エリヤ
喉の奥に魚の小骨が痞えている。
午後にギル様と話してからずっと、もどかしい不快感が付きまとっているのだ。
エリヤ――どこかで聞いた覚えのある名前なんだけど、思い出そうとすると、頭に霧がかかったように思考が覚束ない。
パーティーから既にひと月が近く経っている。それでなくても、彼岸を渡りかけたり魔法が突然使えたりと色々あったせいで、断片的には覚えていても、それらの記憶が上手く繋がらないのはさもありなん。
……大事なことなら、いずれ思い出せるはずだよね。
わたしは凡人だから、飛び抜けて記憶力が良いなんてことはない。容量は有限だ。だからなるべく毎日、日記をつけてアウトプットしている。これは今世からの習慣だ。前世は三日坊主で、日記どころか手帳すらまともに記していなかった。
今世で日記が続いているのは、生まれ持った性格なのだと思う。昔の“わたし”と今のわたし、記憶があっても決定的に違う人間だと感じるのはこういう時だ。
ただ、お茶会からしばらく寝込んでいたので、当然ながらその間のページは真っ白である。
記帳を再開したのは魔法が使えた翌日あたりだった。
「ハリー、具合でも悪いのかい?」
あんまりぼんやりしていたものだから、夕食の時間に両親から声を掛けられても気付けなかった。
父はわたしの体調を心配してくれたけど、母は、
「ハリエットったら、殿下にお会いしてまだ夢見心地なのね」
と言うお花畑的思考で、わたしを恋する乙女に仕立て上げてきた。
油断も隙もないな!
ギル様から向けられる視線に同情が混じっているのは、わたしの被害妄想ではないはず。
王子様に興味がないどころか、学園で格下の貴族、あるいは市井の民と恋に落ちる計画を立てていると知られたら、どうなることやら……
シナリオと言う名の運命に立ち向かう覚悟は決めたけど、馬鹿正直に真っ向勝負を挑むつもりは毛頭ない。逃げても良い場面では逃げるつもりだし、恥とも思わない。何事も落とし所は大事なのだ。
これから先の人生を平和的に生きるため、わたしは王族と関わりたくはない。
「……少し疲れてしまったの」
千客万来じゃないけど、ひとりで千人分くらいのプレッシャーがある殿下を相手にするのは、本当に気疲れした。いくら相手が見た目によらずフラットでフレンドリーな性格でも、王子様(仮)だもの。粗相は出来ないし、迂闊なことも言えない。
殿下の質問攻めも地味にきつかった。好きな食べ物はもうバレているけど、好きな色や音楽、趣味など、諸々を聴取されてぐったりだ。わたしの嗜好なんか調べて何が楽しいのか。
天上人は気紛れで、よく分からん。
好きな花を訊かれたとき、わたし自身は牡丹や向日葵みたいに大柄な花が好みだと伝えつつ、殿下は自分で育てるほど薔薇を愛でているから、さり気なく「薔薇も華やかで素敵ですよね」とヨイショすることを忘れなかった。昔取った杵柄とばかりに、社会人経験がここでも生きている。
薔薇の品種なんて、うららとロマンティックアンティークくらいしか知らないけど。
以前の“お友達”は良くも悪くも子どもらしい話し運びや話題ばかりで、大人だった頃の記憶が邪魔をしてどうしても会話を楽しめなかったのだけど、ロッテや殿下は八歳と言う年齢のわりに大人びてしっかりしているので話していても苦にならない。
これが素養の違いってやつなのかしら。
――まあ、殿下との会話は別の意味で苦行なんだけどね……
仏陀じゃないので苦行とか求めてないし、マジやめて欲しい。
「おもてなし、ご苦労だったね。今夜は早めに休みなさい」
「はい、お父様」
実際、今日のわたしは頑張ったと思う。よそ行きの笑みを作り過ぎて、今にも顔が攣りそうだ。あったかい湯船に浸かって、ベティ達に顔や身体を念入りに揉み解してもらおう。
ふかふかお布団が恋しい。
食後のデザートを断ってお茶を入れてもらう。うちの家族ってみんな紅茶派だから、家にコーヒー豆を置いてないんだよね。それなりに高価な物だけど、お願いすれば余裕で買ってもらえると思う。ドレスを新調するのに比べたら可愛すぎる値段だ。この前のお茶会でも飲めなかったし、今度おねだりしてみようかな。
湯気を立てるティーカップにそっと息を吹きかけて、蜂蜜を溶かしたほのかに甘い紅茶をゆっくり飲み込む。カモミールに似た優しい香りが心を安らげてくれる。
食道から胃にかけて、あったかい紅茶が染みるように伝わっていく。
それでもまだ、喉には飲み込みきれない小さな違和感が残っていた。
◆
アマーリ殿下がわたしの快気祝いに訪れたと言う本日の珍事は、屋敷の若い女子達にとって恰好の餌となったらしく、なぜか当事者――わたしだ――を置き去りにして、そこかしこで盛り上がっていた。
小中学生のときに一定数の女子が通過したであろう、「何某君、◯◯ちゃんのこと好きなんじゃない?」「え〜、そんなことないよぉ〜」と言う儀式を、まさか今世で自分が迎えることになるとは思わなかった。
前世、恋バナとは縁のないまま人生を終えたわたしだが、特に悔いは残っていない。他人の恋愛話なんて、したいとも思わないし聞きたいとも思わない。興味がないのだ。対象が自分となれば尚更だった。
ゆえに、現状ははっきり言ってかなりキツイ。全身に蕁麻疹が出そうだ。
生きてるだけで国宝クラスの殿下に、わたしなんか釣り合うわけがないじゃない。将来的に王妃とかマジ無理だし。
よく見てよ、わたしだよ?
