兄と妹
程良く冷えたアイスティーを喉に流し込むと、細胞の一つひとつに冷たさが沁みて生き返る心地がした。そう、この一杯のために生きている。今日はとても良い陽気なので、冷えた飲み物が一段と美味しく感じられて嬉しい。
自らの破壊した訓練場が、サンタ先生および有志の手によって着々と修復されていくのをベンチに座って眺めながら、木陰を抜ける初夏の風に目を細める。
わたしと兄へ給仕した後、サンタ先生に呼ばれて修復作業へ駆り出されたジーンは、去り際、とても物言いたげな視線をわたしへ寄越した。
あの男、どうせ失礼なことを考えていたに違いない。
不届きな従者を手で追い払ってしまえば、わたしは兄とふたりきりでベンチに取り残された。
当然のように会話はない。
兄のことは好きだし尊敬しているけれど、楽しいお喋りの相手として適切かと問われたら答えはノーである。
前世で経験した付き合い合コンの気まずさを思い出すが、顔面のレベルは雲泥の差だ。うちのギル様と同じ土俵に立つことすらおこがましい有象無象の顔貌などほとんど覚えていないが、愛想良くする義理もないのでひたすらビールを飲み、つまみを貪っていたことは良く覚えている。
あの無益な時間に四千円……決して高給取りではなかったわたしには、かなり痛い出費だった。
どうせなら、そのお金を推しに課金させて欲しかった。
こうして、わたしが遥か昔の記憶をいくら掘り起こしても、ギル様と建設的な会話をする話題の糸口にはならない。
よその兄妹って、普段はどんな会話をしているものなのかしら……
我が家は悲しいかな、あまり一般的な関係ではない気がする。兄は美しいが棘だらけの高貴な薔薇だし、妹は庶民感覚の抜けないペンペン草だ。もはや、生きてるフィールドからして違う。
第一、この生真面目な兄がご友人と雑談に興じる姿なんて想像も出来ない。十一歳の男児なんて、野球やサッカーに夢中で、覚えたてのプロレス技をやたらめったら仕掛けようとしてくるイメージしかないのよ。ソースは前世の弟。返り討ちにしてくれたわ。
そもそもギル様の交友関係なんて、わたしは存じ上げないのですけども……
――うん。いや、ひとつだけ知っている。
ギル様と第一王子のイライジャ殿下は親しい間柄であると、アマーリ殿下が教えてくれたではないか。
わたしってば、毒林檎騒動で死にかけていた当事者だったので、すっかり忘れていたわ。ついでに、王宮でわたしの個人情報をダダ漏れにした父をシメるのも忘れていた。
殿下のあの口振りだと、兄が登城して彼らと会ったのも一度や二度ではないのだろう。「親しい」と評されるくらいだから、互いに剣技や魔法、学問で日々切磋琢磨し合う関係なのかも知れない。言わば好敵手と言うやつだ。
第一王子のお顔は存じ上げないけれど、あのアマーリ殿下の兄君なのだから、美しくないわけがない。
やだ……すごく見たい……
美少年って生き物は、どうしてこうも透明感と背徳感に溢れているのかしら。なぜいつも、風と木を詩わせちゃうのかしら。
わたし、前世も含めてそっちの趣味はなかったはずなのだけど、御三方が並ぶ姿を想像しただけで胸の高鳴りが止まらない。
だってそれは、さぞや絵になる光景なのでしょうから。
感嘆を禁じ得ず、ため息がこぼれる。
美しいものは好きよ。
顔の良い男は信用ならないけれど、造形が我々の次元を遥かに超えるレベルの美形になると、もはや同じ人間としてカウントしてはいけない厳かな気持ちになる。
推したい。
課金したい。
見守りたい。
「わたしは壁になりたい……」
「……急にどうした」
いけない、心の声が漏れてしまった。ギル様の顔が強張っている。妹がいきなり「壁になりたい」なんて呟いたら、そりゃ気持ち悪いよね。分かる。
「お兄様。わたくし、お伺いしたいことがありますの」
先の発言をまるっきり無かったことにして、わたしは何食わぬ顔で兄と向き合った。当たり前だけど、彼はあからさまにこちらを不審がっている。
「……言ってみろ」
それでもちゃんと話を聞こうとしてくれる辺り、この人は根っからの善人だった。
「お兄様は、いつ頃からイライジャ殿下とお親しくされていらっしゃるの?」
その辺りの情報がわたしにシェアされなかったことについては、とりあえず不問だ。単純に、家族間でのわたしのプライオリティが低いのかも知れないけれど、もしかしたら秘匿すべき理由が何かあるのかも知れない。
