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死ねない僕と、顔のない伴女  作者: 光闇居士-Twilight Master


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第05章:集え、はぐれ者たちよ

季節が、暴力的なまでの色彩を伴って反転しようとしていた。


九度山を分厚く覆っていた陰鬱な雨雲が突如として裂け、剥き出しの秋の太陽が、殺意すら感じるほどの強烈な光を森に突き刺してきた頃。

僕と才蔵だけが息を潜めていたあの密室のような世界に、外界からの強烈な「異物」たちが、血と泥と酒の匂いを引き連れて次々と闖入(ちんにゅう)してくるようになった。


時代の巨大な歯車が、狂ったような軋み音を立てて再び回り始めたのだ。

豊臣と徳川の最終戦争。その不可避の引力に吸い寄せられるように、日の本中から、死に場所を求める狂人、社会の枠組みから零れ落ちたはぐれ者、そして純粋な殺戮の快楽を求める獣たちが、父・真田幸村という特異点を目指してこの辺境の村に集結し始めていた。


◆


その日、僕は自室の薄暗い縁側から、奇妙な儀式を見つめていた。


「……よろしいですか、大助様」


才蔵の声は、鈴の音のように澄み切って、冷たかった。

彼女は、僕の目の前で、自らの顔の右半分を「封印」する作業を行っていた。

真っ白で、不自然なほどに清潔な晒(さらし)の布。それを、あの焼け爛れた赤黒いケロイドの肉の上に、幾重にも、幾重にも巻きつけていく。一切の隙間なく、肌の凹凸すらも押し潰すように。


最後に彼女が顔の下半分を覆うように装着したのは、氷のように滑らかな、純白の陶器で作られた狐の半面だった。

かつて僕の祖父から託されたあの夜、彼女の肉を焼き焦がした「鉄の面頬」とは違う。それは彼女の凄惨な過去を完全に隠蔽し、外界に対して「完璧で美しい、氷の暗殺者」という仮面を被るための装置だった。


装束もまた、僕の前で見せる濡れたような生々しい黒ではなく、一塵の埃も許さない、研ぎ澄まされた冷たさを放つ黒絹の死装束へと変わっていた。


「私のこの醜い傷と、この肌の奥にある熱を知るのは、世界で大助様、あなたただ一人でございます。……他の有象無象の獣どもに、私の本当の顔を、私の『牝』としての姿を見せるつもりは毛頭ありません」


陶器の面の奥から覗く、美しい左目。

その瞳孔は、外界に対する絶対的な見下しと、冷酷なまでの「清高(せいこう)」さに満ちていた。

彼女は、僕以外のすべての人間を、路傍の石か、あるいは這い回る虫けら程度にしか認識していない。真田家に集う伝説の勇士たちであろうとも、彼女にとっては、僕の視界を汚す不快なノイズでしかないのだ。


「才蔵……」


「さあ。参りましょう。庭に、薄汚い猿が一匹、迷い込んできたようです」


才蔵がスッと立ち上がった瞬間、彼女から放たれていたあのむせ返るような伽羅の香りと、甘い体温が完全に消失した。

代わりに部屋を満たしたのは、絶対零度の冷気と、研ぎ澄まされた刃物のような静謐(せいひつ)な殺気だった。

僕は、自分の所有物である狂った女が、外界に対してどれほど恐ろしい「氷の女王」として君臨するのかを、この時初めて目の当たりにすることになる。


◆


縁側を出て庭へ向かうと、強烈な秋の陽射しが苔むした庭石を白く飛ばしていた。

不自然なほどコントラストが強い真昼の光。その光の中央、庭の古い松の木の枝に、「それ」はぶら下がっていた。


「あはっ! あはははははっ!」


甲高く、無邪気で、そして背筋が凍るほど感情の欠落した少年の笑い声。


枝から逆さにぶら下がっているのは、僕より少し年上……十五、六歳に見える小柄な少年だった。

柿色の鮮やかな装束を着ているが、その所々には、乾いて赤黒くなった他人の血がべっとりとこびりついている。

彼は逆さ吊りのまま、両手で何か丸いものを鞠(まり)のように放り投げ、キャッチする遊びを繰り返していた。


グチャッ。


彼がその丸いものを取り損ね、それは苔の上に鈍い音を立てて転がった。

僕の足元まで転がってきたそれを見て、僕は反射的に息を呑んだ。


人間の頭部だった。

眼球は見開かれたまま白濁し、顎からは引きちぎられた食道と気管が、だらりと赤い管のように垂れ下がっている。まだ新しい。数時間前に刈り取られたばかりの、徳川の伊賀者の首だ。


