花に嵐
王子に纏わるあの噂は事件直後からあったのだと、部屋へ戻る途中、ロッテが気不味そうにしながら教えてくれた。
どうやら貴族間のみならず、王都の市民の間でも、実しやかに囁かれていたらしい。
長らく床に伏せ、目覚めてからも絶対安静を言いつけられていたわたしの耳に届かなかったのは、家人の配慮だろう。
――第一王子が、精霊の子を殺そうとした。
とんでもない。実にとんでもないことだ。そんな噂が飛び交うこと自体不敬極まりないけれど、なにより、渦中の人はまだ十一歳の少年なんだぞ。
良心はないのか!
イライジャ王子の人となりは知らないけれど、あのギル様が心を砕いている相手だ。悪い人だとは思えないし、思いたくない。
数日前、魔術訓練場で、「殿下を見たか」と問いかけた兄の意図がようやく掴めた。大切な友人に不名誉な疑いの目が向けられているのだから、焦る気持ちは大いに理解出来る。
大事なことだから繰り返すけど、王子はまだ十一歳なのだ。世が世ならプロレス技に磨きをかけたり、テレビゲームに興じたり、少年誌の主人公に憧れたり、そう言うバカバカしくて平和な生活をして然るべき年頃なのである。
どうせ、大人の仕組んだ罠に決まってる。イライジャ派かアマーリ派か知らないけど、とんでもないクソ野郎だ。
あのパーラーメイドは極秘裁判の後、内々に死刑が執行されたと数日前の新聞で読んだ。
大手タブロイド紙の一面を飾るセンセーショナルな事件だ。裁判はともかく、国家を揺るがす大罪人なのだから、本来なら公開処刑でもおかしくないのに、すべてが不自然なほど秘密裏に処理されている。
情報規制がされている反動か、新聞は彼女を――サマンサ・ロマンを稀代の悪女として執拗に吊るし上げた。事件の概要をなぞり、動機を推察し、果ては暗殺集団の一味であったのではと妄想を広げ、面白おかしく騒ぎ立てたのだ。
さらに犯人の処刑に伴い捜査は打ち切り。毒の入手経路などはうやむやのままだが、事件は強制的に決着を迎えた。これでもう、表立って王子が糾弾されることはない。
わたしは彼女を王族暗殺に加担した捨て駒だと思っていたけど、事態はもっと悪いのかもしれない。
もしも彼女が無実なら?
あの杜撰な犯行計画が計算のうちなら?
王子の関与をほのめかす噂話を否定する、そのためだけに極刑に処されたスケープゴートだとしたら……
「……元気出して、ハリエット。きっと何か誤解があるのよ」
黙りこくったわたしを元気付けようと、ロッテが慰めてくれる。どうやら、第一王子の関与の疑いに相当強いショックを受けたと思ったらしい。
衝撃は受けたけれど、それよりもわたしの中にあるのは強い怒りだった。公衆の面前でブラックダリアに果実水をぶっかけられても怒らなかったわたしだけど、今は腹わたが煮えくり返っている。
実の兄が自分を殺そうとしたなんて、そんな恐ろしい話をアマーリ殿下が耳にしているなんて考えたくもないけれど、王宮のような伏魔殿でそれを知らずにいるのは不可能だと思う。
精霊に愛されたと言っても、あの子はわずか八歳の子どもなのだ。そんな幼子が背負うには、このゴシップはあまりにも残酷で無責任が過ぎる。
誰かが王家に牙を向いている。
敵味方関係なく巻き込む、まるで嵐のようなやり方で――
「……殿下は大丈夫かな」
くちびるから落ちた独り言は雨粒のように小さくて、どうしようもなく無力だった。
◆
翌日、五月第三週、太陽の日。
心待ちにしていた極上のアップルパイは、愛らしい薔薇のブーケと華やかな嵐と共にわたしの元へやってきた。
「君が元気になって良かったよ」
キラッキラの眩い笑顔を振りまく我らがアマーリ殿下は、本日もご機嫌麗しい。
「……その節は、ご心配をおかけ致しまして……」
「いや、こちらの不手際だ。君には本当に申し訳ないことをしたと思っている」
「恐れ入ります……」
あんなに楽しみにしていたアップルパイの味がまるで分からない。
手紙には何も書いてなかった。「アップルパイと一緒に僕も行くよ!」なんて、どこかに書いてあった? ないよね?!
「……まさか、殿下にお越し頂けるなんて思いませんでした」
言っといて! 来るなら来るって、ちゃんと言っといて! ホウレンソウって本当に大事だからね!?
