第03章:月下の殺陣、血の匂い
紀伊の山々が太陽を飲み込み、完全な夜が訪れると、世界は輪郭を失って巨大な静寂の底へ沈んでいく。
昼間、僕と才蔵を包み込んでいたあの鬱蒼とした原始林は、今はもう視界にはない。だが、その圧倒的な質量と湿気は、濃密な夜気となって九度山の古い屋敷の隙間から這い入り、部屋の空気をじっとりと重くしていた。
縁側の板敷きには、雲の切れ間から差し込む月光が、青白い長方形の池を作っている。その光の境界線は鋭く、光の当たらない部分は、触れれば手が切れそうなほどの絶対的な漆黒だった。
僕は自室の畳の上に薄い布団を敷き、ただ天井の木目をぼんやりと見つめていた。
眠りにつくことなど、到底できそうになかった。
僕の右手には、まだ昼間のあの「熱」が残っていた。
苔むした倒木の上。巨大なシダの葉が落とす斑な影の中。才蔵の焼け爛れた右頬の、ザラザラとした硬い感触と、そこから伝わってきたマグマのような体温。そして、彼女の唇の柔らかさと、僕の傷口を舐め上げた熱い舌の記憶。
目を閉じると、むせ返るような伽羅の香りと、彼女の白い胸の谷間が鮮明にフラッシュバックし、下腹部が引き攣るように熱を帯びる。
「……狂っている」
闇に向かって、音にならない声で呟いた。
僕の狂気か。それとも彼女の狂気か。もはやその境界線すら曖昧に溶け出していた。
「大助様。寝付けませんか」
唐突に、部屋の隅の最も濃い闇の中から、絹を裂くような声がした。
気配など全くなかった。そこに人がいると認識した瞬間に、声だけが鼓膜に直接滑り込んできたのだ。
僕は身を起こし、声のした方へ視線を向けた。
月光が斜めに差し込む限界のライン。そこに、夜と同化するようにして才蔵が正座していた。
彼女は昼間の泥汚れなど微塵も感じさせない、漆黒の装束に身を包んでいる。顔の右半分は布で覆われ、剥き出しになった左半分の美しい顔だけが、青白い月の光を受けて陶器のように静かな光を放っていた。
「……才蔵。休んでいなかったのか」
「私はあなたの影です。影が主より先に眠ることはありません」
彼女の左目が、甘く細められたのが分かった。
彼女は音もなく立ち上がると、畳の上を滑るように歩み寄り、僕の布団のすぐ傍らに座った。そして、冷たい指先で僕の乱れた前髪をそっと撫で上げた。
「昼間の疲れが出たのでしょう。少し熱がありますね」
「……いや、平気だ」
「強がらなくていいのですよ。私には分かります。坊やの小さな心音も、血の巡りも、呼吸の乱れも……すべてが、私の手のひらの中にあるのですから」
彼女の声は、夜の静寂の中で不道徳なほど甘く響いた。
才蔵は身を屈め、僕の顔のすぐ上に自分の顔を覆い被せてきた。彼女の冷たい吐息が僕の唇に触れる。布で隠された右頬の奥から、チリチリと焼け焦げるような熱が伝わってくるような気がした。
「さあ、目を閉じて。私が子守唄の代わりに、あなたの鼓動を数えてあげましょう。一つ、二つと……あなたが安心するまで、ずっと」
彼女の左手が、僕の胸元へと滑り込もうとした。
その時だった。
ピタリ、と。
才蔵の動きが、空中で完全に停止した。
それは、まるで精巧な絡繰のぜんまいが唐突に切れたかのような、不気味なほどの硬直だった。僕に向けられていた甘い眼差しから、瞬時に「女」の感情が消え失せた。いや、人間としての感情のすべてが蒸発し、純粋な「殺意の装置」へと切り替わったのだ。
「……才蔵?」
僕が声をかけようとした瞬間、彼女の冷たい手が僕の口を強く塞いだ。
「――静かに」
氷点下の声。
次の瞬間、僕は彼女の視線が、縁側の外、月の光が落ちる庭の奥の「闇」に向けられていることに気づいた。
風が止んでいた。
夜の森が常に発している、虫の音や、葉擦れの音、小動物が枯れ葉を踏む微かなノイズ。それらが、まるで巨大な布を被せられたように、完全に消失していた。
自然が息を潜めている。異物の侵入に対して。
「浅野の犬が三匹。……いや、四匹か。風下から腐った土の匂いをさせてやって来たな」
才蔵は僕の口から手を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の右手が、背中に回る。カチャリ、と微かな金属音がして、抜き身の小太刀が月光を反射して青白く光った。
「大助様。布団から出ないでくださいね。……あなたの美しい目に、汚いものを見せるわけにはいきませんから」
言うや否や、才蔵の姿が掻き消えた。
いや、消えたのではない。人間の動体視力が追いつかない速度で、縁側から庭へと飛び出したのだ。
ズチャッ!
