第08章:白磁の防壁と、紀ノ川の蛍
九度山の夏は、空気が重い。
まとわりつくような湿気と、むせ返るような草いきれ。夜になっても気温は下がらず、闇そのものが生温かい体温を持っているかのようだった。
深夜。僕は、寝苦しさに目を覚ました。
いつもなら、僕が身じろぎした瞬間に、冷たい手が伸びてきて僕の額の汗を拭ってくれるはずの「影」がいなかった。
才蔵の気配が、部屋から完全に消えている。
胸の奥に、チクリとした不安が走った。
僕は薄い寝巻きのまま起き上がり、屋敷の裏手へと続く獣道を歩き出した。
彼女の匂い……あの甘い伽羅の香りが、夜風に乗って微かに微かに、川の方角から漂ってきていたからだ。
鬱蒼とした夏草を掻き分け、紀ノ川の支流、深い森に囲まれた淀みへと出る。
そこで僕の網膜に飛び込んできた光景は、一生涯、僕の脳髄から消え去ることのない、息を呑むほどに美しく、そして残酷な「一枚の絵」だった。
無数の黄色い光の明滅。
蛍だ。数え切れないほどの源氏蛍が、川面を覆い尽くすように乱舞している。
そして、月光が真っ直ぐに差し込む淀みの中央。
黒い水面から上半身を覗かせ、長い黒髪を洗っている女がいた。
才蔵だった。
彼女は、僕に見せるためのあの純白の狐面も、白い晒しも外していた。
そして何より、あの漆黒の忍び装束を完全に脱ぎ捨てていた。
「あっ……」
僕は、茂みの陰で息を呑み、完全に硬直した。
これまで、寝所や組手の最中に、彼女の胸の谷間や太ももをもちろん見たことはあった。しかし、月光の下で、一切の布を纏わない彼女の「全裸」を見るのは、これが初めてだった。
彼女の顔の右半分から首筋、そして右の肩口にかけては、あの関ヶ原の業火が刻んだ、赤黒く盛り上がった無惨なケロイドの傷跡が這っている。
しかし。
その凄惨な傷跡は、まるで目に見えない境界線に弾かれたように、鎖骨のラインでピタリと完全に消失していたのだ。
そこから下の肉体は、まさに神が狂ったように精緻に彫り上げた「白磁の彫刻」そのものだった。
一切の傷も、シミも、戦いの痕跡すら存在しない。
闇夜の中で自ら発光しているかのように透き通った、純白の肌。
豊かな質量を持って重力に逆らうように上を向いた、信じられないほど豊満な双丘。そこから滑らかにくびれた腰のラインへと続き、水面下で揺らめく長く肉感的な両脚の先、足の指の形に至るまで。
それは、凄惨な顔半分を持つ殺人機械の体とは到底思えない、むせ返るほどの「雌」の官能を極限まで煮詰めたような、完璧無比な肉体だった。
顔の右半分の地獄と、首から下の圧倒的な天国。
その極端すぎるアンバランスさが、強烈な倒錯美を放っていた。
「……大助様」
鈴の転がるような声が、水音を縫って響いた。
才蔵は僕の気配に気づいていた。しかし、彼女は自らの裸体を隠そうとするどころか、振り返り、僕に向かってゆっくりと微笑んだ。
美しい左の口角が上がり、焼け爛れた右頬の肉が引き攣る。
「眠れませんでしたか。それとも……私の熱がなくて、寂しくなりましたか」
彼女は、豊かな乳房から水滴を滴らせながら、浅瀬を歩いてこちらへ向かってきた。
蛍の光が、彼女の白磁の肌に反射しては消えていく。
僕は茂みから出たものの、足が地面に縫い付けられたように動けなかった。彼女の完璧すぎる裸体の迫力に、脳の処理が追いつかなかったのだ。
「才蔵……、お前の体……」
掠れた声で呟く僕の目の前まで来ると、才蔵は濡れた体のまま、膝をついて僕の足元に平伏した。
そして、僕の震える手を取り、自らの濡れた、滑らかな左頬へと押し当てた。
「驚かれましたか? 私の顔がこれほど醜い化け物なのに、首から下の体が、傷一つない女の体であることに」
「あぁ……。今まで、気づかなかった。お前がいつも、絶望的なまでに強いから。その体に、刀傷一つないなんて……」
僕の言葉に、才蔵は喉の奥で、悲しげで、しかしどこか自嘲気味な笑い声を漏らした。
「大助様。忍びの世界において、女の体というものは、武器であると同時に、最も厄介な『呪い』なのです」
