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死ねない僕と、顔のない伴女  作者: 光闇居士-Twilight Master


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第01章:腐敗する雨の底で、半分だけの女が嗤う

紀州・九度山の雨は、いつも死骸の匂いがした。


空から降ってくる水滴自体が腐っているわけではない。だが、この山に鬱蒼と群生する羊歯(しだ)や、何百年も積み重なった落ち葉の層に雨が染み込むと、途端にそれは土の底で眠る無数の有機体が発酵する、甘ったるくも陰鬱なガスとなって立ち昇るのだ。


視界は常に白と灰色のグラデーションに閉ざされ、肺に吸い込む空気は粘度が高く、ひどく重い。ここにいると、自分が生きたまま巨大な泥の胃袋の中でゆっくりと消化されているような錯覚に陥る。


「……退屈だ」


僕は、縁側の湿った板敷きに寝転がりながら、ぽつりと呟いた。

軒先から垂れる雨垂れが、庭のぬかるみに規則的な波紋を作っては消していく。チャプ、チャプ、という単調なリズム。それは、僕の人生の残り時間を刻むメトロノームのようだった。


関ヶ原という、世界が真っ二つに割れたあの巨大な暴力の祝祭から、すでに十数年。敗者となった真田家は、この陰鬱な山村でただ「生かされている」だけの存在だった。


父、真田幸村。

天下にその名を轟かせた戦術の天才。僕の血の繋がりなどという生物学的な事実を、暴力的なまでのカリスマ性で上書きしてしまう男。だが、今の父は、昼間から安い酒を煽り、焦点の合わない目で庭の苔を見つめているだけの、ただの初老の男に過ぎない。

いや、それは擬態だ。僕にはわかる。父の皮膚の下では、未だに戦場を焦がしたあの熱い血が、出口を求めてドロドロと沸騰している。彼の中の「戦争」は、一日たりとも終わっていないのだ。


だからこそ、息苦しい。

巨大なエンジンの横で、使い道のない予備の歯車として転がされているような感覚。偉大なる父の「嫡男」という肩書きは、僕にとって誇りではなく、首に食い込む冷たい鉄の首輪でしかなかった。僕は父のようにはなれないし、なりたくもなかった。こんな湿った泥の中で、歴史という名の無意味なシステムの部品として錆びついて死んでいく。それが僕の運命だと思っていた。


その日も、空は濁った鉛色をしていた。

夕刻に近い時間帯。雨足が少し強まり、周囲の輪郭が水墨画のように曖昧に溶け出し始めた頃だった。


音もなく、背後の障子が滑るように開いた。


「大助」


父の、アルコールと微かな鉄の匂いが混じった低い声。僕はゆっくりと体を起こし、薄暗い座敷を振り返った。

父は胡坐をかき、その傍らには、一つの「影」が傅(かしず)いていた。


それは、人間というよりも、濃密な闇の一部を切り取って人の形に固めたような存在だった。濡れた黒装束。畳に滴る水滴が、微かに赤い色を帯びているように見えたのは気のせいだろうか。漂ってくるのは、この山の腐葉土の匂いとは全く違う、もっと鋭角的で、金属的で、そしてむせ返るような血の匂い。


「今日から、お前の影となる者だ。……才蔵、面を上げよ」


父の短い命令に従い、その影がゆっくりと頭を上げた。

薄暗い座敷の中で、僕は呼吸を止めた。網膜に焼き付いたその造形を、脳が処理するのに数秒の時間を要したからだ。


女だった。

年齢はわからない。僕よりいくつか上かもしれないし、ずっと年上かもしれない。だが、そんなことはどうでもよかった。問題は、彼女の「顔」だった。


左半分は、息を呑むほど美しかった。

冷たい月光をそのまま固めたような、透き通るように白い肌。切れ長の瞳の奥には、感情の波を一切感じさせない、ガラス玉のような無機質な光が宿っている。薄く形良い唇は、血の気を失って青白い。それは、人間の女というより、精巧に作られた死体、あるいは幽霊の類にしか見えなかった。


