第07章:父・幸村の影と、泥の胎内
九度山の秋は、土の匂いから始まる。
夕暮れ時。冷え込み始めた空気の中に、刈り取られた稲わらを燃やす野焼きの煙が、青白い筋となって村のあちこちから立ち昇っていた。
集落の風景は、徹底して泥に塗れ、そして力強かった。農民たちは腰を深く曲げ、ひび割れた手で土を掘り起こし、大根や芋を収穫している。彼らの衣服は土気色に汚れ、顔には深い皺が刻まれているが、その動きには、この土地に根を張り、ただ「生きる」という絶対的な目的に従属する野生動物のような美しさがあった。
僕は、村の高台にある神社の石段に座り、その光景をぼんやりと見下ろしていた。
斜めに差し込む強烈な夕日が、農民たちのシルエットを長く引き伸ばし、彼らの吐く白い息を黄金色に縁取っている。どこかで赤ん坊の泣き声がし、それをあやす女の野太い声が風に乗って聞こえてきた。
それは、絶対的な「生の営み」だった。
泥水を啜り、地を這い、何者にも名を残すことなく、ただ命を次の世代へと繋いでいくための、美しくも残酷な自然のサイクル。
そこには、戦国という狂った時代のイデオロギーも、血筋の呪縛もない。
だが、僕には、その土の温もりに触れる権利すら最初から奪われていた。
僕は、自分の着ている上質な絹の小袖に視線を落とした。
村の者たちは、僕が道を歩けば慌てて道の端に寄って土下座をする。彼らの目にあるのは、敬意ではなく「触れてはならない異物」を見るような畏れだ。
真田大助。
敗将とはいえ、かつて天下を揺るがした真田幸村の嫡男。その血筋という見えない巨大な看板が、僕とこの世界との間に、決して越えられない分厚い硝子の壁を作り出していた。
僕はゆっくりと立ち上がり、屋敷へと歩き出した。
夕闇が迫るにつれ、僕の心の中にある「虚無」が、黒いインクのようにじわじわと広がっていくのを感じていた。
◆
屋敷に戻ると、母屋の縁側には、すでにあの男の姿があった。
父、真田幸村。
彼は胡坐をかき、傍らに置いた安物の徳利から、欠けた平杯に酒を注いでいた。
火鉢の赤い炭火と、暮れ泥む群青色の空。その強烈な光と影のコントラストの中央に座る父のシルエットは、まるで最初からそこにあった巨大な黒い岩のように、圧倒的な質量を持って空間を支配していた。
「……戻ったか、大助」
こちらを見向くこともなく、父は低い声で言った。
酒の匂いと、そして微かな鉄の匂い。父は戦場から遠く離れたこの九度山にあっても、常に皮膚の下で血を沸騰させている。
「はい。父上」
僕は短く答え、数歩離れた縁側に正座した。
父の横顔は、彫刻のように深く険しい。彼の視線は、庭の苔や紅葉した木々を見ているのではない。もっと遠く……幾重にも重なる山々の向こうにある、見えない巨大な城、大坂の方角をじっと見据えていた。
その横顔を見た瞬間、僕は息が詰まりそうになった。
底知れない。
この男の腹の底には、何千何万という人間の命を盤上に並べ、それを一瞬にして業火に投げ込むような、狂気にも似た戦術家の冷酷さが眠っている。
と同時に、僕は直感していた。
父は、死に場所を探しているのだ。
天下に名だたる真田の六文銭。その旗印を再び血で染め上げ、自分の命という最も価値のある駒を、最も華々しい盤面で使い切るための「最高の死に場所」を。
彼はすでに、この世の生に執着していない。ただ、英雄としての完成を求めて、時代の歯車が回るのを静かに待っているのだ。
その圧倒的な「死への渇望」と「完成された男の美学」を前にすると、僕という存在はいかにもちっぽけで、空っぽだった。
僕は、父のようにはなれない。
何万の兵を指揮する才覚もなければ、自らの命を笑って投げ出す狂気もない。
ただ、真田という血の入れ物として生まれ、周りからチヤホヤされ、腫れ物のように扱われているだけの、空っぽの器。
母の顔を、僕はほとんど覚えていない。
僕を産み落とした後、母・竹林院は、九度山での困窮する家計を支えるために、自ら「真田紐」を考案し、使用人たちと共に機織りと行商の指示に明け暮れていた。彼女は生きるために必死だった。