才蔵は立ち上がり、僕の体を強く抱きしめた。
僕の薄い寝巻きが、彼女の体の冷たい水で濡れ透けていく。彼女の豊満な胸が僕の胸板に押し付けられ、完璧な弾力をもってひしゃげる。
「私が物心ついた時から、この体は異常なほど早く成熟し、男たちの目を惹きつけました。伊賀の里の上役ども、任務を共にする獣のような男たち……。彼らは皆、私のこの体を、戦の合間の慰みものにしようと狙っていました。寝込みを襲われたことは、一度や二度ではありません」
彼女の言葉に、僕はゾッとした。
この冷酷無比な死神が、かつては周囲のすべての男たちから「性的な獲物」として狙われる、ただの無力な美しい少女だったという事実。
「だから、私は狂ったように技を磨きました。私に触れようとした男の手首を切り落とし、夜這いをかけてきた上役の喉笛を、眠りながら喰いちぎりました。この体を、誰の汚い手にも触れさせないために。誰にも犯されないために。私は、伊賀の誰よりも速く、誰よりも残酷な『超越した殺人者』にならなければならなかったのです」
彼女の美しい左目が、夜の闇の中で鋭く光った。
それは、絶対的な暴力によって自らの純潔を守り抜いてきた、孤高の女王の誇りだった。
彼女の超絶的な強さは、主君への忠誠などではなく、自らの「女としての尊厳」を男たちの欲望から死守するための、血みどろの防壁だったのだ。
「関ヶ原の業火で顔の半分を焼かれた時、私は痛みに狂いながらも、どこかで安堵していました。これでやっと、男どもが私を雌として見ることはなくなる。私はただの醜い道具として生きられる、と」
才蔵はそう言いながら、僕の手を取り、自らの豊かな右の乳房……その頂の、冷たく硬く張り詰めた部分へと誘導した。
「あっ……才蔵……」
僕の手のひらの中に、彼女の信じられないほど柔らかく、温かい質量が収まる。
僕の指先が動くたびに、才蔵は甘い吐息を漏らし、その完璧な肉体を微かに震わせた。
「でも、違いました」
才蔵は、恍惚とした表情で僕を見上げながら囁いた。
「大助様。あなたに出会って、私は初めて知ったのです。私が何故、血反吐を吐いてまでこの肉体を無傷で守り抜いてきたのかを。何故、誰にもこの肌を触れさせなかったのかを」
蛍の光が、彼女の顔の火傷の痕と、白磁の肌の境界線を照らし出す。
「すべては……今日、あなた様に、この完全な体を捧げるためだったのです。世界で一番高貴で、美しくて、私が狂おしいほど愛する『神様』であるあなたに、一塵の穢れもない肉体を楽しんでいただくために……私は、地獄を生き抜いてきたのです」
その告白は、僕の魂を根底から揺さぶるほどに重く、そして絶望的に甘かった。
彼女は、何十人もの男たちを殺して守り抜いた己の「純潔と完璧な肉体」を、なんの迷いもなく、僕という十四歳の少年の足元に投げ出しているのだ。
ただ、僕を喜ばせるためだけに。
僕の熱を慰め、僕の所有欲を満たすためだけに。
「大助様……さあ、どうぞ。私のすべては、あなたのものです。この胸も、腰も、足の先まで……あなたの好きなように触れ、噛み、貪ってくださいませ。あなたに与えられる快感こそが、私の生きる理由なのですから」
才蔵は僕の寝巻きを引き裂くように脱がせると、その完璧な裸体を僕の全身に絡みつかせた。
彼女の滑らかな太ももが僕の腰に巻き付き、川岸の柔らかい草叢の上へと僕を押し倒す。
圧倒的な肉の暴力。そして、息が詰まるほどの伽羅の香りと女の匂い。
僕は、無我夢中で彼女の白磁の肌に噛み付いた。
肩から首筋、そしてあの火傷の境界線を越え、完璧な形をした乳房へ。
僕が彼女の体を貪るたびに、才蔵は夜の森に響くほどの色っぽい嬌声を上げ、僕の背中をその強い腕で掻き抱いた。
自分が彼女を支配しているのか、彼女の狂信的な愛情に支配されているのか、もはや分からない。
しかし。
僕の手が、彼女の滑らかな下腹部を撫で下ろし、その最も奥底の秘所……彼女が誰からも守り抜いてきた純潔の入り口へと触れようとした、その瞬間だった。
ガシッ。
才蔵の手が、僕の手首を鋼鉄の万力のような力で掴み止めた。
