね。佐藤さんが、佐藤さんの意思で佐藤さんの端末で佐藤さんの手で、第三者のカードを使って注文しているわけですから。そしてその証拠はきっちり残っています。それでも巻き込まれただけだと言って、警察を頼ってもいいですよ。ただ、そのときは残念ですけど、本当はしたくないのですが、佐藤さんが犯罪に加担していたということを世の中にばら撒きます。もちろん佐藤さんのご両親にも」大山は淡々とつらつらと言葉を並べていっている。


 「それに家賃の更新料の支払いもあるんですよね?」


 佐藤は黙って立っているだけでやっとだった。


 大山は一段と低い声で佐藤に優しく語りかけるように言った。


 「佐藤さん。私は本当に佐藤さんを評価しています。これは私の本心です。こんなに仕事ができる人はなかなかいないです。なので、私は心の底からこれからも佐藤さんと仲良くしたいと思っています」


 大山は一拍置いた。


 「どうですか?私と一緒にこちら側で稼ぎませんか?もちろん今よりももっといい報酬をお支払いします」


 佐藤は消えそうな声で「はい」とだけ答えた。


 その後大山から翌日指定された住所に来るように伝えられ、電話は切られた。


 佐藤は茫然自失の状態で店内に戻り元の席に着席した。


 すると携帯電話に通知が入る。今回の仕事の報酬である15万円分の仮想通貨が送られてきたようであった。その通知だけを見て佐藤は携帯電話をポケットにしまった。着席した佐藤はぼうっとテーブルを見つめた。


 テーブルにはすでに冷め切ってしまったコーヒーが佇んでいるだけだった。

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