第3話 あり得ない出来事
午前八時三十分。
悠真は会社の自席で、ぼんやりとパソコンの画面を眺めていた。
ほとんど眠れていない。
昨夜の出来事が、頭から離れなかった。
時間が止まった。
あの現象は何だったのか。
夢ではない。
確かに自分は動けた。
男性を助けるために、数メートル移動した。
その後、世界は何事もなかったかのように動き出した。
「黒瀬!」
突然、上司の声が響く。
「は、はい!」
悠真は慌てて立ち上がった。
「昨日頼んだ資料、まだできてないのか?」
「すみません。昨夜、少し事情がありまして……」
「事情?」
大野部長が眉をひそめる。
「仕事より大事な事情なんてあるのか?」
「申し訳ありません」
「今日中に仕上げろ。いいな?」
「はい」
悠真は頭を下げた。
結局、何も変わらない。
昨夜、あんな不思議なことが起きても、会社ではいつも通り叱られる。
むしろ、現実に引き戻されたような気分だった。
⸻
昼休み。
悠真は会社の近くの公園で、コンビニのおにぎりを食べていた。
スマートフォンを取り出し、昨夜の事件について検索する。
しかし、ニュースには何も出ていない。
当然かもしれない。
大きな事件にはならなかったのだろう。
救急搬送された男性のことも、名前すら知らない。
「無事だといいけど……」
そう呟いたとき、ふと気になった。
あの現象は、もう一度起こせるのだろうか。
悠真は周囲を見回した。
公園には数人の人がいる。
さすがに人前で試すわけにはいかない。
⸻
午後十時過ぎ。
ようやく帰宅した悠真は、部屋の中で一人になった。
テーブルの上に置いた時計を見る。
秒針が規則正しく動いている。
「止まれ……」
小さく呟く。
何も起きない。
「いや、そんな簡単にはいかないか」
自分の行動に苦笑した。
しかし、昨夜の感覚を思い出す。
男の拳が迫ってきた瞬間。
恐怖と、助けたいという気持ち。
あのとき、自分は強く願った。
もう一度、止まってくれと。
悠真は時計を見つめ、同じように願った。
すると。
秒針が止まった。
「……え?」
時計だけではない。
窓の外を走っていた車も、向かいの建物の明かりも、すべてが静止している。
悠真は立ち上がった。
動ける。
自分だけが動ける。
恐る恐る、時計に手を伸ばす。
秒針は止まったままだった。
「本当に……止まってる」
悠真は急いでスマートフォンを確認した。
画面の時刻も変わっていない。
自分だけが時間の外にいるようだった。
やがて、突然視界が揺れた。
次の瞬間、秒針が動き始める。
時間が戻った。
悠真は椅子に座り込んだ。
スマートフォンで時間を確認する。
止まっていたのは、ほんの数秒だった。
三秒ほど。
それ以上は続かなかった。
「三秒……?」
偶然かもしれない。
何度か試したが、同じように短い時間しか止められなかった。
ただし、確かなことが一つある。
これは自分の意思で起こせる。
そして、まだ何か別の力があるような気がしていた。
⸻
その夜。
悠真が知らないところで、一人の男性が病院のベッドから起き上がっていた。
昨日、路地裏で助けられた男性だった。
久世直人。
彼は腕の痛みを確かめながら、窓の外を眺めていた。
「黒瀬……悠真、か」
手元には、警察から聞いた救助者の名前が記された紙がある。
久世はその名前を静かに見つめた。
「普通の人間には見えなかったな」
そう呟いたあと、枕元の携帯電話を手に取った。
「調べてくれ。昨日、私を助けた男についてだ」
電話の向こうから返事がある。
久世は短く告げた。
「名前は黒瀬悠真。ごく普通の会社員だ」
一度、言葉を切る。
「ただし、少し気になることがある」
電話を切った久世の表情は、真剣そのものだった。




