第5話 普通の男への勧誘
土曜日の午後。
悠真は、駅前の喫茶店にいた。
窓際の席でコーヒーを飲みながら、入口を気にしている。
今日は休日だ。
本来なら、家でゆっくり寝ていたかった。
しかし、先日の男性から直接お礼をしたいと言われれば、断るのも気が引けた。
約束の時間から三分ほど遅れて、男性が店に入ってきた。
「お待たせしました」
「いえ、大丈夫です」
男性は悠真の向かいに座った。
病院で見たときより顔色はよくなっているが、腕にはまだ包帯が巻かれている。
「改めて、久世直人です。先日は本当にありがとうございました」
「黒瀬悠真です。いえ、そんな……」
悠真は恐縮して頭を下げた。
「あなたがいなければ、私は今ここにいなかったかもしれません」
「たまたま通りかかっただけですから」
「それでも、助けてくれたことに変わりはありません」
久世は店員にコーヒーを注文した。
しばらく、当たり障りのない話が続いた。
そして、久世が本題を切り出した。
「黒瀬さん。あの夜のことを聞いてもいいですか?」
「はい」
「私を助けるとき、何か不思議なことはありませんでしたか?」
悠真の指がカップの縁で止まる。
「不思議なこと、ですか?」
「例えば、周囲の様子がおかしくなったとか」
「……特には」
悠真は視線をそらした。
久世はその反応を見逃さなかった。
しかし、追及はしなかった。
「そうですか」
一口コーヒーを飲んでから、久世は続けた。
「実は、私はある組織に所属しています」
「組織?」
「表向きには存在しない、独立した組織です」
悠真は首を傾げた。
「警備会社のようなものですか?」
「それよりも、ずっと広い仕事をしています」
久世は声を落とした。
「情報収集、護衛、潜入、交渉、奪還。場合によっては、危険人物の排除も行います」
「危険人物の排除……?」
「暗殺も含まれます」
悠真は思わずコーヒーを置いた。
「ちょっと待ってください。僕に何の話をしているんですか?」
「あなたに、その組織へ来てほしいと思っています」
「いやいや、無理ですよ」
悠真は即座に首を横に振った。
「僕は普通の会社員です。格闘技もできませんし、そういう経験もありません」
「わかっています」
「それに、人を傷つけるような仕事は……」
「今すぐ危険な任務に参加してほしいわけではありません」
久世は落ち着いた声で答えた。
「私たちの組織には、さまざまな役割があります。現場に出る者だけではありません。情報を調べる者、資料を整理する者、交渉を担当する者もいます」
「でも、どうして僕なんですか?」
「あなたが私を助けてくれたからです」
「それだけですか?」
「それだけではありません」
久世は悠真をまっすぐ見た。
「あなたは、怖かったはずです。それでも、私を見捨てなかった」
悠真は何も言えなかった。
あの夜の自分は、ただ必死だった。
勇敢だったわけではない。
むしろ、今でも思い出すと手が震える。
「少し考えさせてください」
「もちろんです」
久世は名刺を一枚差し出した。
そこには名前と電話番号だけが記されていた。
会社名も、役職もない。
「詳しい話を聞きたくなったら連絡してください」
悠真は名刺を受け取った。
⸻
喫茶店を出たあと、悠真は駅前を歩いていた。
頭の中が整理できない。
秘密組織。
潜入。
暗殺。
普通に暮らしてきた自分には、どれも縁のない言葉だった。
「関わらない方がいいよな……」
そう呟いた。
しかし、久世の言葉が頭に残っている。
今の生活を続けるだけでいいのか。
十年間、同じ会社で働いてきた。
これから先も、同じような毎日を繰り返すのだろうか。
その答えは、まだ出なかった。
悠真は名刺を財布にしまった。
すぐに連絡するつもりはない。
ただ、捨てることもできなかった。