直後、庭の暗がりから、水風船を力任せに踏み潰したような、ひどく湿った破裂音が響いた。
僕は反射的に布団を跳ね除け、縁側へと転がり出た。
網膜に飛び込んできたのは、月明かりの下で繰り広げられる、完璧なまでに残酷な「舞い」だった。
庭の苔の上に、黒装束の男が一人、不自然な角度で倒れ込んでいた。首の動脈から、まるで黒い墨汁のような血が、月光に向かって高く噴き出している。
その血の飛沫の向こう側に、才蔵が立っていた。
彼女の小太刀は、すでに男の頸動脈を正確に切断し、そのままの勢いで振り抜かれていた。刃には一滴の血も残っていない。
「ヒッ……!」
残りの三人の密偵が、息を呑む音が聞こえた。
彼らもまたプロの忍びであるはずだ。だが、才蔵の圧倒的な速度と、人間性を欠落させた殺気の前に、完全に気圧されていた。
「遅い。息遣いも、足運びも、すべてが三流だ」
才蔵の冷たい声が庭に響く。
彼女の体が、再びブレた。
「散れ!!」
密偵の一人が叫び、同時に三方向に散開しようとした。
だが、才蔵は彼らが動くよりも早く、その内の一人の懐に潜り込んでいた。
時間が奇妙に引き伸ばされる。
才蔵のしなやかな体が、極限まで沈み込む。彼女の左顔の美しい輪郭が月光に照らされ、無表情のまま小太刀を下から突き上げる。
ゴキッ、という鈍い音。
刃が、男の顎の下から脳天へ向かって、柔らかい肉と硬い頭蓋骨を正確に貫通した音だった。
男は悲鳴を上げる間もなく、白目を剥いて痙攣を始める。才蔵は刃を引き抜くことすらせず、男の体を蹴り飛ばして小太刀ごと放棄した。
「化け物め……ッ!」
残る二人が、同時に才蔵に向かってくないを投げつけた。
しかし、才蔵はその場から一歩も動かなかった。彼女は右手で、自らの黒装束の帯に隠されていた極細の鋼線を弾いた。
シュンッ!!
空気を切り裂く高周波の音が鳴る。
投げられたくないが、見えない壁に弾かれたように軌道を変え、土に突き刺さる。
それと同時に、向かってきていた密偵二人の動きが、ピタリと止まった。
彼らの首には、月光を反射して銀色に光る細い線が、深く食い込んでいた。
「……ぁ、が……」
男たちが、喉を掻き毟るように両手を首へ持っていく。だが、もう遅い。
才蔵が、一切の感情を交えずに、手元の鋼線を強く引いた。
ズブブブッ!!