だから、僕の記憶にあるのは、遠くの部屋から聞こえてくる機織りの音と、慌ただしく廊下を歩く母の足音だけだ。
僕は、温かい胸に抱かれた記憶すらないまま、使用人たちと、そしてこの冷たく巨大な父の影の下だけで育ってきたのだ。
もし、僕が真田の息子でなかったら。
あの村で鼻水を垂らして走り回る、ただの農民の子供であったなら。
そんな無意味な仮定が、夕闇と共に僕の心を激しく苛み始めていた。
「……下がれ。夜風が冷える」
父の言葉に、僕は深く一礼し、逃げるように自室へと向かった。
背中に突き刺さる父の無言の背中が、僕の存在意義を根底から押し潰してくるようだった。
◆
自室の障子を閉めた瞬間、僕は限界を迎えていた。
呼吸が浅くなり、視界が歪む。
偉大すぎる父の影。戦国という家柄が絶対の時代。そして、遠からず父が僕を巻き込んで、破滅的な戦争へと向かうであろうという確信。
そのすべての重圧が、僕の細い背骨をへし折ろうとしていた。
「っ……あ……」
僕は畳の上に崩れ落ち、顔を両手で覆った。
声にならない嗚咽が漏れる。誰かに、助けてほしかった。僕が「真田大助」ではなく、ただの一人の怯える子供であることを許してくれる場所が、どうしようもなく欲しかった。
その時。
濃密な夜の闇が、ふわりと甘い伽羅の香りを帯びた。
「大助様」
音もなく、背後から冷たい腕が僕の体を包み込んだ。
才蔵だった。
彼女はいつの間にか部屋に忍び込み、崩れ落ちた僕の背中に、その柔らかな体をぴったりと密着させていた。
「才、蔵……」
僕が振り返ると、行灯の仄暗い光の中に、彼女の顔が浮かび上がった。
外界に見せる氷の狐面も、右顔を覆う白い晒しも、すでにそこにはない。
息を呑むほど美しい左半分と、関ヶ原の業火に焼け爛れた赤黒い右半分。その極端な二面性を持つ素顔が、僕を底知れぬ狂気と愛情の入り混じった瞳で見つめていた。
「震えていらっしゃる……。御館様と、お会いになっていたのですね」
才蔵は、僕の心をすべて透かして見ているように囁いた。
彼女の冷たい指先が、僕の涙で濡れた頬をそっと撫でる。その指の感触と、傷跡の残る右頬から伝わる生々しい熱に触れた瞬間、僕の中で堰き止められていたものが完全に決壊した。
「才蔵……っ、僕は……僕は、空っぽだ……!」
僕は彼女の濡れたような黒装束の胸倉を掴み、子供のように泣きじゃくりながら吐露した。
「父上は、死に場所を見つめている。あの人は、英雄として死ぬために生きているんだ……! だけど僕は違う。僕は何も持っていない。父上のような才能も、覚悟も……。ただ真田の血を引いているというだけで、周りからチヤホヤされて、守られて……」
「大助様……」
「もし僕が……真田の息子じゃなかったら、誰が僕を気にかける!? 母上だって、僕を産んでからは家計のことで走り回って、僕の顔すらろくに見なかった! 僕はただの『跡継ぎ』という道具なんだ! 父上が戦場で死ねば、僕も一緒に死ぬように運命づけられた、ただの肉の塊じゃないか……ッ!」
自分の口から溢れ出る言葉は、醜く、卑屈で、武士の息子としては絶対に口にしてはならない絶望だった。
僕は彼女に軽蔑されるかもしれないと思った。
天下の真田の血を引きながら、これほどまでに弱く、死を恐れ、自分のアイデンティティを見失って泣き喚く無様な男を。
しかし。
才蔵の左目から、ハラハラと大粒の涙が零れ落ちた。
彼女は僕の顔を両手で挟み込むと、その赤黒い火傷の残る右顔を、僕の涙に濡れた頬に強く押し当ててきた。
「あぁ……私の可哀想な坊や。私の、いとしい神様……」
彼女の声は、咽び泣くように甘く、そして狂おしかった。
「天下の真田など、知ったことではありません。御館様がどれほど偉大であろうと、血筋がどれほど尊かろうと……私にとっての真実は、今ここで震え、私に助けを求めて泣いている『あなた』だけです」
才蔵は僕を強く抱きしめ、そのまま僕の体をゆっくりと畳の上に押し倒した。
「大助様。あなたは空っぽなどではない。あなたの中には、私がいます。私の心臓も、この醜く焼けた肉も、すべてはあなたという器を満たすために存在しているのですから」