「あーあ、落っこちちゃった。ごめんね、おじさん。でもおじさん、首の骨を折る時、すっごく変な声で鳴くからさぁ。僕、おかしくて手元が狂っちゃったよ。あはははっ!」


少年は枝から音もなく飛び降りると、まるでピクニックにでも来たような足取りでこちらへ近づいてきた。

大きな二重の目、人懐っこい笑顔、あどけない顔立ち。

しかし、その瞳の奥には、他者の痛みを理解する機能が完全に欠落した、深淵のような「空虚」が広がっていた。純粋な快楽として命を弄ぶ、底抜けに明るいサイコパス。


「君が、大助くん? 御館様の息子さんだよね! 僕は猿飛佐助(さるとび さすけ)! 信濃の山奥から、面白い殺し合いができるって聞いて、飛んできたんだ!」


佐助は血まみれの手を無邪気に差し出し、僕の顔を覗き込んできた。

その無防備な笑顔の裏に隠された、極度の異常性。彼が腰に帯びているのは、特殊な形状の「甲賀流の手裏剣」と、肉を抉り取ることに特化した鋸歯(のこぎりば)の短刀だった。実用性と残酷さだけを追求した、冷武器の極致。


「よろしくね、大助くん! あ、これ、お土産! 徳川のネズミだよ。腸(はらわた)を木に結んで逆さ吊りにしたら、自分の重みでどんどん腸が引き出されていってさ、すっごく綺麗な赤い糸みたいだったんだー!」


佐助が屈託なく笑いながら、僕の肩に血まみれの手を伸ばそうとした、その瞬間だった。


——ヒュンッ。


空気が、凍りついた。

佐助の鼻先、わずか一寸(約3センチ)の空間を、目に見えない絶対的な「死の壁」が分断した。


「……薄汚い手を、私の主に触れさせるな。猿」


僕の背後から、氷の結晶が擦れ合うような、冷酷極まりない声が響いた。

いつの間にか、才蔵が僕の前に滑り出ていた。

彼女は刀すら抜いていない。ただ、純白の狐面の奥にある左目で、佐助を冷ややかに見下ろしただけだ。

しかし、その体から放たれる殺気は、周囲の秋の陽射しを物理的に遮断するほどに濃密で、圧倒的だった。


佐助の笑顔が、ピクリと止まった。

彼の野生の勘……サイコパスとしての純粋な生存本能が、目の前の女が自分とは次元の違う「本物の化け物」であることを瞬時に理解したのだ。


「……うわぁ」


佐助はゆっくりと手を引っ込め、両手を挙げて降参のポーズをとった。しかし、その顔には引きつったような笑みがへばりついている。


「すごいね、お姉さん。今、僕の首の皮一枚、殺気だけで切ったでしょ? こわーい。伊賀の霧隠才蔵……噂には聞いてたけど、血の匂いが全然しないんだね。まるで、死体みたいだ」


「口を慎め。お前のような下賤の獣が、私の名を気安く呼ぶな。……次、大助様の視界をその不快な血の匂いで汚せば、お前自身の腸で、お前をこの屋敷の梁に吊るしてやる」


才蔵の言葉は、単なる脅しではない。完全な事実の宣告だった。

完璧な白と黒のコントラストに身を包んだ彼女の立ち姿は、泥と血に塗れた佐助とは対極にある、神聖なまでの美しさと、そして人間性を排除した「清高な残酷さ」に満ちていた。


「おいおいおいおい! 若ぇの、そんくらいにしとけや! 猿が小便漏らして泣いちまうぞ!!」


突如、地響きのような大声と共に、庭の木戸がへし折れる音響いた。

ドズン、ドズンと、庭の地面を揺らしながら入ってきたのは、一見して人間とは思えないほどの巨躯を誇る男だった。


身長は六尺(約180センチ)を優に超え、横幅はクマのように分厚い。

頭を青々と剃り上げ、上半身はぼろぼろの法衣を纏っているが、その下からは岩のように隆起した筋肉が覗いている。


三好清海入道(みよし せいかい にゅうどう)