この縦巻きドリル娘が国母って柄か?
だと言うのに、彼女らはまるで少女漫画にときめくように、精霊の子と公爵家のお姫様の恋物語に夢中だった。
そして、それはベティ達も例外ではなかった。
バスルームは、もっぱらアマーリ殿下の話題で持ちきりだ。
「殿下と、どんな会話をされたんです?」
「普通に世間話をしただけよ」
何も特別なことはなかったのだと言っても、「またまたァ」みたいな、ニヤついた顔をされてイラッとくる。これはアレだ、何を言ってもムダなヤツだ。相手をするだけ疲労が溜まり続ける無限ループだから、まともに遣り合ってはいけない。
リラックスタイムなのに、全然リラックス出来ない。
「それにしても、本当にお美しいお方でしたね」
メイがうっとりと呟く。
「ホントそれよ」そこは完全に同意だ。「さすが、精霊の子って言われるだけのことはあるわね」
八歳にしてあの美貌とは末恐ろしい。あんな美形の隣に並ばなきゃいけないって考えただけで心が凍るわ。公開処刑かよ。
「まさか、精霊の子を間近で見ることが出来るなんて思いませんでした。夢みたいです」
リサの言にベティが深く頷いた。
「家族へ自慢する話が増えました」
「いや、それはやめて」
食い気味に止めに入ったわたしを、ベティが不思議そうに見つめてくる。
「なぜです? 殿下の婚約者は姫さましかいないって、いい牽制になるじゃないですか」
本気でそう思ってるのだろう、無垢な視線に頭が痛い。
怖いことを言うんじゃない。
「だめよ、噂を広めたくないの」そんなことをしたら、全方位に望まぬ敵が爆誕しちゃう。「殿下にもご迷惑になるし、そもそも彼は友人としていらしただけよ」
頼むから言いふらしてくれるな。
わたしは穏やかに生きたい。
でも、ベティ達に口止めしたところで他の人の口から漏れる可能性は極めて高かった。
筆頭はうちの母だ。
おそらく、誰もあの人を止められない。
娘を自慢したい親の気持ちは分からなくもないけど、わたしの知ってるそれとはスケールが違いすぎて対処に困る。
この上、お城に招かれただなんて報告したら、お母様はますます助長してしまうだろう。
でも王宮へ行く以上、両親に言わないわけにはいかない。ギル様も借りるわけだし……
「疲れる……」
シクシク鳴き始めたお腹を、湯船の中でそっと押さえる。この痛みとも、社会人になってからは当たり前のように付き合ってきたけど、まさか生まれ変わってこの若さで再会する羽目になるとはね……
あとで胃に優しいハーブティーをジーンに淹れてもらおうと決めて、わたしは深いため息を吐いた。
入浴を終えて部屋に戻ると、今日の出来事を脳裏に叩き込むように、クリスタルの花瓶に活けられた立派な薔薇が視界に飛び込んできた。
侍女達による囲み取材から解放されて、やっとひと心地つけると安堵していたわたしの顔から表情が消える。
床に伏しているとき、アマーリ殿下から送られてきたのは片手で持てるほどの小さくて可愛らしいブーケだったけれど、今日のそれは両手で抱えるほどの質量があった。ドレスのように花びらが幾重にも重なって咲く、鮮やかなピンク色の薔薇の花束だ。
とても綺麗だし、甘い香りがする。
これは、ロッテを見送って部屋に戻ったら活けてあった。無言でベティを振り返ると、「やってやりましたぜ!」と満足げなドヤ顔で頷き返されたのだ。
……まあね、この花束の受取人はわたしだものね。何も間違ってはいないし、怒るようなことでもない。
でも、これを見ると気分が滅入る。
今もそうだ。
花に罪はないけど、面倒事に関わりたくないわたしの希望はことごとく上手くいかなくて、正直落ち込む。