王族を相手に文句なんて言えないけども、来ると分かっていたなら、もう少しマシな心構えが出来たものを……!
王族のアポ無し来訪に、白目を剥いたのはわたしだけじゃない。グラニースミス家の面々および客人のシャルロットは、上を下への大騒ぎであった。
例外として、ギル様だけはすごく面倒くさそうな顔をしていたし、ジーンはびっくりする程いつも通りだったけれど。
彼らを除いて、わたし達の心はかつてない程ひとつだった。
――おまえも来たんかいッ!!
コンサバトリーへ案内しようとした両親の申し出を、アマーリ殿下は恐ろしいひと言で退けた。
「僕は今日、ハリエット嬢の友人として来ましたから」
オー、マイフレンド。
おかしいわ。わたし達、いつからお友達だったのかしら。
友情って片方の意思だけで成り立つものじゃないわよね?
「ねえ、ハリエット。君の部屋に案内してもらってもいいかな?」
「えっ……」
にっこりと擬音がつく程に見事な、お手本のような笑顔だった。嫌だよアップルパイ置いて帰れよなんて言えるわけがない。
王族の圧倒的な社交術に飲み込まれてしまう。
「よ、喜んでぇ……」
居酒屋の店員みたいなレスポンスしか出来なかったわたしを、誰が責められるだろうか。
「美味しい?」
「……はい、とても」
パイ生地はサクサク、中の林檎はシナモンが効いていて、平時に食べればそれはもうほっぺたが落ちるほど美味しかったに違いないアップルパイだが、緊張してまったく味わえない。
ホントに帰って欲しい。
何が楽しいのか、殿下はわたしの食べる姿をニコニコと見つめてくる。余計に食べづらいわ!
わたしの隣に座るロッテは、ただ無言で紅茶を飲む機械と化していた。しかし、その亜麻色の眸は殿下をガン見である。ここぞとばかりに見つめている。豪胆すぎるだろ。彼女の肝の据わりっぷりには敬意と羨望を禁じ得ない。
しかし彼女からは、積極的に場を盛り上げていこうと言う意志が微塵も感じられなかった。
つまり、わたしが殿下とのコミュニケーションを頑張るしかないのである。
地獄か。
こうなることを懸念して、兄にも声を掛けたのだ。我関せずを決め込む彼の腕を逃すもんかとガッチリホールドして、必殺の上目遣いで「お兄様も、ぜひいらして」とお願いしたら、ものすごーく嫌そうな顔をされた。案の定、ギル様にこの手は通じなかった。けれど、それで諦めるわたしじゃない。
せいぜい可愛らしく見えるよう、「ね、いいでしょう? お願い、お兄様」と愛嬌を振り撒くわたしの目は、一ミリも笑っていなかったことだろう。だってギル様の顔が引きつっていた。
だが離すものか。死なば諸共である。
道連れにしてやると言う強い意志で、“お兄様大好き”な妹を演じていたら、なんとアマーリ殿下に兄から引き剥がされてしまった。
「ギルは忙しいでしょう? 僕のことは気にしなくていいから」
かくしてわたしは兄に見捨てられたのである。
部屋に着くなり、殿下は従者も侍女も下がらせてしまった。完全にプライベートを満喫するつもりだ。
一応ここ、わたしん家なんですけど。
お茶会で見かけた殿下はとても中性的なファッションで、髪も三つ編みにしていたけれど、今日は如何にも男の子って感じの服装だ。髪も、後ろでひとつに括っているだけのシンプルなもので、とても少年っぽい。
さっきからずっと、一人称も“僕”だし、きっとこの方の中では既に自分の在り方が決まっているのだろう。
だとするなら、わたしが婚約者レースから除外される望み薄ってことよね……
「ハリエットはギルバートのことが好きなんだね」
赤と青の目を細め、殿下がさらりと言う。
好きか嫌いかで言えば好きだけど、憎たらしいなって思うこともあるし、剣術指南で苦戦しているのを見ると、「もっとコテンパンにやられてしまえ」とも思う。
愛情って複雑よね。
「はい、尊敬しています」
「でも彼、言葉が足りなくない?」
渋い顔をしてみせるあたり、アマーリ殿下もギル様にやり込められた経験があるらしい。
……王族相手にもブレないな、ギル兄さん。
「足りないと言うより、あの人は言葉のチョイスが最悪なんですよ」
いくら大きな猫で体裁を整えたって、あの性格は直さないと敵を作る一方だぞ。
