第2話 三秒間の世界
男の拳が、目の前まで迫っていた。
「うわっ!」
悠真は反射的に身体をひねった。
拳が頬をかすめ、背後の壁に当たる。
鈍い音が響いた。
「こいつ!」
男が体勢を立て直す。
悠真は何が起きたのか理解できないまま、後ずさった。
今、確かに時間が止まっていた。
雨粒も、男たちも、すべてが動かなくなった。
それなのに、自分だけは動けた。
「何ぼさっとしてる!」
別の男が叫ぶ。
悠真は我に返った。
逃げるべきだ。
そう思った瞬間、壁際にいた男性が男たちに押さえつけられた。
「ぐっ……!」
男性の身体が地面に倒れる。
男の一人が、その腕を踏みつけた。
「最後に聞く。資料はどこだ」
「知らないと言っている」
「なら、ここで終わりだ」
男が拳を振り上げる。
悠真の頭に、先ほどの光景がよみがえった。
時間が止まった。
偶然だったのか。
自分の見間違いだったのか。
わからない。
それでも、もしもう一度起きるなら。
悠真は男たちを見た。
「やめてください!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
男たちが振り返る。
「まだいたのか」
「その人を離してください」
「お前、本当に死にたいのか?」
男がこちらへ向かってくる。
怖い。
逃げたい。
けれど、目の前で人が傷つけられるのを見過ごすことはできなかった。
男が腕を振り上げた。
その瞬間、悠真は強く願った。
止まってくれ。
お願いだから。
そして――
再び、世界が静止した。
雨粒が止まる。
男の腕が止まる。
路地の奥で転がりかけていた空き缶も、空中で動きを失っていた。
「……まただ」
悠真は息を呑んだ。
偶然ではない。
自分だけが動ける。
悠真は周囲を確認した。
男たちの動きは完全に止まっている。
だが、いつまでも続くわけではない気がした。
長くはない。
そう直感した。
悠真は急いで男性のもとへ向かった。
腕を踏んでいる男の足を、無理やりどかす。
男性の身体を引き起こそうとするが、思ったより重い。
「すみません、動けますか?」
返事はない。
意識がないのかもしれない。
悠真は男性の肩を担ぎ、路地の入口へ向かって引きずった。
数メートル進んだところで、身体が急に重くなった。
視界が揺れる。
そして、世界が動き出した。
「ぐっ……!」
背後で男たちの声が上がる。
「何だ?」
「こいつ、いつの間に!」
悠真は男性を支えながら、必死に走った。
路地を抜け、明るい通りまで出る。
ちょうど通りかかったタクシーが速度を落とした。
「すみません! 救急車を呼んでください!」
悠真の声に、運転手が驚いた顔をする。
その間に、路地の奥から男たちが出てきた。
しかし、彼らは追ってこなかった。
悠真は男性を地面に座らせ、スマートフォンで救急車を呼んだ。
通報を終えた頃、男性がわずかに目を開いた。
「……君は」
「喋らないでください。救急車を呼びましたから」
「時間が……」
男性は何かを言いかけて、再び目を閉じた。
「時間?」
悠真は眉を寄せた。
その言葉の意味を考える余裕はなかった。
⸻
救急車が到着し、男性は搬送された。
警察から事情を聞かれたが、悠真は見たままのことを説明した。
ただし、時間が止まったことだけは話さなかった。
そんなことを言っても信じてもらえるはずがない。
事情聴取が終わった頃には、日付が変わっていた。
「今日は帰れそうにないな……」
悠真は疲れた顔で空を見上げた。
明日は朝から仕事だ。
いや、もう今日か。
会社に何と言えばいいのだろう。
そんなことを考えている自分が、少し嫌になった。
⸻
自宅に戻ったのは、午前二時を過ぎた頃だった。
部屋の明かりをつけ、買ったままの弁当を冷蔵庫に入れる。
スーツのまま椅子に座った。
「……何だったんだ、あれ」
時間が止まった。
自分だけが動けた。
男性を助けることができた。
すべて現実だった。
悠真は両手を見つめた。
何も変わっていない。
いつもと同じ手だ。
それなのに、今日から何かが変わってしまった。
「明日、仕事に行けるかな……」
そんなことを呟きながら、悠真は深く息を吐いた。




