第0話 世界で最も恐れられる男
その夜、世界の裏側にいる人間たちが、一つの場所に集められていた。
地下深くに造られた巨大な会議室。
そこには、各国の犯罪組織を束ねる幹部や、武器の密売を仕切る男、国家すら裏から動かすと言われる人物までが顔を揃えていた。
誰もが、表の世界では決して名前を出せない人間たちだった。
普段なら、彼らが一堂に会することなどあり得ない。
それでも、今夜だけは違った。
理由は一つ。
ある男が、この場所に来るからだ。
「本当に来るのか?」
会議室の奥で、一人の男が尋ねた。
「間違いありません」
「護衛は?」
「確認できていません」
「一人で来るというのか?」
「そのようです」
男は鼻で笑った。
「馬鹿げている。ここにいる人間が誰なのか、わかっているのか?」
周囲の者たちも、同じような表情を浮かべていた。
この場所には、選りすぐりの護衛が配置されている。
武器もある。
逃げ道も封鎖している。
どれほど恐れられている人間であろうと、たった一人で乗り込んで無事に帰れる場所ではない。
そう考えていた。
そのときだった。
「……到着しました」
入口にいた男が、小さく告げた。
会議室の扉が開く。
全員の視線が、一斉にそちらへ向いた。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
黒いスーツ。
少しよれた白いシャツ。
緩めたネクタイ。
寝癖の残った髪に、目の下には薄い隈がある。
年齢は三十代後半から四十代前半ほどに見える。
特別に整った顔立ちでもない。
体格がいいわけでもない。
どこにでもいる、疲れた会社員。
それが、黒瀬悠真だった。
「……こいつが?」
誰かが呟いた。
悠真は会議室を見回すと、少し困ったように頭を掻いた。
「すみません。道が混んでいて、少し遅れました」
あまりにも普通の声だった。
緊張している様子もない。
威圧するつもりもなさそうだった。
その態度が、かえって一部の男たちを苛立たせた。
「おい」
一人の大柄な男が立ち上がった。
「ここがどこだかわかっているのか?」
「ええ。一応、聞いています」
「なら、その態度は何だ」
「態度……ですか?」
悠真は自分の服装を見下ろした。
「すみません。仕事帰りなもので」
その返事に、何人かが眉をひそめた。
大柄な男は、近くにいた護衛へ目配せした。
護衛が動く。
腰元に手を伸ばし、悠真へ向かって踏み出した。
その瞬間。
会議室の空気が変わった。
次の瞬間には、護衛の手から武器が消えていた。
誰も、何が起きたのか理解できなかった。
護衛は数歩進んだところで立ち尽くしている。
その足元には、武器が落ちていた。
「……何をした?」
大柄な男が声を荒らげる。
「何もしていませんよ」
悠真は困ったように答えた。
「ただ、話をしに来ただけです」
「ふざけるな!」
今度は別の男が立ち上がった。
周囲の護衛たちも一斉に動こうとする。
だが、その場にいた誰一人として、悠真に触れることはできなかった。
何が起きたのか。
なぜ攻撃が届かないのか。
なぜ、こちらの動きがすべて読まれているように感じるのか。
誰にも説明できなかった。
悠真は小さく息を吐いた。
「できれば、穏便に済ませたいんですけどね」
その声には怒りも憎しみもなかった。
ただ、面倒な仕事を早く終わらせたい。
そんな疲れた会社員の声だった。
やがて、会議室に静寂が戻る。
立ち上がっていた男たちは、誰一人として動けなくなっていた。
悠真は空いている椅子を見つけ、そこに腰を下ろした。
「それで、話を始めてもいいですか?」
誰も返事をしなかった。
世界中の裏社会を動かしてきた男たちが、目の前の一人の会社員に言葉を失っていた。
その中の一人が、震える声で尋ねた。
「お前は……一体、何者なんだ」
悠真は少し考えたあと、答えた。
「黒瀬悠真です」
「そういうことを聞いているんじゃない!」
「そう言われましても……」
悠真は困ったように眉を寄せた。
「普通の人間ですよ」
その言葉を信じる者は、一人もいなかった。
彼らは知らない。
目の前の男が、どれほどの時間を積み重ねてきたのか。
どれほどの経験を経て、ここまでたどり着いたのか。
そして、彼が今もなお、特別な存在になりたいなどとは思っていないことも。
黒瀬悠真。
世界中の裏社会が、その名前を恐れるようになった男。
だが、ほんの少し前まで。
彼は本当に、どこにでもいる普通の会社員だった。
特別な力も、地位も、金もない。
ただ毎日、満員電車に揺られ、理不尽な上司に頭を下げ、疲れ果てて家に帰る。
そんな生活を繰り返していた。
これは、世界で最も恐れられる男が、まだ何者でもなかった頃の物語。
すべては、あの夜から始まった。




