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死ねない僕と、顔のない伴女  作者: 光闇居士-Twilight Master


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第06章:師と弟子、触れ合う肌

紀伊の山深く、神々が打ち捨てたような切り立った渓谷の底には、液化した硝子のように澄み切り、そして刃物のように冷たい川が流れていた。


空を覆い尽くす原生林の天蓋を透過した光は、幾筋もの黄金の糸となって暗緑色の苔に降り注ぎ、空気中を舞う微小な水飛沫を乱反射させている。視界を埋め尽くす圧倒的な自然の造形美。ここは人間の倫理や歴史などというちっぽけな概念が及ばない、純粋な暴力と生命の循環だけが支配する神域だった。


その美しい静寂の中を、肉と骨が激しくぶつかり合う鈍い打撃音と、荒々しい獣のような息遣いが引き裂いていた。


「遅い。重心が高すぎる」


冷徹な声と共に、僕の視界が横方向に激しく回転した。

受け身を取る暇すらなかった。背中から川原の冷たい丸石と泥濘(ぬかるみ)の上に叩きつけられ、肺の中の空気が一瞬にして強制排気される。


「がはっ……!」


喉の奥で血の味がした。

咳き込み、泥水の中で体を丸めようとした僕の右腕を、濡れた黒装束が音もなく絡め取った。そのまま手首を極限の角度まで捻り上げられ、肩の関節が限界点に達してメリメリと不吉な音を立てる。


僕の背中の上に、才蔵が馬乗りになっていた。


「敵は、大助様が立ち上がるのを待ってはくれません。刃の届く距離に入れば、一瞬の躊躇いが腸(はらわた)をぶちまける結果に直結します」


才蔵の声には、一片の感情も混じっていなかった。

彼女は容赦なく僕の右腕の関節を極めながら、もう一方の手に持った木刀の切先を、僕の頸動脈にピタリと押し当てている。木の表面のささくれが、僕の皮膚を僅かに傷つけ、チリッとした痛みが走る。


「……降参、だ。才蔵、腕が……折れる」


泥に顔を押し付けたまま、僕は掠れた声で降伏を宣言した。

数秒の静寂。渓谷を流れる水音だけが、耳元で異様に大きく響く。


不意に、関節を軋ませていた強烈な圧力がスッと消え去った。

同時に、僕の背中に乗っていた「死神の重み」が、ひどく柔らかく、そしてむせ返るほど熱を帯びた女の質量へと変貌したのだ。


「あぁ……私の坊や。痛かったでしょう。ごめんなさいね」


先ほどまでの氷点下の声はどこへ消えたのか。鼓膜を直接舌で舐められるような、過剰に甘く、粘着質な声が僕の耳元に降ってきた。

才蔵は僕の上から退くことなく、むしろその体を泥だらけの僕の背中にぴったりと密着させてきた。

濡れた黒装束越しに伝わってくる、豊かな双丘の感触。彼女の心臓の鼓動が、僕の肩甲骨越しにトクトクと伝わってくる。


「ひどい泥……。怪我はないですか? 腕、折れていないですか?」


彼女は僕を仰向けにひっくり返すと、自らの膝の上に僕の頭を乗せた。

逆光の太陽を背に受けた彼女の顔が、僕を見下ろしている。

左半分の、白磁のように滑らかで完璧な美貌。

そして右半分の、赤黒く焼け爛れ、引き攣れた凄惨な火傷の痕。

激しい組み手の後で、彼女の額には薄っすらと汗が浮かび、乱れた黒髪が美しい左の頬に張り付いている。彼女から立ち昇る匂いは、泥の臭いと、冷たい川の匂い、そして彼女特有の濃厚な伽羅の香りとが混ざり合い、僕の脳の奥底にある最も原始的な神経を直接刺激した。


「才蔵、僕は……平気だ」


息を整えながら、僕は彼女の顔を見つめ返した。

至近距離で触れ合う肌と肌。戦闘訓練という名目のもとで、僕たちは毎日こうして互いの肉体を極限までぶつけ合っている。関節を取り合い、息の根を止めようと密着するその行為は、いつしか僕の中で、単なる武術の稽古を超えた「暴力的な交尾」のような倒錯した感覚へとすり替わりつつあった。


彼女の冷たい指先が、僕の泥だらけの頬を愛おしそうに撫でる。


「さあ、このままでは風邪を引いてしまいます。体を清めましょう」


才蔵はそう言うと、僕を抱き起こし、冷たい川の淀みへと誘導した。

彼女は自らの黒装束の帯を解き、濡れた布を躊躇いもなく川岸の岩の上へ滑り落とす。


原生林の濃緑と、川面の煌めきを背景にして、彼女の体が白日の下に晒された。

息を呑むほど美しい、純白の裸体。

滑らかな肩のラインから、豊かな胸の膨らみ、そして引き締まった腰のくびれ。しかし、その完璧な肉体にもまた、関ヶ原の業火が残した凄惨な爪痕が刻み込まれていた。右の首筋から胸元、そして脇腹にかけて、赤黒いケロイドが白磁の肌を叩き割るように這っている。