肉が裂け、頸椎が擦れ合うおぞましい音が、静寂の庭に響き渡った。
二人の男の首から上半分が、完全に胴体からずり落ち、ゴトリと音を立てて苔の上に転がった。切断面から、信じられない量の血液が、ポンプで押し出されたように噴出する。
ドクドクと湧き出す赤い液体は、青白い月光の下では、まるで不吉な黒い泥のように見えた。
終わった。
ほんの数十秒の出来事だった。
庭には、首を失った三つの肉塊と、脳天を貫かれた一つの死骸が転がっている。むせ返るような鉄と排泄物の匂いが、夜の冷気と共に縁側の僕の鼻腔を激しく打った。
僕は、そのあまりにもグロテスクで、生々しい死の光景を前に、恐怖で胃液が逆流しそうになっていた。震えが止まらず、足の力が抜けて縁側の柱に縋り付く。
「……あぁ、だから言ったのに。布団から出てきては駄目だと」
血の海の中央に立つ影が、ゆっくりと振り返った。
才蔵だった。
彼女の黒装束には、夥しい量の返り血が浴びせられていた。月光に照らされた彼女の左頬にも、黒い血の斑点が点々と飛んでいる。
先ほどまでの、冷酷な殺人機械の顔ではない。
僕を見た彼女の目は、途端に熱を帯び、甘く、とろけるような「牝」のそれへと切り替わっていた。
彼女は、足元の死骸など路傍の石ころであるかのように無造作に踏み越え、縁側に座り込む僕の元へと歩み寄ってきた。
「才、蔵……」
「ごめんなさい、大助様。見たくないものを見せてしまった。私がもっと早く片付けていれば、あなたの美しい瞳を汚さずに済んだのに……」
彼女は僕の前に跪くと、血に染まった両手で、僕の震える両頬を包み込んだ。
ひっ、と僕の喉から短い悲鳴が漏れる。
生温かい他人の血の感触。そして、強烈な鉄の匂い。その奥底から、彼女自身の甘い伽羅の香りが立ち昇ってくる。
「震えているのですね。可哀想に。こんなに怯えて……。でも、もう大丈夫ですよ。害虫はすべて駆除しました。誰も、あなたの眠りを妨げさせはしない。誰も、私からあなたを奪わせはしない」
才蔵は、血塗れの顔を僕の首筋に擦り寄せてきた。
死の匂いを纏った彼女の冷たい唇が、僕の頸動脈の上を這う。先ほど、彼女が男たちの首を正確に刈り取ったその場所に、今は熱を帯びた口付けが落とされている。
「あぁ……坊やの血は、あんな汚い豚どもとは違う。なんて力強くて、高貴な音を立てて流れているのだろう。この脈動を感じているだけで、私は……自分が生きているのだと実感できる」
彼女の右顔を覆っていた布が、激しい動きでずり落ちていた。
焼け爛れた赤黒いケロイドの肉が、月光の下で生々しい凹凸を晒している。その傷跡にも、敵の血がべっとりと付着していた。
美しい左顔と、醜悪な右顔。
純白の肌と、黒い血。
生と死の境界線を完全に踏み躙った彼女の姿は、この世の何よりも恐ろしく、そして、何よりも妖艶だった。
「才蔵……、血が……僕にも……」
僕の抗議の言葉は、またしても弱々しい吐息に変わってしまった。
恐怖しているはずなのに、僕の体は彼女から逃げようとしていない。むしろ、この血塗れの腕の中に抱きしめられることで、奇妙な安堵感すら覚え始めている自分がいた。
圧倒的な暴力による「保護」。
それは、世界全体が敵に回ろうとも、彼女だけは僕のために世界を殺してくれるという、絶対的な証明だったのだ。
「血が付きましたか? それはいけない。私が綺麗に舐め取ってあげましょう」
才蔵は恍惚とした笑みを浮かべ、僕の頬に付いた敵の血を、自らの舌でゆっくりと舐め上げた。
ゾクリと、背筋を悪寒と快感が同時に駆け抜ける。
「ん……ふふっ。坊やの肌についた血は、甘い味がする。ねえ、大助様。あなたは私のものだ。この世界で、私だけがあなたを傷つけ、私だけがあなたを癒すことができる。……そうでしょう?」
彼女の左目が、狂気的な執着を帯びて僕を射抜く。
その瞳の奥には、僕を永遠に自分の箱庭に閉じ込めようとする、底知れぬ暗い欲望が渦巻いていた。
僕は、彼女の血塗れの背中に、ゆっくりと自分の両腕を回した。
濡れた黒装束の感触と、その下にある熱い肉体の起伏。
「あぁ……そうだよ、才蔵。僕は……」
僕は自分が何を口走っているのか、もう分からなかった。ただ、この狂った夜の中で、彼女の体温だけが唯一の真実だった。
庭では、首の無い死骸たちが月光の下で静かに冷たくなっていく。
縁側では、死神のような女忍びが、主人である少年を血まみれの腕で抱きしめ、狂ったように接吻の雨を降らせている。
月は、その全てを冷ややかに見下ろしていた。
九度山の夜は、あまりにも美しく、そして残酷な血の匂いに満ちていた。