まあ、仮に周知されているのなら、お兄様に興味津々だった元“お友達”の御令嬢方がこんな美味しい話を放っておくはずがないのよね。あの肉食娘どもに質問責めにされて、わたしは骨までしゃぶり尽くされていただろう。
縁が切れて本当に良かった。
「それは、誰に聞いた?」
「アマーリ殿下です」
「ああ……」
あいつか、と乱暴に呟いたのは聞き間違いではない。殿下を「あいつ」呼ばわりも驚いたけど、兄のぞんざいな口調も新鮮だ。
「半年近く前に、王宮で合同演習があったのを覚えているか?」
「はい、騎士団主催の剣術指南ですね」
アカデミー入学前の児童を対象としたイベントで、貴族のみならず一般市民も参加オッケーと言う触れ込みだった。この国は中立と言う立場を守るために国防に力を入れており、そのため男女問わず騎士の門は開かれている。
中立国と聞くと、戦争のないのんびりしたイメージがあったんだけど、とんでもなかった。ブレナムは他国へ戦争をふっかけない代わりに、少しでも領土領空領海侵犯が起きた場合、「やられたらやり返すぜ! 倍返しでな!」を国際会議で宣言した、わりと血の気の多い国なのだ。
なんだか、どこかのチーズ連邦国を思い出す。
この国の子どもたちにとって騎士団は憧れの的であり、そんな騎士団を間近で見られる貴重な機会と言うことで、合同演習イベントは人気が高い。
剣の腕前なんてからっきしのわたしは、もちろん不参加だ。イベントの存在自体、忘れていた。
「お兄様は参加されたんですね」
「ああ」兄が頷く。「そこからの縁だ」
思っていたよりは最近の話だった。
「まあ、知りませんでしたわ」
「……あまり言いふらすことでもないだろう。おまえも無闇に口外はするな」
「分かりました」
沈黙は金なり、と。
子どもであるわたしに話が降りてこなかった理由が分かった気がする。
王族と懇意にしてるなんて、やっかみのタネだものね。ちょっと話しただけで水ぶっかけられて死にかけることもありますし。ええ、もちろん経験済みでしてよ。うふふ、ウケるぅ。
「普段はどんなことをなさっているの?」
好奇心で訊ねてみる。
お兄様は外面を装うのが大変お上手でいらっしゃるので、わたしと違って王子の前でも粗相なんてしないんだろうな。
杖を交えて互いに鍛え合うも良し、静かな午後の図書館で詩を読み耽るも良し……
「もっぱら剣の稽古だ。第一大隊長のレッド中佐が王子の指南役を請け負っているから、一緒に師事を受けている」
「剣術ですか」
なるほど、剣戟を響かせながら共に高め合う……素晴らしいです、お兄様。剣と魔法の世界に生まれた醍醐味がここにある。
「やはり現役の王宮騎士は鍛え方が違うな。あれは良い経験が積める」
いつもより柔らかい表情で饒舌に話す兄に、つられてわたしもニコニコする。
ギル様とこんなに話すのは初めてだな。
前世を思い出す以前は、彼の姿を見るだけで怯えていたし、思い出した後は「魔法の使えない落ちこぼれの妹」と言うコンプレックスのせいで、こちらが遠慮していた所もあったから。
わたしだって、彼にちゃんと心を開いていたとは言えないのだと反省した。
剣について語る兄は年相応に見えて微笑ましい。わたしが魔法使いに憧れたように、彼は騎士と言う生き方に惹かれているようだ。
そんなこと、今まで少しも知らなかった。
兄がイライジャ殿下やアマーリ殿下と親しくなるのは、わたしの将来的にギリアウトの予感しかしないのだけど、それはそれとして、お兄様が楽しそうなのは何よりだ。
ところでお茶会からこちら、ずっと心に引っかかっていることがある。
アマーリ殿下は、確かにわたしへこう言ったのだ。
『ねえハリエット、ギルには意地悪されてない?』
あれは、かなり含みを持たせた言い方だった。
大きな猫を飼い慣らしていらっしゃるギル様が、王宮で迂闊に本性を出すはずがない。もしあるとすればそれは、取り繕う必要が無くなった場合だ。
彼らのいきさつは想像もつかないけれど、腹芸ばかりの貴族社会で、本音で話し合える相手に恵まれたのは幸運なことだと思う。
わたしだって、散々な目に遭ったお茶会であっても、あそこでロッテと知り合えたのは僥倖だと思うもの。
「お兄様。皆様とは、どのようなお話をされるの?」
「どんな……」
眉間にしわを寄せ、兄が考え込む。わたし、そんなに難しい質問したかしら?
