第6話 もう一つの仕事
月曜日。
悠真は、いつも通り満員電車に揺られていた。
土曜日に久世から聞いた話が、頭から離れない。
秘密組織。
情報収集、護衛、潜入、交渉、奪還、そして暗殺。
普通に暮らしていれば、一生関わることのない世界だ。
「考えすぎだよな……」
悠真はスマートフォンをポケットにしまった。
今の自分には関係ない。
そう思うことにした。
⸻
その日の仕事は、いつも以上に忙しかった。
午前中は取引先への訪問。
午後は見積書の修正。
夕方には大野部長から大量の資料作成を押しつけられた。
「黒瀬、これも今日中な」
「ですが、先ほどの資料もまだ終わっていません」
「だから何だ?」
大野は不機嫌そうに腕を組んだ。
「お前の仕事だろ。残業してでも終わらせろ」
「……わかりました」
悠真は資料を受け取った。
反論する気力もなかった。
午後十一時を過ぎ、ようやく会社を出る。
帰り道、ふと財布の中の名刺を思い出した。
久世直人。
悠真は立ち止まり、スマートフォンを取り出した。
電話をかけるべきか。
何度か迷ったあと、通話ボタンを押した。
『はい、久世です』
「あの、黒瀬です」
『黒瀬さん。どうされました?』
「この前のお話なんですが……もう少し詳しく聞かせてもらえませんか」
電話の向こうで、久世が少しだけ笑った気がした。
『もちろんです。明日の夜、時間をいただけますか』
「はい」
『場所はこちらから送ります』
通話が切れた。
悠真はスマートフォンを見つめた。
自分から連絡してしまった。
もう後戻りできない気がした。
⸻
翌日の夜。
指定された場所は、都内のオフィス街にある古いビルだった。
看板もなく、入口には小さな警備室がある。
久世に連絡すると、すぐに迎えが来た。
「お待ちしていました」
案内された部屋には、久世が一人で座っていた。
「来ていただいてありがとうございます」
「いえ……」
悠真は向かいの椅子に座った。
「まず、組織について説明します」
久世は一枚の資料をテーブルに置いた。
そこには、短い名前が記されていた。
《ヴェイル》
「これが、私たちの組織です」
「ヴェイル……」
「どの国にも属していません。特定の政府の命令で動く組織でもありません」
久世は淡々と説明を続けた。
「依頼主は、国家の関係者、企業の経営者、情報機関、そして裏社会の大物までさまざまです」
「そんな人たちが、本当に依頼してくるんですか?」
「ええ。公にはできない仕事を、私たちに持ち込んできます」
「仕事の内容は?」
「依頼によります。人探しから情報収集、護衛、潜入、交渉、物品の奪還。場合によっては暗殺もあります」
悠真は表情を曇らせた。
「何でも引き受けるんですか?」
「条件と報酬が合い、組織が受けると判断したものだけです。無条件に何でもするわけではありません」
「それでも、かなり危険な仕事ですよね」
「危険です」
久世は隠さなかった。
「ただし、すべての構成員が危険な現場に出るわけではありません。情報を調べる者、資料を扱う者、交渉を担当する者。それぞれ役割があります」
「僕にもできる仕事があるんでしょうか」
「最初は簡単な補助業務からです。あなたに経験がないことは理解しています」
悠真は資料を見つめた。
そこには、世界各地の拠点や活動内容について、概要だけが記されていた。
詳しい情報は伏せられている。
「この組織の存在を知っている人は多いんですか?」
「いいえ。ごく限られた人間だけです。各国の一部の最高権力者や情報機関の幹部、裏社会の頂点にいる者たち。その程度です」
「普通の警察や政府の人たちは?」
「大半は知りません」
久世は資料を閉じた。
「私たちは、表の世界に存在を知られる必要がありません」
悠真はしばらく黙っていた。
自分の知っている世界とは、あまりにも違う。
「黒瀬さん」
久世が静かに呼びかけた。
「あなたに、すぐ決断してほしいとは思っていません。ただ、今の生活とは別の選択肢があることを知ってほしかった」
「……少し考えさせてください」
「わかりました」
久世は立ち上がった。
「もし参加するなら、正式な採用手続きを受けてもらいます。特別扱いはありません」
「普通の新人として、ということですか?」
「その通りです」
悠真は小さく頷いた。
帰り道、夜風が頬に当たった。
自分の人生に、もう一つの選択肢が生まれた。
それが良いことなのか、悪いことなのか。
まだ、わからなかった。