殿下は、左右で色の異なる宝石みたいな目をパチパチさせて、「ああ、確かにその通りだ」と笑った。
「損な性格だよね、彼も」
「おっしゃる通りです」
悪意なく虐げられてきたわたしが深く感じ入って頷くと、我慢出来なかったのか、ロッテが声を上げた。
「あら、ハリエット様。ギルバート様はとてもお優しい方ではないですか」
「シャルロット様はお兄様の外面の良さに騙されてるだけですわ」
「そうだね。シャルロット嬢も一度、彼の洗礼を受けるといい。認識が改まるよ」
「お二方とも、散々な言い様ですね」
困惑気味に首を傾げるロッテへ、わたしと殿下は追い討ちをかけるかの如くギルバート列伝を語って聞かせる。
ありがとう、お兄様。貴方の悪口で、わたしと殿下は打ち解けました。
仲良くなってる場合じゃないんだけど、でもまあ、険悪な関係よりは百倍マシと言える。
ようやくアップルパイの味も分かり始めた。うん、さすがは王室パティシエ、良い腕をしている。文句なく美味しい。
「そんなに気に入ったの?」
香ばしいパイ生地のサクサク食感、しっかりバターの染みたアップルコンポートの味わいに遅ればせながら感動していると、おかしそうに殿下が細い肩を揺すった。
……よっぽど美味しそうに食べていたんだろうな、わたし、
淑女としてちょっと反省しつつ、こほん、と空咳をする。
「大変素晴らしいお味です」
「アップルパイ、好きなんだね」
「はい」
邸宅のシェフに、事あるごとにアップルパイを作らせる程には大好物です。
じっくりとお皿を眺める。うちのシェフが作るアップルパイと、どこがどう違うのかしら。今度、料理長に相談してみよう。
フォークを握り直し、再びアップルパイを賞味しようとしたわたしへ、殿下は木漏れ日ように穏やかな笑顔で焼夷弾を投げ落とした。
「気に入ったのならまた作らせるから、今度、お城へ遊びにおいでよ」
「おしっ、ろへ、ですか?!」
演算処理能力の低いパソコンみたいな声が出てしまった。ロッテの視線が痛い。ヤダ、見ないで……
「ギルバートが僕の兄と仲が良いことは、この前、話したよね?」
「は、はい……」
第一王子の話題が出て気不味くなるが、当の殿下はまったく気に留めていない様子だった。
「以前にね、家族の話をしたとき、彼ってば『様子のおかしい妹がいる』なんて言うものだから、僕も兄もずっと気になって仕方なかったんだ」
「…………まあ、そうでしたの」
あのクソ兄貴、あとで処す。
隣でロッテの身体が小刻みに震えている。いいのよ、我慢しなくても! 笑いたきゃ笑いなさいよ! どうせわたしは様子のおかしい妹よ!
「兄さんも君に会いたがっていたのだけど、今日、彼はどうしても抜け出せない用事があってね。だからさ、近いうちに今度は君が遊びに来てくれたら嬉しいな」
屈託のない笑顔を向けられて、荒んで尖っていた心がちょっとだけ丸くなる。
子どもらしい、裏表のない明るい表情は、どこまでも兄を好いたらしく思う“弟”のものだ。
心ないあの噂を知らないわけではないだろうに。
「殿下も、兄君のことをとても好いていらっしゃるのですね」
「もちろん」
わたしの問いかけに、彼は笑みを深めて頷いた。
「僕らは何も変わらないよ。今まで通りにね」
「……そうですか」
今まで通り、兄は弟を、弟は兄を信じている。
どうやら、玉座の簒奪を狙う誰かの投げた石は、彼らの心に疑心暗鬼の細波を立てることに失敗したらしい。
「あっ、ところで僕がさっき教えたこと、ギルには秘密にしてくれる? 君にバラしたって知られたら、どんな仕返しされるか分からないんだ」
様子のおかしい妹発言のことか。
両手を合わせて頼み込むアマーリ殿下へ、わたしはそっと首を振る。
「それは出来かねます」
「ええ……参ったなあ……」
眉を下げた困り顔の子どもは小動物のように愛らしく、お茶会で見た人形のような姿とはまったくかけ離れていて、わたしには好ましく映った。
「でも、安心なさってください。殿下に報復なんてさせませんわ」
わたしは今日イチ輝かしい笑顔で右手に青い炎を灯すと、それを一気にくしゃりと握り潰して見せた。
「あいつはあとで燃やします」




