第04章:痛みの記憶(伴女の過去)
血の匂いが、冷たい水に溶けていく。
古びた木桶に張られた井戸水は、才蔵が濡れ手拭いを絞るたびに、透明から薄紅、そして深い赤黒い色へと濁っていった。チャプ、チャプという静かな水音だけが、深夜の座敷に響いている。
縁側の外に転がっていた三つの首無し死体は、いつの間にか闇に消えていた。才蔵がどうやってあの肉塊を処理したのか、僕は知らないし、聞きたくもなかった。
「……痛みますか、大助様」
才蔵は、僕の乱れた寝巻きをはだけさせ、白く細い指先で僕の胸元についた他人の血を拭い取っていた。彼女の指は氷のように冷たいが、血を吸った手拭いは不気味なほど生温かい。
僕は首を横に振った。恐怖と興奮で麻痺した脳は、もはや痛みなど感じていない。ただ、至近距離にいる彼女の、息が詰まるほどの伽羅の香りと、水に濡れて肌に張り付いた黒装束から透ける女の起伏に、視線が釘付けになっていた。
「私の血ではありません。彼らの……」
「ええ。豚どもの汚い血です。あなたの白く美しい肌には、一滴たりとも残しておきたくない」
彼女はそう言うと、僕の鎖骨の窪みに溜まった薄赤い水滴を、自らの舌でチロリと舐め取った。背筋を這い上がる悪寒と、下腹部に溜まる熱。その強烈な矛盾に、僕は小さく息を漏らした。
才蔵の顔の右半分。
僕の肌を這う彼女の顔には、あの赤黒く盛り上がったケロイドの肉が、隠されることなく晒されている。月光と、部屋の隅に置かれた行灯の微かな灯りが、その焼け爛れた凹凸に深い陰影を作っていた。
僕は、無意識の内に右手を伸ばし、彼女のその醜悪で、しかし酷く熱を帯びた傷跡に触れていた。
ザラリとした、硬く引き攣れた皮膚の感触。
才蔵の動きが止まった。美しい左目が、驚きと、そして底知れぬ歓喜に濡れて僕を見つめ返す。
「……才蔵。この傷は」
僕の問いかけに、才蔵は僕の手のひらに自らの右頬をすり寄せ、喉の奥で猫のように甘く鳴いた。
「知りたいですか。私がかつて、どれほどの業火に焼かれ、どうしてあなたという『神様』に出会えたのかを」
彼女の声が、一段と低く、そして粘着質に変わる。
それは、僕を過去の地獄へと引きずり込む、甘い呪文だった。
「これは、あなたの中に流れるもう一つの血……大谷刑部様の、終わりの記憶です」
大谷吉継。僕の母の父であり、僕の祖父にあたる男。
関ヶ原で西軍の要として戦い、小早川秀秋の裏切りによって壊滅し、自刃した悲劇の将。その名前が出た瞬間、僕の心臓が不自然なリズムで跳ねた。
才蔵は僕の胸元に顔を埋めたまま、ゆっくりと、その冷たい唇で言葉を紡ぎ始めた。
「――慶長五年、九月十五日。関ヶ原の朝は、ひどく冷たい雨と、深い霧に沈んでいました……」
彼女の語りが始まった瞬間、僕の視界から九度山の古い天井が消え失せた。
代わりに脳裏に広がったのは、彩度を極限まで落とした、鉛色の空と泥濘の荒野だった。
◆
(ここからの視点は、才蔵の「私」へと溶け込んでいく)
私の足袋は、すでに血と泥で重く水を吸い、皮膚と布の境界線すらわからなくなっていました。
伊賀の抜け忍として大谷軍に雇われていた私は、陣の最前線、馬防柵の陰に潜み、その時を待っていました。
鼻腔を突くのは、踏み荒らされた夏草の青臭さと、何万人という人間が放つ極度の緊張と恐怖の匂い。アドレナリンと脂汗が混ざった、むせ返るような獣の悪臭です。
やがて霧が晴れ、鬨の声が上がりました。
それは人間の声ではありません。世界そのものが悲鳴を上げているような、鼓膜を圧迫する物理的な轟音。
そして、鉄砲の斉射が始まりました。
ドガァァァン!!