彼女の体は火のように熱く、その目は情欲に潤んでいるというのに、その指先の力だけは、決して揺るがない絶対的な「拒絶」を放っていた。
「……才蔵?」
「……そこから先は、いけません、大助様」
才蔵は荒い息を吐きながら、涙ぐんだ目で首を横に振った。
「どうしてだ! お前は、自分のすべては僕のものだと言ったじゃないか! お前が命懸けで守ってきたものを、どうして僕に預けてくれないんだ!」
僕は怒りと欲求不満で声を荒らげた。
これほどまでに僕を愛し、これほどの完璧な肉体を惜しげもなく提供してくれるのに。なぜ、最も重要な「核」だけを拒むのか。
「違うのです、大助様……っ。預けたくないわけではありません。私は、狂うほどにあなた様に奥まで貫かれたい。あなたの種をこの胎に受けて、あなたの子供を孕みたい……っ!」
才蔵の顔が歪み、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「でも、駄目なのです。私の体は白くても、私の顔は……この右半分は、醜い化け物のままなのです。真田の御曹司であるあなた様の初めての契りを、こんな顔のない女が奪うことは、天地が引っくり返っても許されません。……それに」
彼女は、自らの下腹部を隠すように両手で覆い、身をすくめた。
「もし、あなた様と完全に繋がってしまったら……私はもう、護衛としての『刃』を保てなくなる。ただの、あなたを欲しがるだけの醜い雌豚に成り下がってしまう。それでは、いずれ来る戦場で、あなた様をお守りすることができなくなるのです……」
才蔵の抱える、深い矛盾と絶望。
僕への絶対的な愛着と、武士の身分制度に対する呪縛。
そして、自分自身の顔の醜さに対する、拭い去ることのできない強烈な劣等感。
彼女は、自らの完璧な肉体を僕に奉仕させることで僕の愛を繋ぎ止めながら、最後の一線を引くことで、自らの「守り刀としての存在意義」をギリギリのところで保っていたのだ。
その悲壮なまでの決意を知った時。
僕の性欲は、いつの間にか、もっと暗くて重い「別の感情」へと変質していた。
それは、彼女のこの悲しい防壁を、いつか必ず粉々に打ち砕いてやりたいという、雄としての残酷なまでの支配欲だった。
「……分かった。今は、ここまでにしておく」
僕は、無理に彼女の奥へ進むのをやめた。
その代わり、僕は彼女の焼け爛れた右顔を両手で包み込み、そのケロイドの傷跡に、強く、深く口付けた。
「ああっ……大助様……っ」
「だがな、才蔵。覚えておけ」
僕は彼女の傷跡を舐めながら、耳元で低く囁いた。
「時代がいずれ壊れる。父上が起こす戦争で、真田の家名も、武士の身分も、すべてが炎に焼かれて灰になる時が来る。その時……お前を縛っているその呪いを、僕が全部引きちぎってやる」
才蔵の体が、ビクンと大きく跳ねた。
「お前のその完璧な体に、僕という消えない傷を刻み込んでやる。その顔が化け物なら、僕も一緒に化け物に堕ちてやる。……お前の奥底をこじ開けるのは、絶対に僕だ」
その言葉を聞いた才蔵の左目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
彼女は言葉にならない叫びを上げながら、自らの豊かな乳房を僕の顔に押し付け、狂ったように僕の全身に接吻を浴びせ始めた。
「あぁ……! あぁぁ……大助様……っ! 私の神様、私の愛しい坊や……っ!」
紀ノ川の淀みで、無数の蛍が僕たちを包み込むように舞っていた。
それはまるで、死者たちの魂が、僕たちのこの狂った、しかし純粋すぎる愛の儀式を祝福しているかのようだった。
僕は彼女の白磁の肌の感触と、顔の右半分の火傷の熱を同時に味わいながら、夜の森の奥深くへと堕ちていった。
最後の一線を残したままの、この生殺しのような関係。
しかし、だからこそ、僕たちの間に横たわる愛執は、世界中のどんな男女の交わりよりも重く、そして逃げ場のないほどに濃密なものとして完成されていた。
僕の青春は、この顔のない完璧な女の胎内に、すでに完全に絡め取られていた。