出家した身でありながら、首からは巨大な数珠の代わりに、敵の指の骨を繋ぎ合わせたような禍々しい首飾りを下げていた。


彼が肩に担いでいるのは、常人なら持ち上げることすら不可能な、純鉄製の巨大な六角金砕棒(かなさいぼう)だった。表面には、人間の頭蓋骨を叩き割った際にこびりついたであろう、白濁した脳漿と血の塊が黒く乾燥してこびりついている。


「ガハハハッ! 九度山は湿気くせぇが、血の匂いは一等上等だぜ! 御館様はどこだ!? 徳川の坊主どもの頭を、この金砕棒で木魚代わりに叩き割ってやるって約束しに来たんだぜ!」


清海入道は、酒と生臭い獣の匂いを撒き散らしながら、庭の中央でどしんと胡座をかいた。

彼の背後からも、次々と影が現れる。

顔を笠で深く隠し、長大な野太刀を引きずる無口な剣鬼。

全身に火薬の匂いを染み込ませた、痩せぎすの火縄銃使い。

いずれも、平和な江戸の世では絶対に生きられない、戦争という狂気の時代だけが産み落とした「殺戮のエキスパート」たちだ。


彼ら……後に真田十勇士と呼ばれる男たちが発する、暴力と混沌のオーラ。

それは、普通の少年であれば、直視しただけで精神に異常を来すほどの圧倒的なプレッシャーだった。


しかし、僕は不思議なほど落ち着いていた。

いや、むしろ、僕の胸の奥には、彼らを見下ろすような、暗く歪んだ優越感すら芽生えていた。


なぜなら。


「……臭い」


才蔵が、狐面の下で小さく舌打ちをした。

彼女は、庭に集まった伝説の勇士たちを一瞥もせず、ただ僕の足元に跪き、純白の手拭いで、僕の草履の先に跳ねた微かな泥を丁寧に拭い始めたのだ。


「大助様、このような場所は空気が汚れております。奥の座敷へ戻りましょう。私が、新しいお茶を淹れますゆえ」


才蔵のその態度は、清海入道や佐助といった歴戦の猛者たちに対する、絶対的な「拒絶」であり「格の違い」の誇示だった。

彼女の放つ、氷のように冷たく、一切の妥協を許さない静謐な威圧感の前に、さしもの清海入道も、狂人の佐助も、一歩たりともこちらへ踏み込むことができなかった。


彼らは本能で理解しているのだ。

この純白の狐面を被った女が、この場にいる誰よりも速く、誰よりも残酷に、そして誰よりも「命に対する執着がない」本物の死神であることを。


そして、僕は知っている。

この恐るべき氷の女王が、僕と二人きりの密室に入った瞬間、どのような声で喘ぎ、どのような熱を僕の肌に押し付けてくるのかを。

あの焼け爛れた右頬の痛みを。伽羅の香りと、僕の血を舐め上げる時の恍惚とした表情を。


外界に対しては絶対的な壁絶を誇り、誰も触れることのできない「清高な神」として振る舞う才蔵。

その神の素顔を知り、その熱い肉体を泥の中で抱きしめ、彼女に完全な支配を受けながら、同時に彼女を精神的に支配しているのは、世界で僕ただ一人なのだ。


この特権階級的な倒錯。

十勇士というバケモノたちが集まれば集まるほど、彼らが才蔵の冷たさに震え上がるほど、僕と才蔵の間に横たわる「共犯関係」の密度は、いや増して濃密に、そしてエロティックに熟していくのを感じていた。