雷鳴などという生易しいものではありません。空気を物理的に引き裂き、内臓を直接揺さぶるような大音響。
硝石と硫黄の焦げる鼻を突く匂いが、一瞬にして戦場を覆い尽くします。
私は見ました。東軍の放った何千発もの鉛玉が、空気を切り裂く白い軌跡を残しながら、味方の陣へと降り注ぐのを。
鉛の弾丸は、肉体を貫通するだけではありません。
黒漆塗りの南蛮胴を紙のように叩き割り、その下にある人間の骨を粉砕し、砕けた骨そのものを二次的な散弾に変えて、隣にいる兵士の顔面をズタズタに引き裂くのです。
スローモーションのように、頭部を半分吹き飛ばされた足軽が、自らの脳漿を空中に撒き散らしながら泥の中に倒れ込む姿が網膜に焼き付きました。
そこには、武士の誉れも美しさもありません。ただ、巨大な質量と運動エネルギーが、人間の肉という柔らかい有機体を、無惨なゴミへと変換していく暴力の工場があるだけでした。
刃の戦いもまた、凄惨を極めました。
朱槍が肉に食い込む鈍い音。鎬を削り、血流し(ちながし)と呼ばれる槍の溝から、赤黒い血がポンプのように噴出します。
人間は、あんなにも容易く壊れ、あんなにも大量の赤い液体を隠し持っているのだと、私は冷ややかな目で観察していました。
やがて、小早川の軍勢が松尾山を駆け下り、味方の側面に牙を剥きました。
裏切り。
その瞬間、大谷軍の運命は決まりました。
津波のような敵兵が、陣を蹂躙していきます。泥は血の海と化し、切断された手足や、引きずり出された腸が、足の踏み場もないほどに散乱していました。
私は、崩壊していく陣の中を、ただ影のように駆け抜けました。
私に与えられた最後の任務。それは、本陣にいる大谷刑部様……あなたの祖父上の元へ辿り着くことでした。
本陣の床几に、その人は座っていました。
大谷刑部吉継。
業病(ハンセン病)に侵され、目はすでに光を失い、皮膚は崩れ落ちて白い絹の頭巾で顔を覆った将。
周囲では近習たちが次々と敵の刃に倒れ、血飛沫が彼の純白の陣羽織を斑に染め上げていくというのに、彼だけは、まるで深い瞑想にある仏像のように、圧倒的な静謐を保っていました。
「……来たか、伊賀の影よ」
目が見えないはずの刑部様は、私が数間先に着地した音を正確に聞き取りました。
崩れかけた唇の隙間から漏れる声は、病によって掠れてはいましたが、背筋が凍るほどの威厳と、不思議な透明感を帯びていました。
「陣は崩れた。私の首が落ちるのも、もはや時間の問題だ。……影よ。お前に最後の仕事を頼む」
私は音もなく平伏しました。
刑部様は、傍らに置いてあった黒漆塗りの文箱を、震える手で私の前に差し出しました。
「これを、信州上田にいる我が娘の婿……真田源次郎(幸村)に届けよ」
「中身は、何でございましょう」
「遺髪と、真田への書状だ。……それから、私の『言葉』を頼む」
刑部様は、見えない目で空を見上げました。
その時、私は彼が何を言うのかと身構えました。戦術的な遺言か、徳川への呪詛か、あるいは豊臣への忠義の言葉か。
しかし、彼の口から紡がれたのは、あまりにも泥臭く、人間らしい、一人の父親としての言葉でした。
「『すまない』と。……竹林院(娘)を悲しませることになって、すまないと。源次郎、どうかあの子を、そして生まれてくるであろう孫を……生き延びさせてくれ。泥水を啜ってでも、真田の血と大谷の血を、次の時代へ残してくれと。そう伝えてくれ」
その言葉には、戦国の英雄としての虚飾は一切ありませんでした。
ただ、家族の生存を渇望する、一人の老いた男の血の滲むような願い。
あなたの父上である幸村様と、母上に対する、強烈な愛でした。
「承知いたしました。必ずや」
私が文箱を受け取ったその直後、敵の怒涛のような鬨の声が本陣を包囲しました。
「行け。私の首は、湯浅五助(側近)に命じて深く埋めさせる。敵の汚い手に、この首を渡すわけにはいかんからな」
それが、私が聞いた大谷刑部様の最後の言葉でした。
私は背を向け、地獄の釜の底へと再び身を投じました。
逃走の道は、もはや人間の歩く場所ではありませんでした。
