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世界で最も恐れられる男は、ただの会社員だった  作者: パルパル


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2/21

第1話 俺の人生には、余裕がなかった

午前七時十二分。


黒瀬悠真は、満員電車の中で小さく息を吐いた。


目の前には知らない男の背中。

右側には誰かの鞄。

左側にはスマートフォンを操作する男性の肘。


身動きひとつ取れない。


それでも、誰も文句を言わない。


文句を言ったところで、何かが変わるわけではないからだ。


悠真も同じだった。


三十二歳。

独身。

会社員。


特別な資格もなければ、誰もが振り返るような容姿でもない。


身長も体格も平均的。

着ているスーツも、駅前の量販店で買ったものだった。


どこにでもいる、ごく普通の男。


それが黒瀬悠真という人間だった。


「……今日も長い一日になりそうだな」


誰にも聞こえない声で呟く。


勤め先は、都内にある中小企業の営業部。


入社して十年。


最初は三年も続けば十分だと思っていた。


しかし、気づけば十年が過ぎていた。


辞める理由はいくらでもあった。


上司の理不尽な叱責。

終わらない残業。

休日にも鳴る会社からの電話。

達成しても評価されない営業成績。


それでも辞められなかった。


次の仕事が見つかる保証はない。

貯金も、それほど多くない。


結局、今日も会社へ向かう。


それだけだった。


⸻


「黒瀬!」


出社して十分も経たないうちに、上司の声が飛んできた。


営業部長の大野だった。


五十代半ば。

声が大きく、機嫌が悪いと周囲に当たり散らす。


悠真はすぐに立ち上がった。


「はい」


「昨日の神田商事の件、どうなってる?」


「先方から、見積もりの再提出を求められていまして、現在――」


「言い訳はいいんだよ。今日中にまとめろ」


「ですが、先方の条件がまだ確定していなくて……」


「だったら、お前が確認してこい。営業だろ?」


「……わかりました」


反論しても意味はない。


大野は満足そうに頷くと、別の社員へ声をかけに行った。


悠真は自分の席に戻る。


パソコンを起動し、机の端に置いていた資料を開いた。


今日の予定は、すでに埋まっている。


午前中に二件の訪問。

午後は見積もりの修正。

夕方には社内会議。

その後は、部長から押しつけられた資料作成。


定時に帰れる可能性は、ほぼなかった。


「黒瀬さん、大丈夫ですか?」


隣の席の後輩が、小声で尋ねてきた。


「うん。大丈夫だよ」


悠真は笑って答えた。


本当は大丈夫ではなかった。


けれど、そう答えることにも慣れてしまっていた。


⸻


午後十時四十六分。


ようやく会社を出た。


駅まで歩く途中、コンビニに立ち寄る。


夕食は、割引シールの貼られた弁当とペットボトルのお茶。


それを買うだけで、今日の仕事が終わった気がした。


「温めますか?」


「お願いします」


電子レンジの音を聞きながら、悠真はスマートフォンを確認する。


未読のメールが三件。


会社からだった。


思わず画面を伏せる。


「……明日でいいだろ」


小さく呟いた。


本当は、明日も明後日も、きっと同じことの繰り返しだ。


それでも、いつか少しは楽になるかもしれない。


そんな根拠のない期待を捨てられずにいた。


⸻


自宅へ向かう近道は、古い雑居ビルの間を抜ける細い路地だった。


普段なら、何も考えずに通り過ぎる場所。


その夜も、悠真は早く帰りたい一心で歩いていた。


そのときだった。


「おい。逃げられると思ってんのか?」


路地の奥から、男の声が聞こえた。


悠真は足を止めた。


街灯の届かない場所に、数人の男がいた。


その中央には、一人の男性が壁を背に立っている。


男性の服は乱れ、頬には血が滲んでいた。


周囲を囲む男たちは、全員が黒っぽい服装をしている。


「もう一度聞く。あの資料はどこにある?」


「知らないと言っている」


男性は静かに答えた。


「嘘をつくな」


男の一人が胸ぐらを掴む。


悠真は反射的に、近くの建物の陰へ身を隠した。


関わらない方がいい。


そう思った。


どう見ても、普通の喧嘩ではない。


警察を呼ぶべきか。


いや、そもそも自分が見つかったらどうなる?


相手は複数人。


こちらは一人。


勝てるわけがない。


悠真はスマートフォンを取り出した。


そのとき、男性の視線が路地の入口へ向いた。


そして、悠真と目が合った。


「逃げろ!」


男性が叫んだ。


その声に、男たちが一斉に振り返る。


しまった。


見つかった。


「誰だ、お前」


男の一人がこちらへ歩いてくる。


逃げなければ。


そう思ったのに、足が動かなかった。


「関係ないだろ。見なかったことにしろ」


男が低い声で言った。


悠真は何度も頷きそうになった。


見なかったことにする。


それが一番いい。


自分には守るべきものも、戦う理由もない。


ただ明日も会社へ行き、仕事をして、帰って眠る。


それだけの生活を続けたい。


それなのに。


壁際に追い詰められた男性が、こちらを見ていた。


助けを求めるような目ではなかった。


むしろ、巻き込まないために逃げろと言っているように見えた。


悠真は唇を噛んだ。


「……警察を呼びます」


声は震えていた。


男たちの表情が変わる。


「何だと?」


「だから、警察を……」


最後まで言い切ることはできなかった。


男の一人が、悠真に向かって走り出したからだ。


逃げろ。


頭ではわかっている。


なのに、身体が動かない。


男の拳が迫る。


その瞬間。


世界が、止まった。


雨粒が空中に浮かんでいた。


街灯の光に照らされた水滴も、男の拳も、路地の奥で揺れていた看板も。


何もかもが動いていない。


音が消えていた。


風も、車の音も、人の声もない。


悠真は目を見開いた。


「……え?」


自分の声だけが聞こえた。


男の拳は、目の前で止まっている。


ほんの数センチ先。


悠真は震える手を伸ばした。


触れた。


間違いなく、そこにある。


なのに、動かない。


何が起きているのか理解できなかった。


夢なのか。


それとも、自分がおかしくなったのか。


悠真は周囲を見回した。


誰も動かない。


何も動かない。


そして、次の瞬間。


世界が再び動き始めた。

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