だが、僕の目を強烈に惹きつけて離さなかったのは、彼女の右半分の顔だった。

顔の中心線を境にして、世界は完全に崩壊していた。

右の額から頬、そして首筋にかけて、彼女の肌は激しい熱によってグズグズに溶け、引きつり、赤黒いケロイド状の肉の塊と化していた。かつては左と同じように美しかったであろう皮膚は、暴力的な炎に舐め回され、醜悪な凹凸の集合体となって固まっている。右の目はその肉の引きつれによって不自然に吊り上がり、白眼に赤い毛細血管を走らせながら、僕をじっと見据えていた。


完璧な美と、絶望的な醜悪。

静謐な冷たさと、暴力の痕跡。

その強烈なコントラストが、彼女という一つの顔の上で、奇跡的なバランスを保って同居している。僕は恐怖を感じるよりも先に、そのあまりにも生々しい肉体の「欠損」に、名状しがたい倒錯的な魅力を感じてしまっていた。


「霧隠(きりがくれ)、才蔵と申します」


女の口が動いた。

声は、見た目の異様さとは裏腹に、驚くほど澄んでいた。絹の糸を弾いたような、冷たくて甘い、脳の髄液を直接撫でられるような声。


「才蔵は、もと伊賀の忍びだ。関ヶ原の折、私の命で動いていた。……この傷は、その時についたものだ」


父は淡々と事実だけを口にした。


「徳川の犬どもが、最近この九度山の周囲をうろついている。私の首を狙う分には構わんが、万が一にもお前に累が及ぶのは避けねばならん。大助、今日からこの才蔵を、お前の『守り刀』とする。お前が寝る時も、厠へ行く時も、片時も離すな」


「……護衛、ですか」


僕は、乾いた唇を舐めて答えた。


「僕のような者に、護衛など必要ありません。命を狙われるほどの価値が、僕のどこにあるというのですか」


自嘲気味に笑った僕の言葉を、父は無視した。彼はただ才蔵に向かって、一つだけ短く命じた。


「大助を死なせるな。何があろうとも」


「御意」


才蔵は深く頭を下げた。焼け爛れた右頬の肉が、畳の影に沈んで見えなくなった。


父が立ち上がり、奥の部屋へと消えていく。

薄暗い座敷に、僕と、顔の半分が崩壊した女忍びだけが残された。

外では、相変わらず陰鬱な雨が降り続いている。


沈黙が、重く部屋を満たした。

僕は彼女にどう接していいかわからず、とりあえず視線を逸らし、再び縁側の方を向こうとした。


その瞬間だった。


「坊や」


背後から、ひどく甘ったるい、そして生々しい熱を帯びた声が鼓膜を打った。

振り返る暇もなかった。僕の背中に、冷たくて柔らかい何かが、べったりと張り付いたのだ。


「ひっ……!」


僕は短い悲鳴を上げ、体を硬直させた。

才蔵だった。彼女は音もなく僕の背後に回り込み、背中から僕に覆い被さっていた。濡れた黒装束の冷たい感触が、僕の薄い着物を透かして肌に直接伝わってくる。彼女の細い両腕が、蛇のように僕の首に巻きつき、胸元で交差した。


「才、蔵……? 何を……」


「あぁ、なんて細くて、折れそうな体……」


耳元で囁かれる声。先ほどの、父の前で見せた機械のような冷徹さは微塵もない。そこにあるのは、過剰なまでの熱量と、ひどく粘着質な愛着だった。

彼女の顔が、僕の首筋にすり寄せられる。左の頬の冷たく滑らかな感触と、右の頬のザラザラとした、熱を持ったケロイドの感触。その二つの全く異なる触覚が、同時に僕の皮膚を撫で回す。


「いい匂いがする。泥と血の匂いが染み付いていない、綺麗な坊やの匂い……。私のような穢れた化け物が、こんなにも純粋な命をお預かりできるなんて……」


彼女は、まるで貴重な宝石か、あるいは壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、僕の首筋に何度もチュッ、チュッと微かなリップ音を立てて接吻を落とした。

その異常なまでの甘やかしと執着。僕は混乱し、呼吸が浅くなるのを感じた。


「や、やめてくれ。離して……!」


僕は必死に彼女の腕を解こうとした。だが、彼女の細い腕は、見た目からは想像もつかないほどの恐るべき膂力(りょりょく)で僕をホールドしており、ビクともしない。


「嫌? 嫌なのかい? でも、御館様(おやかたさま)は仰った。『片時も離すな』と。私はお前の影。お前の守り刀。お前の肌の熱を、この爛れた肌で感じていなければ、私は不安で狂ってしまいそうになるんだ……」