「……そうだな、才蔵。少し、ここは騒がしい」


僕は、佐助と清海入道たちに冷たい視線を一度だけ投げると、踵を返して屋敷の奥へと歩き出した。

才蔵は音もなく立ち上がり、僕の影のように、ぴったりと半歩後ろを付いてくる。


「待てよ、大助くん! 僕たち、これから仲間になるんだぜ!? 仲良く……」


佐助が慌てて声をかけてきたが、才蔵が振り返り様に放った一瞥の殺気が、彼の言葉を物理的に切断した。


「猿。次に大助様に馴れ馴れしく口を利けば、お前のその口を縫い合わせる。……主と獣の区別くらい、本能で察しろ」


才蔵の静かな宣告が、庭に冷たく響き渡る。

僕たちは、彼らの視線を背中に浴びながら、薄暗い廊下の奥へと消えていった。


◆


夜。

屋敷の広間では、父・幸村を囲んで、集まったはぐれ者たちが大宴会を開いていた。

割れ鐘のような清海入道の笑い声と、佐助の狂ったような甲高い声。床板を踏み鳴らす音。安酒の強烈なアルコール臭が、屋敷中に充満している。

彼らは、遠からず始まるであろう大坂城での「死への祭典」を前に、自らの血を沸騰させ、極限のテンションを高め合っていた。


しかし、その狂乱から最も遠い場所。

屋敷の最奥にある僕の寝所は、完全な防音室のように静まり返っていた。


障子が一枚隔てた先では狂人が踊っているというのに、この四畳半の空間だけは、まるで水底のように深く、甘い静寂に包まれていた。


「……大助様。お着替えを」


才蔵は、すでに狐面も、白い晒しも外していた。

外界に見せていたあの氷の女王の仮面は、僕の部屋に入った瞬間に完全に脱ぎ捨てられていた。


行灯の仄暗いオレンジ色の光が、彼女の顔を照らし出す。

左半分の、人間離れした完璧な美しさ。

そして右半分の、赤黒く盛り上がり、生々しく引き攣れたケロイドの肉。

その傷跡には、今日もまた、彼女の体温によるマグマのような熱が宿っている。昼間、佐助や清海に見せていたあの無機質な冷たさは微塵もない。

彼女の目は、ただひたすらに、僕という存在に飢えた「牝」の熱情で潤んでいた。


「才蔵」


僕は、着物を脱がせようとする彼女の冷たい手首を掴み、その手を、彼女自身の右頬……火傷の痕へと持っていった。


「昼間、お前が彼らに見せたあの顔……。誰も、お前のこの熱を知らないんだな」


僕の言葉に、才蔵はゾクリと背筋を震わせ、喉の奥で「あっ……」と甘い吐息を漏らした。

彼女の美しい左頬が、恥じらいと興奮で赤く染まる。


「はい……。私のこの傷は、大助様だけのもの。私の冷たい殻の下にある熱い臓腑も、汚れた血も、すべてはあなた様だけに捧げられた供物でございます……」


才蔵は僕の手のひらに顔を押し付け、目を閉じて恍惚とした表情を浮かべた。

僕は、外界で恐れられる最強の暗殺者が、今、僕の手の中で一匹の従順な獣として鳴いているという事実に、背骨が溶けるような快感を覚えていた。


「あの猿や、坊主どもは、お前を氷の化け物だと思っている。だが、僕だけは知っている。お前がどれほど熱く、僕を求めて泣く女なのかを」


「あぁ……大助様……っ。意地悪なことを、おっしゃらないで……」


才蔵の体が崩れ落ちるように僕の胸に寄りかかり、その濡れた唇が、僕の首筋に熱い印を刻み始めた。

外では、猛者たちの野蛮な宴の音が響いている。

しかし、その騒音さえも、今の僕たちにとっては、この密室の異常な倒錯を際立たせるための素晴らしい背景音楽(BGM)でしかなかった。


「私を、飼い慣らしてくださいませ。大助様。あの獣どもを統べるのは御館様ですが、この私という最強の怪物を御し、鎖を繋げるのは、世界であなた様だけでございます……」


伽羅の香りが、夜の闇を濃密に染め上げていく。

僕は、彼女の火傷の痕に唇を落としながら、ゆっくりと彼女の黒装束の紐を解いた。


時代がどれほど狂気へと加速しようとも。

どれほど恐ろしいバケモノたちがこの九度山に集結しようとも。


僕と、顔のない伴女との間に築かれたこの血と熱の城郭だけは、誰にも不可侵の聖域として、暗く、美しく完成されつつあった。

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