第02章:半分だけの絶世
紀伊の深い山々は、それ自体が脈打つ巨大な内臓だった。
空を完全に遮断する樹齢数百年から千年に及ぶ巨杉の群れ。その根元では、陽の光を生涯知ることのないシダ植物が、暗緑色の鋭い葉を毒々しいまでに広げている。むき出しになった木の根は、まるで巨大な蛇が互いに絡み合い、地中で窒息して硬直したかのように地表を這いずり回っていた。
ここは九度山のさらに奥、人間の理が及ばない手付かずの原始林だ。
倒木は分厚いビロードのような苔に覆われ、そこから名も知れぬ粘菌が黄色や赤の鮮やかな斑点を咲かせている。死と再生が極めて暴力的な速度で繰り返されるこの空間では、人間という存在はあまりにも脆弱で、異物でしかなかった。
僕は、その巨大な内臓の襞を縫うようにして、泥だらけの急斜面を這い登っていた。
「はっ……、あ、ぐ……」
肺が千切れそうだった。吸い込む空気は水底のように重く、腐葉土と古いバクテリアの匂いが甘く鼻腔にへばりつく。膝はとうに限界を超え、手をつくたびに鋭い小枝や岩の破片が手のひらの皮膚を裂いた。血が滲み、泥と混ざって黒い染みになる。
つい半刻前まで、僕は才蔵によってこの地獄のような斜面を「獲物」として追われていた。
彼女の訓練は、常に実戦であり、殺戮のシミュレーションだった。音もなく木々を飛び移り、僕の死角から正確に石や小太刀の峰を叩き込んでくる。恐怖と痛みで視界が狭窄し、ついに僕が斜面を滑り落ちて太い木の根に背中を打ち付けた時、本日の「狩り」は唐突に終わりを告げた。
「……ここまでだ」
頭上から降ってきたのは、木漏れ日を背に受け、完全な逆光の中で黒い輪郭だけを浮かび上がらせた才蔵だった。
彼女は重力など存在しないかのように、音もなく僕の目の前の苔むした倒木に降り立った。微かな足音すら、分厚い苔がすべて吸収してしまう。
僕の荒い呼吸だけが、静寂な森に無様に響いていた。
全身が汗と泥に塗れ、体温は異常に高いのに、極度の疲労で指先は氷のように冷え切っている。僕は仰向けのまま、動くことすらできなかった。
そんな僕を見下ろす才蔵のシルエットが、ゆっくりと形を変えた。
冷徹な暗殺者としての「直線」で構成されていた彼女の輪郭が、ふわりと崩れ、ひどく柔らかで曲線的なものへと変貌したのだ。
光の角度が変わり、深い森の暗がりの中に、彼女の顔が浮かび上がる。
「あぁ……私の可哀想な坊や。よく頑張ったね」
先ほどまでの氷点下の声はどこにもない。そこにあるのは、鼓膜の奥を直接舌で舐め回されるような、過剰に甘く、粘着質な女の声だった。
才蔵は僕の傍らに膝をつくと、濡れた黒装束の膝を泥に汚すことも厭わず、僕の上半身をそっと抱き起こした。
「痛かっただろう? 苦しかっただろう? 偉い子だ、本当に。私の厳しい躾けによく耐えてくれた」
彼女の冷たい手が、僕の熱を持った頬を包み込む。
その瞬間、森の湿気とは全く違う、彼女特有の匂いが僕の鼻腔を占拠した。血の匂いと、微かな汗、そして伽羅の香木が混ざり合った、頭がクラクラするほど濃厚な「牝」の匂い。
彼女の顔が近づいてくる。
左半分は、この鬱蒼とした原始林の泥汚れなど一切寄せ付けない、陶器のように滑らかで透き通るような白。
そして右半分は、まるでこの森の古木の樹皮のように、赤黒くひび割れ、盛り上がったケロイドの肉。
木々の隙間から落ちる一条の光が、スポットライトのように彼女の顔を斜めに切り裂き、その完璧な美しさと凄惨な傷跡のコントラストを、残酷なまでの映像美として僕の網膜に焼き付けた。
美しい。
僕は、震える心の中でそう直感していた。
かつては直視することすら恐ろしかったその火傷の痕が、今はなぜか、彼女の奥底にある生々しい熱量と執着の象徴に思えてならなかった。
「手が……血だらけじゃないか。いけないな、こんなに傷をつけてしまって」
才蔵は、僕の泥と血に塗れた右手をそっと取り上げた。
次の瞬間、彼女は自らの顔を覆い隠す布を乱暴に引き下げ、その薄く艶やかな唇を、僕の手のひらの傷口に押し当てたのだ。
「あっ……!」
ちゅっ、という卑猥な水音が、静寂の森に響いた。
彼女は、泥が混じっていることなど気にも留めず、僕の傷口から滲む血を、チロチロと熱い舌先で舐め取っていく。
傷口を直接舐められるピリッとした痛みと、彼女の口腔内の生温かい粘膜の感触。その二つが脳内でショートを起こし、背筋に強烈な電流が走った。
「ん……、ふっ……。坊やの血は、まだ温かいね。こんなに甘くて、綺麗な味がする……」
彼女は恍惚とした表情を浮かべ、僕の手のひらを自らの頬――それも、焼け爛れた右半分の頬――に強く押し当てた。
ザラザラとした硬いケロイドの感触が、僕の手のひらの神経をチリチリと刺激する。彼女の体温は異常に低いはずなのに、その傷跡の奥底からは、マグマのような熱が伝わってくるような錯覚に陥った。