才蔵の声は、甘く、ねっとりと僕の鼓膜に絡みつく。

その瞬間、僕は強烈な違和感と同時に、ある種の「おぞましさ」を感じた。彼女は僕を護衛の対象として見ているのではない。もっと歪んだ、愛玩動物か、あるいは自分の一部のように扱っているのだ。


「いい子だ。怖がらなくていい。この才蔵が、お前のすべてを守ってあげる。食事の世話も、着替えも、寝所の温めも、夜の……あらゆることも。私が全部、お前の手足となって尽くしてあげるからね」


彼女の冷たい指先が、僕の襟元から入り込み、鎖骨のあたりを這うように撫でた。ゾクリと背筋に冷たい電流が走る。

それは、明確な「女」からの接触だった。

焼け爛れた半分だけの顔を持つ、年齢不詳の殺人機械。その中身が、これほどまでに濃厚で、息苦しいほどの母性と狂気じみた愛情(あるいはエロス)で満たされているという事実。


「わかったら、大人しくしていなさい。坊やは、ただ私に守られ、私に甘やかされていればいいんだよ」


彼女の左目が、僕の横顔をじっと見つめているのがわかった。

その瞳孔の奥には、僕を絶対に逃がさないという、暗く深い淵のような執着が渦巻いている。


僕は、その日から、この奇妙で恐ろしい女の「所有物」になった。


◆


だが、才蔵の甘やかしは、あくまで「平時」における一面に過ぎなかった。

彼女の真の恐ろしさ、そして彼女が何故、父から絶大な信頼を寄せられているのかを知るまでに、そう時間はかからなかった。


数日後の朝。雨が上がり、九度山に真っ白な霧が立ち込めていた。

視界が数メートル先までしか利かない、白い海のような朝。


「大助様、少しばかり裏山へ散歩に出ましょうか」


才蔵は、いつものように僕の着物の帯を甲斐甲斐しく直しながら、甘い声でそう提案した。彼女の右顔は布で覆われ、美しい左顔だけが朝の光に白く透けている。僕は彼女の過剰な世話焼きにすっかり辟易していたが、逆らうこともできず、ただ黙って頷いた。


裏山の獣道を歩く。霧が肌にまとわりつき、息を吸うたびに肺が冷たくなる。

才蔵は僕の半歩後ろを、まるで音のない幽霊のように歩いていた。


「才蔵、どこまで行くんだ。霧が濃くて何も……」


僕が振り返ろうとした、その瞬間だった。


ドスッ!


という鈍い音と共に、僕の視界が反転した。

顎に強烈な衝撃。土の味。

気づいた時、僕はぬかるんだ泥の上に這いつくばっていた。才蔵に、背後から蹴り倒されたのだ。


「……ッ!? な、何を……!」


痛みに呻きながら顔を上げると、そこには、いつもの甘ったるい笑みを浮かべた過保護な女はどこにもいなかった。

見下ろす才蔵の瞳は、氷点下にまで冷え切っていた。その眼光は、人間を人間として見ていない、純粋な「殺意の装置」のものだ。


「遅い」


才蔵の声は、刃物のように鋭く、一切の感情を排していた。


「今、私が敵の忍びであったなら、坊やの首はとうに胴体から離れ、この泥の中を転がっている。気配を探る努力すらしていない。ただ漫然と歩いているだけ。……それが、真田の嫡男の姿か?」


「ふざけるな! いきなり何を……!」


僕は怒りに任せて立ち上がろうとした。しかし、その動きすら彼女には見切られていた。

才蔵の右足が跳ね上がり、僕の鳩尾(みぞおち)を正確に蹴り上げた。


「カハッ……!」


肺の中の空気がすべて強制的に押し出され、僕は再び泥の中に頽(くずお)れた。胃液が込み上げ、激しく咳き込む。痛い。苦しい。頭の中が真っ白になる。


「立て」


冷徹な声が上から降ってくる。


「私はお前を守る。だが、それはお前をガラス細工のように飾っておくという意味ではない。戦場(ここ)は、無能を許さない。自分の身を最低限守る術を持たない者は、どれほど私が守ろうとしても、いずれは死ぬ。……御館様の息子ならば、泥の味くらい覚えておけ」