首を傾げつつ返事を待っていると、ギル様がチラリとわたしを見て渋い顔をした。なんでよ。
「…………まあ、歴史や魔法学の話が主だ」
「…………へえ」
その、怪しすぎる間はなんだ。
兄たちが教科書を閉じて騎士の英雄譚に興じていたとして、わたしは咎めたり言い付けたりなんかしないのに。
冒険が好きだなんて、子どもらしく夢があっていいじゃない。これぞファンタジーって感じがして、わたしも好きよ。
――まあ、それ以外にも男の子同士、女子には知られたくない会話もあるわよね。十一歳と言えば、そう言うお年頃だものね。
「思春期かあ……」
「おい、勘違いするな」
いけない、また心の声が漏れてたわ。ストッパーが壊れてるのかしら。
とても珍しいことに、頰を赤くしてわたしを睨む兄は、今すぐフルカラーで保存したいほどに可愛らしかった。この世界の写真はまだセピアだから、後世へ遺すならポートレートだな。画家を呼べ。
「おまえの方こそ、なぜ急にこんな話をするんだ。……昨日は、私に会いたくないと言っていただろう」
「会わないとは言いましたけど、会いたくないとは言ってませんよ」
「どう違うんだ」
もしかしてギル様、面会を断ったのを根に持っているんだろうか。やっぱり昨日は、純粋に心配して来てくれたの? だとしたら申し訳ないことをしたとは思うけれど、女子として、あんなヨレヨレの姿でなんか会いたくないじゃない?
「……だって、昨日のわたくしはみすぼらしかったんですもの」
「みすぼらしい?」
恥を忍んで本音を伝えると、兄は怪訝な顔をした。
「おまえは相変わらず、くだらないことを気にするのだな」
「乙女にとっては死活問題です!」
「毒を食らって死にかけた奴が何を言う」
「うぬっ……」
そりゃその通りなんだけど、これはもう、理屈じゃないのよ。女の子には女の子のプライドってものがあってですねぇ……!
男女間の、相互理解が及ばないもどかしさにくちびるを噛むわたしへ、兄は言った。
「まず、おまえは生き抜いたことを誇れ。俺はその姿をみすぼらしいとは思わない」
「え……」
――えっ、なに? もしかして今、永久凍土がちょっとだけ溶けたの?
しかも、“俺”って言った?!
ズルい!
不意打ちはズルいよギル様!
だから、わたしをときめかせてどうするのよ!
「ただし、毒を浴びた経緯は間抜け過ぎる。そこは大いに反省しろ」
「……面目ありません」
それについては誠に慚愧の念に耐えない。
公爵令嬢が自虐ネタを潤わせてどうするのって話よね。だいたい、どこで披露するのよ。一発芸を強要してくる上司は、もうここにはいないのだ。
「ハリエット」
「はい」
「私からも訊きたいことがある」
鮮やかな緑の双眸に暗い影が落ちて、何事かと身構えた。
あまり良くない類の話だろうか。
「あの茶会の日――おまえは、イライジャ殿下を見かけたか?」
「……イライジャ様を?」
はて、と首を傾ける。質問の意図が読めないのもそうなのだけれど、わたしは第一王子と面識などない。兄だって、そのくらい知っているはずなのに。
「ごめんなさい、お兄様。わたくし、イライジャ様のお顔は存じ上げないの」
わたしが答えると、兄はハッと目を瞠って、「そうだったな」と唸るように呟いた。
「……いい、忘れろ」
「はい……」
頷きながらも、漠然とした不安が胸を過ぎる。
兄は、何を焦っているのだろうか。
わたしの知らないところでまた、何か良くないことが起きているのかも知れない。
いわくの付きまとう、あのお茶会を火種にして。