東軍の足軽たちが、略奪と興奮に狂い、火を放ち始めていたのです。枯れ草に火が移り、陣幕が燃え上がり、関ヶ原は文字通りの火の海と化しました。
私は文箱を油紙で包み、胸元に固く抱きしめたまま、煙と炎の迷路を駆け抜けました。
肺が焼け焦げそうでした。煙で視界は数寸先しか利かず、足元には黒焦げになった死体が折り重なっています。
その時です。
私の横を駆け抜けようとした敵の騎馬武者が、炎に驚いた馬から振り落とされ、私の目の前にあった火薬樽の山に激突しました。
閃光。
音が聞こえるよりも先に、視界が純白に染まりました。
次の瞬間、私の右半身を、物理的な「暴力」としての熱波が襲いました。
「――――ッ!!」
声になりませんでした。
爆風によって数間吹き飛ばされ、泥の中に叩きつけられた私は、自分の顔の右半分に、これまで経験したことのない絶望的な痛みが走っていることに気づきました。
忍びの装束の面頬……顔の下半分を覆う鉄製の防具が、爆発の超高熱を吸収し、真っ赤に焼け爛れていたのです。
その超高温の鉄が、私の右頬から顎にかけての皮膚に、ジュウジュウと音を立てて張り付いていました。
「あ……が、あぁぁ……ッ!!」
自分の肉が焦げる匂い。豚の脂を直接火に焚べたような、甘く、吐き気を催す悪臭。それが、自分自身の顔面から発せられているという恐怖。
痛みが神経の許容量を超え、脳が白濁していきます。
熱い。熱い。肉が溶ける。鉄が骨にまで達しようとしている。
私は狂ったように泥を掴み、自分の右顔に押し当てました。
ジュッ、と水蒸気が上がり、泥と溶けた皮膚が一体化して、さらなる激痛が走ります。面頬を剥ぎ取ろうと手が触れた瞬間、指先の皮膚すらもジュリッと焼け焦げました。
私は泥の中をのたうち回り、獣のような声にならない悲鳴を上げ続けました。
死ぬ。
このまま痛みに狂って死ぬ。
そう思った時、私の胸元で、硬い感触が肋骨を圧迫しました。
大谷刑部様から託された、あの文箱でした。
『孫を……生き延びさせてくれ。泥水を啜ってでも』
あの声が、業火の轟音を切り裂いて脳裏に響きました。
ここで死ねば、あの静寂な男の最後の願いすら、この泥の中に消える。
私は、自らの右顔面を覆う超高温の鉄の面頬に、両手の指を引っかけました。
そして、声帯が千切れるほどの絶叫と共に、自らの顔の肉ごと、その鉄の塊を無理やり引き剥がしたのです。
ブチブチッ、と肉の繊維が断ち切られる醜悪な音。
右の視界が血で真っ赤に染まり、露出した筋肉と神経が外気に触れて、発狂しそうな激痛が全身を貫きました。
しかし、私は立ち上がりました。顔の右半分から血と体液を滝のように流しながら、幽鬼のように炎の中を歩き出したのです。
地獄でした。
私がどうやって関ヶ原の包囲網を抜け、信州の上田まで辿り着いたのか、正直なところ記憶が定かではありません。
傷口には蛆が湧き、腐敗臭を放ちながら、ただ「届ける」という一つの「念」だけで動く、醜悪な肉の塊と化していました。
数週間後。
私は上田城の奥の間に、文字通り這いつくばっていました。
目の前には、一人の男が座っていました。
あなたの父上、真田幸村様です。
幸村様は、私が差し出した血と泥に塗れた文箱を受け取り、中身の遺髪と書状を無言で見つめました。
天下に名高い戦の天才。血も涙もない鬼将。私はそう聞いていました。
しかし、私の残された左目に映ったその男は、静かに、ただ静かに、大粒の涙をこぼしていたのです。
「……刑部殿」
幸村様は、遺髪を両手で包み込み、声を押し殺して咽び泣きました。
それは、英雄の涙ではありませんでした。義理の父を失い、自らも敗軍の将としてすべてを失おうとしている、一人の弱い人間の、むき出しの悲哀でした。
その姿を見た時、私はなぜか、顔の激痛が少しだけ和らぐのを感じました。この人もまた、私と同じように心に火傷を負い、血を流しているのだと分かったからです。
やがて幸村様は涙を拭い、顔の半分が腐り落ち、化け物のような姿になっている私を見下ろしました。
「お前は、地獄の業火を抜けて、私の元へこの想いを届けてくれた」
幸村様は立ち上がり、私の傍らに膝をつくと、一切の躊躇いもなく、私の蛆の湧いた右顔に自らの手を当てました。