殿下は、どう言うつもりでわたしを構うのだろうか。
好意的な雰囲気は感じるけれど、それが恋愛感情とは思えない。会うのは今日で二度目だし、前回だってほとんど会話はなかった。それでどうして惚れた腫れたの話になるのか。
そうかと言って、毒林檎事件の責任を必要以上に感じている風でもない。――感じていたら、あんなにグイグイ来るわけがない。
だからつまり、好奇心から近づいていると言う見解が実はいちばんしっくり来るのだ。
……わたしは珍獣でもおもちゃでもないぞ。
ムカつくけど拒絶するわけにもいかないから、適当に付き合いつつ、さっさと飽きてくれることを願うばかりである。
どんなに大人びていても、彼も八歳の子どもには変わりない。ましてや、子どもの好奇心なんて移ろいやすいものだ。他に興味を惹かれたら、あっさり乗り換えてしまうだろう。
「はあ……気が重い……」
室内履きを脱いでベッドに倒れ伏す。もうハーブティーを頼む元気もなくて、目を閉じた。
いっそのこと、何も考えずに現状を楽しめたらどんなに気楽か知れない。現れるか分からないヒロインや、訪れるか分からない断罪イベントに備えて生きるのはかなり疲れる。
アカデミー卒業の十八歳が審判の時と仮定して、それまであと十年もある。このままじゃ、エンディングを迎える前にストレスで人生がクライマックスになりそうよ。
せっかくこんなに可愛くてお金持ちに生まれたのに、今のところわたしが得たものは暴走気味の魔力と気苦労だけだ。
なんだか、人生を激しく無意味に消耗してる気がする……
決して裕福ではなかったけど、母子四人で慎ましくしたたかに生きていた前世では、わたしはもっと自分らしくいられた。
好きなものを好きと言える自由があった。
歳の離れた弟妹は、大きくなるにつれて生意気なところも出てきたけれど、父親がアレだったから姉弟の結束は固かったし、なんだかんだ憎まれ口を叩いても弟妹とは可愛いものなのだ。
特に弟は、父親に似て顔だけは無駄に良かったから、妙な女に引っ掛かりはしないかと気が気ではなくて、何度気を揉んだか知れない。
ナニをとは具体的に言わないけど、くれぐれも気をつけるようにと口を酸っぱくしていたら、とうとう「ウザい」と邪険にされるようになってしまった。
だけど、自分の義妹がデキ婚を企むような性悪女だったらイヤじゃん? お姉ちゃん、そんな嫁と仲良くやれる自信がなかったんだよ。
でも、姉ちゃんは心配しすぎなんだと心底迷惑そうに顔を歪めていた弟の気持ちが、庇護される立場の子どもになった今なら良く分かる。
皮肉なことだ。
転んだときの痛みを知っているから、大事な人には転んで欲しくなくて、つい必要以上に干渉して手を伸ばしてしまう。
本当は、転んだ痛みを知るべきなのに。
――君の言う通りだな。私はどうも、心配性でいけない。
薔薇の陰に隠れて苦笑いを浮かべる少年の顔を思い出し、瞼を開ける。
艶のあるダークブロンドから覗く、ヘーゼルグリーンの眸が印象的な男の子だった。
――弟だって、いつまでも幼い頃のままではないと分かってはいるのだがな。
「……エリヤ」
パーティーに参加する弟が心配だからと、薔薇の茂みに隠れていた奇妙な少年。
彼は上級貴族の子女が集まる茶会で、なんの躊躇いもなく、公爵令嬢であるわたしの頭を撫でた。
あまりにも自然と手が伸びたものだからわたしも失念していたけれど、それは本来、無礼に当たる行為だ。
でも、相手が自分より高貴な身分であれば話は変わってくる。
あの日、庭園で第一王子を見たと言う目撃証言は、紛れもなく真実だったのだ。