「才蔵……、もう、いい。自分で洗うから……」
僕は掠れた声で抵抗しようとした。だが、声帯はうまく震えず、抗議の言葉はひどく甘えたような響きになってしまった。
才蔵は僕の手を離さず、さらに強く僕の体を自分の胸に引き寄せた。
「駄目だよ。坊やは、何もしなくていい。私が全部綺麗にしてあげる。全部、私が舐めて塞いで、癒してあげるから」
彼女の黒装束の胸元が、僕の顔に押し付けられる。
薄い布越しに伝わる、豊かな双丘の感触。そこには確かな心臓の鼓動があった。トクン、トクンという、暗殺者とは思えないほど早くて力強いリズム。それは僕の心拍と完全に同期し、僕の理性を根底から溶かしていく。
彼女の左手が、僕の濡れた髪を梳き、耳たぶを優しく撫でる。
もう一方の手は、僕の背中に回り、まるで赤子をあやすように一定のリズムでトントンと叩いていた。
「この森は冷える。私の体温を分けてあげよう。坊やが風邪を引いたら、私は自分を許せなくなるからね」
才蔵はそう囁くと、黒装束の襟元を自ら大きく広げた。
鬱蒼とした緑と黒の森の背景の中に、突如として真っ白な肌が露出する。首筋から鎖骨、そして豊かな胸の谷間へと続く滑らかなライン。しかし、そこにもまた、炎が嘗め回した残酷な赤い火傷の痕が、美しい白磁を叩き割ったかのように生々しく刻み込まれていた。
彼女はその肌に、僕の顔を直接押し当てた。
「ん……っ!」
息が詰まる。
冷たいはずの彼女の肌は、僕と密着した部分から急速に熱を帯び始めていた。泥だらけの僕の衣服が、彼女の純白の肌を汚していく。だが才蔵はそれを喜ぶかのように、僕の頭を強く胸に抱き込み、深く、甘い溜息を吐いた。
「あぁ……坊や。私の坊や。誰にも渡さない。徳川の犬どもにも、御館様にも……。お前は、私だけのものだ。私のこの傷と同じように、私の一部になってしまえばいい……」
狂気だった。
これは護衛でもなければ、主従の忠誠でもない。
自分の欠落した半分を埋めるために、僕という存在を物理的にも精神的にも飲み込んでしまおうとする、巨大な蛇のような愛情。
僕はこの巨大な原始林という檻の中で、さらに才蔵という女の熱い肉体の檻に囚われていた。
だが。
僕は、彼女を押し除けることができなかった。
森の冷気の中で、僕の体を包み込んでいるこの圧倒的な「母性」と、毒のように甘い「エロス」の混合物に、僕の肉体が完全に降伏しつつあったからだ。
偉大な父のプレッシャーも、敗将の息子という呪縛も、ここにはない。
あるのはただ、僕の傷を舐め、僕の泥を自らの肌で拭い、僕のためなら平気で世界を殺すであろう、一人の狂った女だけだ。
僕は、彼女の胸に顔を埋めたまま、ゆっくりと自分の右手を動かした。
そして、彼女の背中に腕を回し、その細くしなやかな体を、抱きしめ返した。
ビクッ、と。
才蔵の体が、わずかに跳ねた。
「……坊や?」
彼女の声が、初めて微かに震えた。
いつも一方的に僕を甘やかし、支配している彼女が、僕からの能動的な「接触」に戸惑いを見せたのだ。
僕は顔を上げ、彼女の瞳を見つめ返した。
透き通るような左目と、赤く充血した右目。
その両方に、僕の泥だらけの顔が映っている。
「才蔵」
僕は、かつてないほど低い、自分の声とは思えない声で彼女の名を呼んだ。
「もっと……温めてくれ」
それは、主としての命令でも、子供の甘えでもなかった。
明確な、雄としての要求だった。
才蔵の目が大きく見開かれた。
完璧な暗殺者の仮面が音を立てて崩れ落ち、その下から、激しい劣情と歓喜に濡れた、ただの一人の女の顔が露わになる。
彼女の美しい左頬が紅潮し、焼け爛れた右頬の肉が、抑えきれない笑みによって歪に引きつった。
「あぁ……」
才蔵は、壊れた人形のように震える声で喘いだ。
「あぁ、あぁ、大助様……! 私の、私の可愛い坊や……っ!」
彼女は僕の顔を両手で挟み込み、狂ったように接吻の雨を降らせた。
額に、鼻筋に、頬に、そして泥のついた唇に。
唇が重なるたびに、彼女の舌が乱暴に僕の口腔へ侵入し、唾液と血の味が混じり合う。森の静寂の中で、二人の粘膜が交わる生々しい水音だけが、不道徳なほど大きく響き渡った。
頭上では、千年の時を生きる巨杉の枝葉が風に揺れ、ザワザワと不気味な音を立てていた。
まるで、この原始林という巨大な生き物が、僕たちの禁断の交わりを嘲笑い、同時に祝福しているかのように。
光と影が斑に交錯する苔のベッドの上で、僕は顔のない伴女に完全に絡め取られていた。
いや、違う。
僕が、彼女を絡め取ったのだ。
この息苦しいほど濃密な緑の底で、僕たちはもはや主従でも師弟でもなく、ただ互いの熱を貪り合う二匹の獣へと堕ちていった。
そして僕は、この甘美な地獄の底で生きることを、初めて自分自身の意志で選んだのだった。