その醜悪な傷跡が、木漏れ日の中で不気味なほど妖艶な生気を放ち、僕の視線を強烈に惹きつけて離さなかった。


「大助様、お召し物を」


才蔵は僕の泥だらけの着物を手際よく脱がせると、冷たい川の水を手ですくい、僕の胸元から肩にかけて静かに掛け流した。


「ひっ……!」


氷水のような冷たさに、僕は身をすくませた。

だが、それ以上に僕の体を強張らせていたのは、彼女の指先が僕の肌を這う感触だった。

才蔵は僕の背中に回り込み、柔らかな布で僕の体の泥を丁寧に拭い始めた。彼女の豊かな胸が、僕の背中に密着している。冷たい水と、彼女の体から伝わるマグマのような熱。その強烈な温度差が、僕の下腹部に逃げ場のない熱を急速に集めていくのを感じていた。


「……あぁ、なんて美しいお体。泥を落とせば、まるで月の光を織り込んだような白い肌……」


才蔵の顔が僕の首筋にすり寄せられる。

右頬のザラザラとした火傷の感触と、左頬の滑らかな感触が、交互に僕の皮膚を撫で回す。彼女の熱い吐息が耳元にかかり、僕は無意識のうちに荒い呼吸を漏らしていた。


「才蔵……、もう、いい。自分で洗う……」


「駄目です。これは私の役目。大助様の御身体の隅々まで、私の熱で浄めさせてくださいませ」


彼女の手が、僕の腹筋をなぞり、そしてゆっくりと下へ向かって滑り落ちていった。

僕の理性が警鐘を鳴らすよりも早く、彼女の冷たい指先が、すでに熱く硬く張り詰めていた僕の中心を、優しく、しかし確かな支配欲を持って包み込んだ。


「あっ……!」


「ふふっ……。可愛い坊や。こんなに熱くなって、震えていらっしゃる」


才蔵の甘い囁きと共に、彼女の手のひらがゆっくりと動き始めた。

僕は耐えきれず、彼女の背中に腕を回し、その濡れた白い肩に顔を埋めた。


これまでの九度山での生活の中で、才蔵は幾度となく、こうして僕の「雄」としての持て余した熱を処理してくれていた。

彼女の滑らかな手で、あるいはその官能的な唇で、時にはその豊かな白と赤の傷の混ざり合う胸の谷間で。彼女は僕の肉体が発する欲望を、まるで神聖な儀式のように恭しく受け止め、僕を悦楽の絶頂へと導いてくれた。


僕はまだ若く、女という生き物の生態や、男女の交わりというものの全貌を正確には理解していなかった。

だからこそ、才蔵が与えてくれるこの圧倒的な快感と、息が詰まるほどの甘やかしに、僕は完全に依存し、満足しきっていた。

これが「愛」であり、これが「交わり」なのだと、僕は無意識のうちに信じ込んでいたのだ。


しかし。

最近になって、僕の中の何かが決定的に変化しつつあった。


「ん……、才蔵……っ」


彼女の指先の動きが早くなり、僕の脳髄が白く弾けそうになる。

だが、その快感の波の底で、僕の心の中に、どす黒く、重い「飢え」のような感情が渦巻いていることに気づいていた。


才蔵は、決して最後の一線を越えようとしない。


彼女は自らの体を惜しげもなく僕に晒し、僕の熱をその手や口で搾り取っていく。しかし、僕自身が彼女の「内側」へと侵入し、彼女を本当の意味で僕のものとして貫くことを、彼女は巧妙に、そして絶対的に拒絶していた。


『私の体は、大助様の熱を冷ますためだけの泥の器。けれど、大助様の真の契りは、いずれ天下に名だたる高貴な姫君と結ばれるべきもの……。私のような顔のない化け物が、あなた様の尊い御胤(おんたね)をこの穢れた胎(はら)に受けるなど、神仏が許しても私が許しません』