それが、師としての彼女の顔だった。

僕を愛玩動物のように甘やかす一面と、容赦無く暴力を叩き込み、生存の技術を骨の髄まで刻み込もうとする冷酷な調教者としての一面。


「さあ、立て。私が『敵』だ。殺す気でかかってこい」


才蔵は短刀を抜き、僕の目の前に放り投げた。

泥まみれの刃。僕は荒い息を吐きながら、震える手でそれを拾い上げた。


「……狂ってる」


僕は泥を吐き捨てながら、才蔵を睨みつけた。

しかし、彼女の顔の右半分を覆っていた布が、先ほどの動きでわずかにズレていた。そこから覗く、赤黒く焼け爛れたケロイドの肉。

その醜悪な傷跡を見つめた瞬間、僕の中で奇妙な感情が湧き上がった。


怒りでも、恐怖でもない。

この完璧な殺人機械が、かつて関ヶ原の業火の中で絶望的な痛みを味わい、肉を焼かれながらも生き延びたという、生々しい「生命の痕跡」。


痛い。苦しい。死にたくない。

そういう、泥臭くて、惨めで、人間らしい感情が、あの火傷の奥には確実に眠っているのだ。


僕は短刀を握り直し、雄叫びを上げて彼女に突進した。

もちろん、結果は明白だった。僕の刃が彼女に届くことはなく、手首を軽く捻り上げられ、三度、泥の中に顔から叩きつけられた。


「あぐっ……!」


肩の関節が悲鳴を上げ、視界がチカチカと明滅する。

もう指一本動かせない。完全な敗北。圧倒的な力の差。


僕が泥の中で荒い息を繰り返していると、不意に、頭上の殺気がスッと消え去った。

代わりに、僕の体を包み込んだのは、むせ返るような甘い伽羅(きゃら)の香りと、柔らかな肉体の感触だった。


「あぁ……可哀想に。痛かっただろう、私の可愛い坊や」


才蔵だった。

彼女は泥だらけの僕を抱き起こし、自分の胸に強く抱きしめていた。先ほどまで僕の鳩尾を蹴り上げていたのと同じ女とは到底思えない、甘く、とろけるような声。


彼女は着物の袖で、僕の顔についた泥を丁寧に拭い始めた。


「ごめんね、痛い思いをさせて。でも、これも坊やが死なないためなんだ。この世界は、弱さを許してくれないから……」


彼女の冷たい指先が、僕の腫れた頬をそっと撫でる。

その瞬間、僕は彼女の左顔の美しい輪郭と、右顔の引きつった火傷の痕を、至近距離で同時に見た。

彼女の胸の柔らかな膨らみが、僕の胸に押し付けられている。泥と血の匂いの中に混じる、強烈な女の匂い。


僕は、彼女に蹴り倒された痛みよりも、今、自分を抱きしめているこの「熱源」の生々しさに、頭がクラクラしていた。


師としての冷酷な暴力。

母のような、あるいは娼婦のような、息苦しいほどの甘やかし。

その極端な二面性のギャップが、僕の脳の神経回路をショートさせようとしていた。


「怪我はないかい? 骨は折れていないね? さあ、帰ろう。帰って、私が坊やの泥を洗い流してあげる。傷口を舐めて、綺麗にしてあげるからね……」


才蔵は僕の耳に唇を寄せ、吐息混じりにそう囁いた。

その瞬間、僕の中で、何かが決定的に「ズレ」た。


僕は、この顔の半分が崩壊した恐るべき暗殺者を、ただの護衛でも、師でもなく、明確に一人の「牝(めす)」として認識してしまったのだ。


泥に塗れた山の中で、僕は彼女の胸に抱かれながら、自分の下腹部に熱い血が集まっていくのを感じていた。

暴力と痛み、そして過剰な母性とエロス。

この歪な関係性が、退屈で死んだようだった僕の九度山での生活を、劇薬のように塗り替えていく。


霧が、僕たち二人を真っ白に包み込んでいた。

それはこれから始まる、血と泥と、焼け焦げた肉の匂いに満ちた、僕たちだけの狂った愛の逃避行の、ほんの序章に過ぎなかった。

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