「この傷は、真田と大谷が背負うべき業を、お前が引き受けてくれた証だ」
「……御館様」
「私と竹林院の間には、もうすぐ子が生まれる。大助という名にするつもりだ」
幸村様の目が、深い闇のような覚悟の色を帯びました。
「我々は流人となる。あの子は、敗者の濃い血を引いて、この狂った世界に生まれ落ちる。世界は必ず、あの子を理不尽な炎で焼き尽くそうとするだろう。私では、守りきれぬ日が来るやもしれん。……影よ」
「は、はい……」
「お前は炎の恐ろしさを知っている。痛みを、地獄を知っている。だからこそ……どうか、あの子の『守り刀』となってくれ。お前のその傷に誓って、あの子だけは、絶対に死なせないと約束してくれ」
私は、ただ涙を流して頷きました。
右目からは血の混じった涙が、左目からは透明な涙が、交互に畳を濡らしました。
その瞬間、私という存在の目的が書き換えられたのです。
伊賀の抜け忍としてではなく、真田の道具としてでもなく。
あなたという、まだ見ぬ命を炎から守るための、絶対的な「盾」として。
◆
(現在——九度山の自室)
「……それが、この傷の理由です」
才蔵の語りが終わった。
部屋は、深い沈黙と、濃密な夜気に満ちていた。
彼女の濡れた黒装束から伝わる冷気とは裏腹に、僕に押し付けられている彼女の右顔の傷跡は、まるで今も関ヶ原の残り火が燻っているかのように、熱く脈打っていた。
僕は、言葉を失っていた。
祖父・大谷吉継の凄惨な最期。父・幸村の隠された涙。
そして何より、僕という存在が生まれる前から、この女が僕のためにどれほどの地獄を這いずり回り、どれほどの苦痛を代償として僕の「影」となったのか。
「才蔵……」
僕の声は、情けないほど震えていた。
僕は、彼女の右頬のケロイドを覆うように、自分の両手をそっと添えた。
「痛かった……だろう」
その単純な言葉を聞いた瞬間、才蔵の左目から、大粒の涙がボロボロと溢れ落ちた。
彼女は僕の手のひらに顔を擦り付けながら、まるで幼子のように嗚咽を漏らした。
「あぁ……大助様。私の、私の坊や……。あなたの血の中には、あの日の刑部様の声が、幸村様の涙が流れている。私はそれを見るたびに、どうしようもなく愛おしくて、狂おしくて、心が壊れそうになるのです」
彼女の冷たい腕が、僕の背中を力強く抱きしめた。
それはもはや、護衛としての抱擁ではなかった。自分自身の存在意義を、僕という肉体に完全に依存し、融合させようとする、極めて病的な愛情表現だった。
「私は炎に焼かれました。顔を半分失い、女としての生も捨てた。でも、だからこそ、私はあなたを守れる。世界がどれほど残酷な炎であなたを包もうとも、私があなたの肉の盾となりましょう」
才蔵の唇が、僕の首筋に這い、そしてゆっくりと上へ登ってくる。
顎から、頬へ。
そして、彼女の冷たく、血の匂いのする唇が、僕の唇に重なった。
息が詰まるほどの、深く、貪欲な接吻。
彼女の口腔内から、甘い唾液と共に、言葉にならない激情が僕の中へと流し込まれていく。
右顔のザラザラとした火傷の感触が、僕の頬を摩擦し、微かな痛みを伴う快感を引き起こした。
「あなたには、火の粉一つ触れさせはしない。あなたが死ぬ時は、私がこの世から完全に消滅した時だけです……」
唇を離した才蔵は、恍惚とした表情でそう囁いた。
僕は、彼女の腰に腕を回し、その濡れた装束ごと、彼女の体を強く抱き寄せた。
もはや、逃げ場などなかった。
いや、逃げたくなどなかったのだ。
この顔の半分が崩壊した美しき暗殺者は、僕の過去であり、僕の呪いであり、そして僕をこの退屈な世界から切り離してくれる唯一の「神様」だった。
九度山の夜が、白み始めていた。
障子の隙間から差し込む薄明かりが、血と泥に塗れた僕たちの姿を、残酷なほど美しく照らし出している。
僕は彼女の伽羅の香りに溺れながら、やがて来るであろう、世界が再び巨大な暴力の炎に包まれるその日を、ほんの少しだけ待ち望んでいる自分に気づいていた。
僕たちは、もはや二人で一つの、歪な生き物へと変態を遂げていたのだ。