以前、僕が彼女の体を押し倒そうとした夜、彼女は狂気を孕んだ目でそう言い放ち、自らの太ももに短刀を突き立ててまで僕を拒絶したのだ。


彼女の中にある、絶対的な身分差の呪縛。

敗将の息子である僕を「神」として崇め、自らを「泥」として蔑むその狂信的なまでの線引き。

彼女は僕を溺愛し、僕のすべてを支配しているように見せかけて、実は最も重要な部分……彼女自身の「牝としての核心」だけは、頑なに僕から守り抜いているのだ。


それが、無性に苛立たしかった。


「……才蔵」


僕は、僕を愛撫し続ける彼女の手首を、乱暴に掴み止めた。


「……大助様? どうなさいましたか。痛かったですか?」


才蔵が不思議そうに顔を上げる。

水滴の滴る彼女の美しい左目。そこには、純粋な奉仕の喜びと、僕への狂信的な愛情だけが満ちている。


僕は、彼女の体を強引に引き寄せ、川原の苔の上に押し倒した。

背中に冷たい水と泥を浴びた才蔵は、驚きに目を見開いたが、抵抗はしなかった。


「大助、様……」


僕は彼女の上に覆い被さり、その右側の顔……醜く焼け爛れたケロイドの傷跡に、自分の唇を強く押し当てた。

ザラリとした肉の感触。彼女が小さく喘ぐ。

僕はそのまま、彼女の首筋、鎖骨、そして火傷の痕が刻まれた白い胸へと、噛み付くように口付けを落としていった。


「あぁ……っ、大助様、いけません……こんな泥の中で……それに、私の穢れた肌など……」


「黙れ」


僕は低く唸った。自分の声が、信じられないほど野太く、雄としての凄みに満ちていることに自分でも驚いた。


「お前は僕の影だ。僕の守り刀だ。……だったら、僕のすべてを受け入れろ。手や口だけで誤魔化すな。お前の全部を、僕の思い通りにさせろ」


僕は彼女の体を無理やり開こうとした。

この顔のない女の、理路整然とした狂信の仮面を剥ぎ取り、僕と同じように泥と快楽の底で、ただの一人の女として泣かせてやりたかった。

僕の熱を単に「処理」するのではなく、僕という存在を彼女の最奥に永遠に刻み込みたかったのだ。


だが。


「……いけません」


ガシッ、と。

僕の肩を掴んだ才蔵の手の力が、一瞬にして「武術の達人」のそれに変わった。

信じられないほどの膂力。彼女は僕の体を持ち上げるようにして、極めて静かに、しかし絶対的な拒絶をもって僕の動きを停止させた。


「才蔵……ッ!」


「いけません、大助様」


彼女の目は、悲しげに、しかし狂気を帯びた深い色で僕を見つめ返していた。


「あなた様は、真田の嫡男。いずれ天下を揺るがす武将となられる御方。初めての契りは、あなた様の格に相応しい、白無垢の姫君でなければなりません。私のような、半分しか顔のない、血の匂いしか知らない伊賀の抜け忍が、あなたの『初めて』を奪うなど……御館様への、そして大谷刑部様への最大の裏切りとなります」


彼女の言葉は、まるで呪いのように重く、そして論理的だった。

彼女は僕を愛している。狂おしいほどに。

だが、その愛の根底には、封建社会という時代が産み落とした強烈な「身分の壁」と、自らの醜さに対する絶望的なコンプレックスが横たわっているのだ。


「私でよければ、あなたの熱は何度でも冷ましましょう。手も、口も、この乳房も、すべてはあなた様の慰めのためにお使いください。ですが……その尊い命の種を、私の腐った泥の中に落とすことだけは……どうか、どうかお許しくださいませ」


才蔵の左目から、透明な涙がツーッと流れ落ち、川の冷たい水と混ざり合った。


僕は、彼女の肩を掴んだまま、荒い息を吐いた。

敗北感と、行き場のない怒り。そして、それ以上に深く重い、彼女に対する「渇望」。


僕の手を口や胸で慰められても、もう足りない。

僕は、彼女の内側へ入りたいのだ。

この狂った戦国の世で、僕のために世界を殺してくれるこの女の、本当の『おんな』としての核を打ち砕き、僕という存在で満たしたい。


「……分かった」


僕はギリッと歯を食いしばり、彼女の上から退いた。

冷たい川の水が、僕の熱り立った下半身を容赦無く冷やしていく。


「大助様……」


才蔵は起き上がり、悲しそうに僕の顔を覗き込んだ。そして、再び僕の前に跪き、今度は彼女の冷たく官能的な唇を、僕の中心へとゆっくりと寄せてきた。


「申し訳ございません……。せめて、私がすべてを飲み込み、浄めさせていただきます……」


彼女の生温かい口腔が、僕の熱を包み込む。

その瞬間、脳髄を貫くような強烈な快感が全身を駆け巡った。

しかし、僕の心の中の飢えは、全く満たされていなかった。


原生林の木漏れ日が、僕の足元でひざまずき、ただひたすらに僕に奉仕する純白と赤黒い傷の女を美しく照らし出している。


『いつか必ず』


僕は、彼女の濡れた黒髪を鷲掴みにしながら、心の中で暗い誓いを立てていた。


『いつか必ず、時代が崩れ、真田の肩書きも身分も、すべてが炎に焼かれて無に帰す時が来る。その時……お前を縛るすべての鎖を引きちぎって、お前の奥底の扉を、僕がこの手でこじ開けてやる』


川のせせらぎが、僕たちの歪な情事を冷ややかに傍観していた。

ただの主従から、絶対的な共犯関係へ。

そして今、僕の中にはっきりと芽生えた、一人の女を完全に支配し、凌駕したいという「雄」としての暴力的なまでの独占欲。それは才蔵への愛の表現かどうかは僕にも分からなかった。ただ、才蔵を自分の「雌」にしたかった。して欲しかったと思った。


九度山の深い緑に囲まれたこの小さな渓谷で、僕と顔のない伴女との間の見えない境界線は、極限まで張り詰め、今にも千切れそうな音を立てて軋んでいた。

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