彼女はそう囁くと、震える手で自らの黒装束の帯を解いた。
絹擦れの音が、静寂の部屋に卑猥に響く。
衣が滑り落ち、行灯の光の中に、彼女の純白の肉体が露わになった。
首筋から右の肩にかけて生々しく這う、あの赤黒いケロイドの傷跡。しかし、その傷を縁取るようにして存在する彼女の双丘は、信じられないほど豊かで、滑らかで、重力に従って美しい曲線を描いていた。
「才蔵……?」
「母君に、抱きしめられた記憶がないとおっしゃいましたね」
才蔵は僕の上から覆い被さり、その豊かな、滑らかな胸の谷間に、僕の顔を深く埋めさせた。
「ん……っ!」
むせ返るような伽羅の香りと、女の肌の強烈な熱。
胸の白磁のような柔らかさ。その香りと生々しい触覚が、僕の顔面を同時に包み込んだ。
それは、性的なエロスであると同時に、僕の魂の根底にある最も原始的な欠落……「母性への飢え」を暴力的なまでに満たす、圧倒的な肉の暴力だった。
「私のこの乳房を、母のものだと思ってくださいませ」
才蔵の冷たい両手が、僕の頭を後ろからしっかりと抱え込み、彼女の胸の奥底へと僕を閉じ込めるように圧迫した。
息が詰まる。
だが、その息苦しさが、たまらなく心地よかった。
「大助様がどれほど自分の血筋を憎もうと、どれほど未来の死に怯えようと、私は絶対にあなたから離れません。この乳房の熱で、あなたの恐怖をすべて溶かしてさしあげます。……泣きなさい。私の胸の中で、ただの弱い子供に戻って、泣き叫べばいいのです」
彼女の甘い声が、胸の振動となって僕の顔に直接伝わってくる。
僕は、彼女の細い腰にすがりつき、その乳房に顔を押し付けたまま、声を上げて泣いた。
「才蔵……、才蔵……ッ! 置いていかないでくれ、僕を一人にしないでくれ……ッ!」
「ええ、ええ。離れません。絶対に」
彼女は僕の髪を撫でながら、自らの右の乳首を僕の唇にそっと押し当てた。
そこには、熱が集まり、ひどく熱く硬くなっていた。
僕は本能のままにそれに口付け、乳飲み子のように吸い付いた。
「あっ……んぅ……っ」
才蔵の口から、母性から逸脱した、女としての濃厚な嬌声が漏れる。
しかし彼女は、僕を引き剥がすどころか、さらに深く僕の頭を胸に押し付けた。
僕の舌先が乳首からそれを囲む円状をなぞり、その奥にある心臓の激しい鼓動をダイレクトに感じる。
ドクン、ドクンという狂ったような血の巡り。
それは、彼女が僕のために生きており、僕のためだけにこの肉体を捧げているという、絶対的な証明の音だった。
「誓います……」
才蔵は、荒い息を吐きながら、僕の耳元で狂気じみた声で囁いた。
「時代がどれほど狂おうと、御館様がどれほどの地獄を現出させようと。大助様、私は何があっても、あなたの側で息を絶えます。あなたが死ぬ時は、私がこの世から完全に消滅した時です。……私の肉が再び炎に焼かれ、灰になろうとも、私の魂は、永遠にあなたの胎内に巣食って離れません」
それは、究極の愛の告白であり、同時に、重く息苦しい「呪い」の契約だった。
僕は彼女の乳房をむさぼりながら、その呪いを心の底から歓喜していた。
偉大すぎる父の影も。
武士としての運命も。
いずれやってくるであろう凄惨な戦争の恐怖も。
今、この密室の中で、顔の半分が崩壊したこの狂った美しい、愛おしい女の乳房にすがりついている間だけは、すべてを忘れることができた。
彼女の熱い肉体だけが、僕という空っぽの器を満たす、唯一の真実だった。
夜の冷気が、九度山の古い屋敷を包み込んでいく。
外の村では、まだ野焼きの煙が燻り続け、泥の匂いが風に乗って漂っているだろう。
しかし、僕の世界はもう、この四畳半の空間と、才蔵の伽羅の香りの中に完全に閉ざされていた。
父が死に場所を求め、僕の運命が地獄へ向かって加速していくのなら。
僕は、この女の狂気に満ちた胎内の中で、最後までただ彼女の体温に溺れていよう。
僕と顔のない伴女は、行灯の光が消えるまで、互いの傷と弱さを舐め合うように、泥のように重く、甘い夜の底へと沈んでいった。




